前半から続く

短波通信施設

短波通信は昭和3年(1928)に海軍から譲り受けた短波送信機を使い試験通信が行われた。
谷恵吉郎大佐の設計による出力5kW水晶発振式送信機でした。
電波を出したのは短波送信所の方が早い。

昭和7年、当初は構内に短波専用局舎が作られ、本格的な通信が行われました。
RCA製短波送信機が使われました。

東京都調布市にある東京電気通信大学にある「UECコミュニケーションミュージアム」は無線機に関する日本有数の博物館で、多くの歴史的な無線機が展示されています。
依佐美の短波送信機がめぐりめぐってここにあるのではと期待したのですが、さすがに話はうまくないようで・・・





▲UECコミュニケーションミュージアムに展示されている古い無線機。
 詳しい説明がなかったのでよくわからないのですが、おそらく依佐美の無線局でもこのような装置が使われていたのでしょう。



▲構内の短波通信施設
 手前のメインの建物が本館、一番奥が長波送信室。
 間にやや左にずれて建っているのが短波送信室です。

装備されていた短波送信機はA型短波送信機が5台。

昭和11年に短波専用局舎が1km南方に建設されました。
現在は「小林クリエイト株式会社」の敷地となっています。



▲短波通信専用局舎



▲高さ85m の短波用自立式鉄塔が10本。木柱も約70本立てられた。

短波空中線(アンテナ)は水平タブレット2、ビーム空中線10だったそうです。

四日市長波受信所

依佐美送信所は電波の送信設備。
受信は三重県三重郡海蔵村(かいぞうむら)に設置された設備で行われました。

昭和3年(1928)3月に「海蔵村受信所」として竣工開局。
  9月より受信業務を行いました。
  依佐美が完成したのは翌年4月ですから、こちらの方が早く機能しました。
昭和5年(1930)に海蔵村が四日市に編入されたため「四日市受信所」と改称。
昭和13年(1938)に廃止。

長波受信機4台、短波受信機1台が設置され、
高さ85mの鉄塔が2本、60mの鉄塔が3本ありました。

依佐美の送信所と四日市の受信所は名古屋中央郵便局にあった名古屋無線電信局の設備からリモートコントロールされ交信が行われました。
3つの設備は専用の有線で結ばれていました。



▲名古屋無線電信局の様子は調べきれていないのですが、おそらくこのような雰囲気だったのでしょう。
左の写真はアメリカの国際無線通信局の1933年の写真。
右は日本のヨーロッパ向けの国際無線通信局の写真ですが、電話通信のようなので名古屋ではなく茨城県の八俣/名崎送信所のオペレータールームの写真かもしれません。

四日市長波受信所の施設は今どうなっているかというと、現在は完全に撤去されて、痕跡すら残されていません。
依佐美よりもずいぶん早くこの世から消え去ってしまっています。

おそらくこのあたりではないかと思います。
ここ です。

正確な場所を知っている方もおられると思いますが、ここは宝探しを楽しんでみましょう。

昭和23年の航空写真ではアンテナの敷地のようなものが写っています。
受信所の建屋はアンテナ敷地の右側のあたりにあったようです。



▲中央左右に走る直線がアンテナの敷地でしょうか

疑問点もいくつかあります。あるいはこれはアンテナの痕跡ではないのかもしれません。

・地図上での長さは810m 長波のアンテナだとすると短すぎます。
 なにせ長波は波長が17kmもあるので、1700m〜2400mはほしいところ。
 このアンテナ跡は短波アンテナの跡かもしれません。
 左側(西)にはアンテナが伸びていた雰囲気はありませんので可能性があるのは右側(東、海側)。
 アンテナの線を延長していってもそれらしい痕跡はみあたりません。

・方向が異なる
 依佐美送信所のアンテナの方向が東西の水平方向から時計回りに約60度すなわち東北東のヨーロッパの方向を向いているのに 四日市受信所ではほぼ東西の水平方向を向いています。
 もともとヨーロッパとの交信を目的に作られたのであれば、厳密に合わせるのが普通でしょう。
 国策で全国から候補地が選ばれたのであれば環境に合わせたということは考えられません。
 これも、後に建てられた短波用のアンテナである可能性もあるので、決定的な否定材料にはなりません。

 東南(右下)の方向でそれらしい施設であるNTT西阿倉川社宅、西阿倉川町の四日市拘置所、三ツ谷町のNTT三ツ谷ビルがありますが、これらを結ぶ線も依佐美アンテナの方向と微妙に異なります。

鉄塔が5本残っていましたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒壊し、撤去されたと記録には残っています。


 写真はhttp://www.city.kariya.lg.jp/school/yochu/rekisi/tettou/50nonazo/page0001.htmより

▲受信所 比較的小さな設備のようです。
 送信所ほどの大きな設備は必要なかったためでしょう。

正確な場所を特定するためにもう少し深堀り推理してみます。
四日市西阿倉川のあたりが候補地です。
昭和23年の航空写真に見える不自然な直線をアンテナの位置として考えます。



▲昭和23年の航空写真

最も可能性の高い現在のNTT西阿倉川社宅の敷地の中にはそれらしい建物はありません。
ちょっと外れた所に疑わしい建物Aがあります。
現在の敷地からはやや外れてしまいますが、かつては広大な土地があり、戦後に切り売りされたことを考えれば可能性はあります。

また、昭和23年の段階で建物が壊されていた可能性もあるため、敷地内に建物がないことは否定の決定打にはなりえません。

NTT西阿倉川社宅の敷地が四日市受信所だったという可能性に対する疑問点としては
・アンテナ跡地からちょっと距離がありすぎる。
  アンテナ跡までの距離が最短でも約100mあります。ちょっと遠すぎる。

 ただし施設の絵葉書を見ると なんとなくアンテナの距離と方向が「疑わしい建物A」という雰囲気はあります。

その代わりに新たな可能性が出てくるのはアンテナの右上にある不自然な敷地です。
「疑わしい敷地B」と名づけましょう。
ちょっと狭すぎるなという印象はぬぐえませんが、アンテナの敷地から不自然な線で結ばれているようないないような。
敷地の中にそれらしい建物は見当たりませんが、既に壊されてしまったのかも。
道路が迂回しているところなど、いかにも怪しい。
「可能性エリア」としてノミネートですな。



▲昭和50年(1975年)撮影の航空写真に「可能性エリア」を重ねてみると・・・

道路はまったく変化してしまっており、昔の痕跡はまったく消されてしまっています。
現在のこの付近の地図を見る限りはアンテナや建物の痕跡すら残されていません。
近くにNTTの社宅などがあったりしますので、ここが跡地なのかもしれません。

この道路と現在の道路とは近いので、場所の特定はやりやすい。

新たな可能性として浮かび上がるのはグランドの土地。
今ではここも住宅地ですが、かつては旧日本石油のグランドでした。
四日市コンビナートの誘致の土地提供のひとつと考えると可能性はあります。
グランドの下(南)の道路のラインがアンテナの方向と一致し、ちょっとあやしい。
昭和23年の写真を見ると、それらしい建物はありませんが、まとまった土地として売却されているところが可能性の根拠です。



▲これらを現代の地図に置いてみたのがこれ。

ここから先は現地調査ですね。

その後の勉強 追記

と、ここまで書いて・・・しばらくして・・・現地調査も未実施でしたが、2010年12月末にY氏よりメールをいただきました。
通信機器のプロで 各地のアンテナや無線局を訪ね歩いておられる方です。
氏のHP

ご指摘いただいたことは
●長波の受信アンテナは依佐美のような鉄塔に長いケーブルを渡したものではなく、
 1本の鉄塔を持つコンパクトで独立したアンテナが2箇所(本舎付近のアンテナを入れると3本)で構成されたものであること。
●日本無線史という本があり、四日市受信所やそのアンテナについて詳細の記載があること
●米軍の昭和20年の地図がHPで入手可能なこと。
●国土地理院の昭和12年の地図にも四日市受信所、アンテナが記載されており、
 氏はそれをとりよせたとのこと。
などなど多くのことを教えていただきました。

いただいた情報を整理してみるとこのようなことになります。

長波アンテナの構造

日本無線史には
「長波用空中線(アンテナ)はダブル・ゴニオ・アンテナ」
「ループアンテナやペリニ・トッシ・アンテナ 二箇を相手局 すなわち電波到来方向に沿って
受信波長の1/6 から 1/2 の距離で2組配置し
両アンテナによる受信電流をケーブルまたは架空線で受信所に導き、 これらを受信機に適当に結合すれば感度が増大し、指向性も尖鋭となる。」
と記載がある。

専門用語が出てきてよくわからなくなってしまうのですが、このような形状のアンテナが海近くの三ツ谷と 丘陵地の垂坂山付近にあったようです。



▲アンテナの形状はこのようなものでした。
 60m鉄塔1本と張り線などで構成。

アンテナと局舎とは地下ケーブルで接続されていました。
有効受信周波数は15.22kc(19.6km)〜 23.08kc(13km)
方向はドイツ ナウエン送信所の方向に向いていいました。

昭和11年(1936)に大阪無線電信所の小野受信所が新設されています。
長波受信機とアンテナ装置は 四日市受信所の廃止にともない小野受信所に移転されました。

短波アンテナの構造

日本無線史には
「短波用空中線はマルコニのユニホーム式ビーム (昭和5年1月完成 昭和12年12月廃止)
      水平ダブレット6面 ビーム空中線8面を備えていた。」
 とのこと。

 

▲四日市受信所の短波用アンテナ。85mの高さ
 マルコニのユニホーム式ビーム という形式。

鉄塔は85mの高さで、このような鉄塔が5本以上ありました。
この写真を見るとアンテナ列の下は道路のようになっています。
この道路がが昭和23年の航空写真に見える長さ810mの直線の正体でしょう。

アンテナと局舎の間の給電距離は最短で100m位(最大では400m位)となりますが、大規模受信所では珍しいことではないそうです。

現状はこのようになっています。



▲このあたりを左右に短波用アンテナのメンテナンス用道路が走っていました。



▲ちょうど上の白黒写真と同じような位置から現代の風景を撮る。
 痕跡も周辺の風景も全く変わってしまっています。



▲周辺の地形はこのようなゆるい斜面。四日市の市街地を見下ろす。
 ちょっと不思議なのはここは丘陵の頂上部分ではなく、中腹部分。更に高い部分は反対側にある。
 ここにアンテナを作ったのは先に局舎があり、後でアンテナを作ったためなのかもしれない。

長波アンテナの場所を探る

手がかりは2つ。 一つは AMS(米陸軍地図局)が作成した日本地図(軍事用) AMSの地図

戦争直後に今でも通用するような このようにきれいな地図が作られていたことは驚きですが
肝心の位置が他の情報と微妙にずれています。

この地図には 
@四日市無線受信所がおおよその位置として記載されている。
A海沿いのアンテナの位置記載。

残念ながら山側の垂坂山のアンテナの位置や短波アンテナのあたりが切れてしまっており位置がわかりません。

もう一つは
国土地理院の昭和12年測量の地図です。氏がとりよせたものを見せていただいた。
この地図は菰野(昭和13年発行)、四日市西部(昭和14年発行)、四日市東部(昭和15年発行)で 修正測量が昭和12年です。

これには
@四日市無線受信所の位置
A海沿いのアンテナの位置
B山側のアンテナの位置
が記載されています。

不思議なことに短波受信アンテナの位置が記載されていません。
その付近の位置は十分にカバーされているはずです。
鉄塔は使われていなくてもランドマークとなっているはずですから記載されない理由はありません。
戦時中は既に機能していない受信所でしたので軍事機密として削除されたこともなさそうです。
昭和12年12月に廃止、昭和34年に台風で倒壊したという記述もあるのでそこに存在していたことは確実なのですが・・・
われわれの前から現れたり消えたり不思議な四日市受信所です。

1).海沿いのアンテナ位置

海沿いのアンテナの位置は2つの地図の両方に記載されています。



▲米軍の地図による海側のアンテナ



▲昭和12年の国土地理院の地図による海側のアンテナ位置

不思議なことに2つの地図のアンテナの位置は1ブロック違っています。
また、昭和11年にはアンテナは小野受信所に移転したとすると既にこの場所にアンテナはなかったはずです。



▲現在の地図に2つの歴史地図にある海側の長波アンテナの位置を重ねてみると・・・



▲昭和23年(1948)の航空写真のその付近にはいずれの場所も田んぼも真ん中。
 アンテナらしい姿は見えません。

米軍の地図におそらく撤去されてしまっているアンテナの位置が記載されているのは不思議なのですが、
米軍がベースとしたのが古い地図だった。
航空写真で位置を確認しようとしても何もない。近くの建物と推測した。既に機能していないことはわかっていたので正確に位置を追求しなかった。
だから位置が微妙にずれてしまっているのでしょう。 そんな仮説を考えています。

そして2013年6月に更に調査。
海図をあたってみました。鉄塔は海上からも見え 良い目印になるので海図にも記載されているはずです。
目のつけどころは我ながら良かったと思ったのですが、結果はダメでした。



▲昭和13年(1938)には既に記載がありませんでした。



▲大正4年(1915)には不思議なマークが・・・。
 アンテナの地図記号でもないし、位置も異なるし、そもそも時代がちょっと古すぎます。
 これは「ノイズ」として除外しましょう。

そして現場



▲この周辺が米軍の地図に記載されている場所。

海蔵川の堤防の高みがありますが、工場と住宅が混在する平坦地。

かつては水田の中に鉄塔がそびえていたのでしょうが、今では市街化されて、しかもそれも古くなってしまっているようです。



▲こちらは昭和12年の地図に記載されている場所。

もとより期待はしていませんでしたが、痕跡は全くなし。コンクリートの土台も市街化の過程で壊されてしまっているにちがいありません。
発掘すれば何か出るかもしれませんが、それもできず、意味もないでしょう。

2).山側のアンテナ位置

山側のアンテナ位置は国土地理院の地図にしか記載されていません。

当時の新聞には垂坂山の頂上に設置された とありますが、地図からみると山頂の三角点ではなく
それよりずっと北西の現在の東芝四日市工場の近くになります。
距離もここなら海側のアンテナから4.5km弱。つじつまが合います。



▲国土地理院の昭和12年地図に記載されている山側アンテナの位置

この場所付近を戦後の航空写真で探してみても何もうつってはいません。
昭和23年の段階でも既に完全に撤去されてしまっていたと思われます。

この場所を正確に現代の地図に落としてみると場所はずばり ここになります。



東芝四日市工場の敷地の外、日本通運四日市支店の敷地内。
完全に造成されているので痕跡はまず期待できないでしょう。

アンテナについてはこのような歴史が推測できます。
1.昭和3年に長波アンテナが設置された。
2.ついで 昭和5年に短波アンテナが設置された。
3.昭和11年に長波アンテナは撤去され、小野受信所に移設された。
 短波アンテナの一部は移設されたが鉄塔はそのまま残された。
4.昭和34年に一部の短波アンテナの鉄塔が台風で倒壊し 残りの鉄塔も同時に撤去された。

そして2013年6月に現場に行ってみました。



垂坂山と呼ばれる山の頂上周辺にアンテナ鉄塔があったはずです。
山がちの森の中の太い道路を進むと整備された平坦地に出ます。
山は崩され整地され工業団地のよう。高い位置にあるのでいかにもアンテナを建てようと思える風景。
隣の東芝四日市工場より1段高い位置になっていますので、アンテナの位置としては自然に見えます。

四日市受信所の局舎

当初航空写真だけだったので特定しきれていなかった局舎の位置も地図が入手できたおかげでほぼ断定できます。
四日市受信所の位置は前述の2つの地図の他に航空写真でも確認できます。
3つの史料は微妙な誤差はあるものの共通情報も多く 正確な位置が推測できそうです。



▲AMS(米陸軍地図局)が作成した地図での四日市受信所
 Yokkaichi Wireless Receiving Station (approximate location) と記載されている。

わざわざ「おおよその位置」と書かれているのがちょっとワケアリ風。
それにしても本当にぎりぎりで短波のアンテナ群が記載されていないのは惜しいところ



▲国土地理院の昭和12年地図に記載されている四日市受信所



▲昭和23年の航空写真にある 四日市受信所と短波アンテナ列跡と思われる不自然な直線
 航空写真は上が真北とはかぎりません。方角が若干ずれています。

この3つの地図を縮尺、方角を正確に合わせ重ねてみると・・・
受信所の位置は数十メートル単位でずれがあります。



こうしてみると四日市受信所の本舎は 前述の「疑わしい建物A」と断定してよいでしょう。

更に現在の地図に重ねてみると・・・



本舎の位置は旧NTTの社宅地からやや北側に外れています。
NTTの社宅地も少し前までにはNTTの社宅のアパートとして使われ、空き地となり、
現在は「ウェリスパーク 阿倉川」という分譲住宅地になっているようです。
この分譲地を購入されこれから住む人はかつてここに四日市受信所があったことを知っているのでしょうか??

おそらく四日市受信所の敷地はずっと広かったのですが切り売りされてとうとう何もなくなってしまったのでしょう。


写真は三重県のアマチュア無線クラブ掲示板 http://www.jpdo.net/cgi2/54/e47zDC8.cgi?list=pickup&num=5568#5582 より  
▲鉄筋コンクリートの平屋建て。2種類のアンテナ。
 当時のハイテク基地ですから頑丈に作られていたにちがいありません。

場所はほぼ特定できました。航空写真から敷地のレイアウトがぼんやりと浮かんできます。





▲建物の用途などは勝手な想像ですが、なんとなく当時の雰囲気が再現できます。



写真を撮った方角も特定できます。短波アンテナの位置も矛盾はありません。

四日市受信所の長波受信機は 「テレフンケン社製 ダブルゴニオ受信機」 1台
          短波受信機は 「マルコニビーム式」5台 が装備されていました。

●痕跡

航空写真も時代別に入手できますので
時空を超えて四日市受信所の跡地の様子と変化を見ることができます。

 
▲昭和23年(1948)4月に米軍の撮影による本局の航空写真

短波アンテナの跡地と見られる不自然な直線ははっきりしています。
本局の敷地を拡大してみると
既に本局らしい建物はなく、小さい建物が建てられているように見えます。

 
▲昭和23年(1948)8月の本局の航空写真

同じ年の8月になると不思議なことに本局らしい建物が再び見えてきます。
中央にペントハウスがあるように見えるところは絵葉書の本局の姿にそっくりです。
画像は鮮明ではないのでどちらかが「そのように見えるだけ」なのかもしれません。
この地域は複数の航空写真に写っているのですが、いずれの写真でも建物のように見えます

 
▲昭和25年(1950)4月の本局の航空写真

1950年の航空写真はやや鮮明になります。
本局の建物らしいものは完全に消えています。
この段階で建物は撤去されたと考えられます。

 
▲昭和36年(1961)5月の本局の航空写真

1961年には再び建物のようなものが見えてきますが 実はこれは土台だけです。影もありません。
現場の調査時、周辺に住む老人の話でも、昭和36年には局舎は土台だけが残り、数年の後にはそれも撤去され整地されたとのこと。一つ謎は解けました。
そして南東には既にアパートのようなものが2棟たち雰囲気はだいぶ変わってきました。
短波用アンテナの敷地痕跡は工場に分断されてだんだん薄くなってきています。

 
▲昭和50年(1975)の本局の航空写真

短波アンテナは完全に市街地に埋もれてしまいました。
敷地には大きなアパートの棟がたくさん建ちました。
でも官舎や道路は昔のままに残されています。

 
▲昭和62年(1987)の本局の航空写真

そして何もなくなってしまいました。
受信局の官舎だったところにもアパートの棟が増設されてしまいました。

更に今ではこのNTTの社宅となったアパートの棟も全て壊され分譲住宅になってしまいました。

現場は・・・



▲この道路の左側のあたりに局舎があったはずです。

地形はゆるい斜面の途中にある 住宅地としては最適な地。
閑静な高級住宅街といったところでしょうか。
ここで一般の人も入れず、国際通信が行われていたなども信じられないくらい穏やかにさま変わりしてしまっています。
既にこの場所も最初に入居した方の家も第二世代になりこれからもそのままの雰囲気は続きそうです。

 

▲受信所の敷地内に新設されたNTT官舎のアパート群も撤去され今では分譲住宅になっています。

更に四日市受信所の探索はつづく

前述Y氏より 昭和22年と昭和32年の地図データをいただきました。
これがその四日市受信所の部分です。

 

この地図には 受信所周辺にアンテの記号が
昭和22年のものには2本
昭和34年のものには3本 記されており、位置が微妙に異なるようです。
 更に昭和34年の地図には受信所の敷地が記されています。

さっそくこれらを現在の地図上に落としてみたものが下の地図です。



航空写真での短波アンテナ列と思われる直線痕跡は 昭和22年、34年のいずれの場所とも一致しません。
これにより アンテナの位置として3つの可能性が出てきました。
@長波アンテナ 三ツ谷東町にある海側アンテナと
          東芝四日市工場、日通の敷地内にある山側アンテナ
    昭和12年の地図に記載
A戦後の航空写真に残る 直線状の不自然な痕跡
B昭和22年、34年の地図に残る 受信所周辺のアンテナ

小野受信所に移転されたアンテナとはいったいどれなのでしょうか?
また伊勢湾台風で倒壊したアンテナとはどれなのでしょうか?

また、昭和34年の地図に残る敷地範囲は微妙なずれはあるのですが、旧NTT社宅敷地+同敷地北側の新興住宅街の敷地にほぼ一致します。
これから 昭和34年から昭和50年の間に敷地の北側1/3が切り売りされて 住宅街になってしまったという歴史が見えてきます。

以上を整理してみると
現時点での推測としては・・・・

・昭和3年(1928)に「海蔵村受信所」として竣工開局。
・昭和11年に長波アンテナは撤去され、小野受信所に移設された。
・昭和12年頃に国際無線受信局としての機能は停止された。
・昭和20年代前半に80m短波アンテナ鉄塔は撤去されてしまった。
・メンテナンス用道路の跡ははそれから長らく残り昭和30年頃まで航空写真に写る
   (だから航空写真には道路跡は見えるが 鉄塔らしきものは写っていない)
・代替として昭和21年に2本の小規模な鉄塔がかつての広い敷地の中に立てられ、国内局として運用された。
  空白期間があったのかもしれない
・昭和22年から30年の間に3本の鉄塔が増築され アンテナ鉄塔は計5本となった。
   住人証言のアンテナ林立はこれのこと
・昭和30年まではこのうち新たに増築された3本のアンテナを運用し、四日市受信所は運用されていた。
・ほどなく四日市の受信所は閉鎖された。
・昭和34年の伊勢湾台風でこの5本のうちの1本(?)が倒壊した。
・この段階ではかつての局舎は廃墟として残っていた。
・ほどなく全ての鉄塔が撤去された。
  同時に局舎も撤去された。しかし床と土台は少なくとも昭和36年までは残っていた。
・NTT(電信電話公社)の社宅アパートが南東側跡地に建てられた。
・昭和30年後期から昭和40年前期に局舎の土台が撤去され整地 敷地の北1/3が転売され住宅地となった。
・同時に残された敷地にアパートの棟が増築された。
・最近になりアパートが全て撤去されて住宅地として転売され全ての痕跡が消えてしまった。

こんな風に考えると一番矛盾が少ないようにも思えます。

とすると 最近まで連続的に痕跡は存在していたはずなので、
四日市受信所に勤務されていた方も存命かも知れませんね。

まだまだ 幻の四日市受信所のようです・・・・つづく

ニイタカヤマノボレ

昭和16年(1941)12月2日17時30分 真珠湾攻撃の6日前。
暗号文を打電したのは瀬戸内海安芸灘の柱島泊地に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」。
停泊中にブイにつながれた海底電線を使った有線で接続された広島県の呉通信隊から国内三つの送信所に送られた。
メインは千葉県の船橋送信所。真珠湾を攻撃する機動部隊に向けて発信。
佐世保の針尾送信所から中国大陸や南太平洋の部隊に向けて発信。
3つめが依佐美送信所。太平洋の潜水艦部隊に向けて発信された。

ただし、諸説あるようです。

日本の歴史的無線送受信所

船橋送信所 千葉県

行田送信所とも呼ばれます。
正式には「海軍無線電信所」または「 海軍無線電信所船橋送信所」
国際無線通信所ではもっとも早く、大正5年に開局した。

現在の千葉県船橋市行田に所在しています。
ここ です。
ほとんど何も残されていませんが、道路が円形になっており、何かがあったことがわかります。
不思議な道路としてよくTV番組などに取り上げられます。



▲地上から見ると決して不思議な風景ではないのですが、道路がゆっくり曲がっていることはわかります。

周 波 数:43kHz(波長7,000m)
空中線電力:250kW
通信方式 :瞬滅火花式送信機
無線関係の機器一式はドイツのテレフンケン社製のものが採用され、ジーメンス社に発注が行われた。

ここ船橋送信所と対になる受信所は、東京霞ヶ関の海軍省内にありました。

主となる鉄塔は昭和16年(1941年)の頃に長波用として完成、
昭和46年(1971年)5月解体された。

また、前述のように「ニイタカヤマノボレ」が発信されたことで有名。

 

▲船橋送信所庁舎とアンテナ鉄塔

針尾送信所 長崎県

高さ137m、周囲33m の無線塔。
ここ です。
ちょっと雲にかくれてかすんでいますが、3本の無線塔がわかります。

現在は海上保安庁の無線通信所になっています。
名称は「針尾送信所」となっており、昔の名前を残しています。
元は日本海軍佐世保鎮守府の管轄でした。

大正11年(1922)に完成
終戦後すこしの間 米軍管理地となり
昭和23年(1948)から第七管区海上保安本部佐世保海上保安部が針尾送信分室として所管し、海上自衛隊と共同で使用しています。
1997年まではアンテナとして現役でしたが、後継の高さ37mの鉄塔アンテナが完成したことで引退し、ただの塔になってしまいました。

ここで日本海海戦を告げる「敵艦見ユ…」を戦艦三笠より受信した。
またニイタカヤマノボレも千葉県の船橋送信所、依佐美送信所とともに発信された というエピソードが伝わっている。

 写真はhttp://naritama.org/report/jcg_hario.htmlより

▲針尾の巨大な無線塔
 その姿は遠くからでも見えるので迫力満点です。

 
写真はhttp://naritama.org/report/jcg_hario.html
    http://oiday.iza.ne.jp/blog/entry/158013/より


▲無線塔の基部と内部

 写真はhttp://oiday.iza.ne.jp/blog/entry/158013/より

▲長波送信施設の一部が残されているようです。
 内部がどのように残されているのか知りたいのですが、調べきれません。

送信所は現役ですが、今ある局舎は1997年に作られた小規模な建物です。

かつての送信装置がどのようなもので、その後どうなったかは調べきれていません。
今後の調査項目。

詳細なHPがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9D%E5%B0%BE%E9%80%81%E4%BF%A1%E6%89%80

検見川送信所 千葉県

検見川無線送信所は、大正12年(1923)12月27日に建設
大正15年4月1日(1925)開局。
千葉県千葉郡検見川町
昭和54年(1979)2月28日廃局



詳細の記述が 検見川送信所を知る会HP にありますのでぜひ訪問してください。

岩槻受信所 埼玉県

検見川無線送信所に対応する受信局。



最近1992年まで受信所の建物が存在し、通信技術の専門学校として利用されていたが 破壊された。
詳細調べきれていない。

磐城無線電信局 原町送信所 福島県

一般通信と海軍の対米無線局
大正10年に対米専用の無線電信所として開局しました。
大正12年の関東大震災の情報をアメリカや中国経由でヨーロッパへ伝えた。
大正14年10月、磐城無線局は新しくできた「日本無線電信株式会社」に移籍されました。
昭和2年8月には、磐城無線局は廃止され、業務は東京無線電信局に併合され、富岡受信所の業務は埼玉県の福岡受信所に移されました。

昭和3年にはアンテナの高さを上げ、増強されました。
これによってハワイを経由しなくてもサンフランシスコと直接通信できるようになりました。
しかし、昭和5年から予備設備となり、昭和7年には無線局は廃止されてしまいました。
既に短波無線が主流になっていたのです。
依佐美が開局したのは昭和4年ですから、ちょうど入れ替わるようなタイミングでした。

局舎は当初は木造でした。

原町送信所送信設備は
電弧発振機 350kW1台(後に2台)、波長14,600m
特別高周波発振機400kW1台、波長5,000m

 写真は電波時報'59年7月号より

▲原町送信所の高周波発電機

高周波発電機は大正7年に東芝で製作された。
400kVA 3000rpm 200000Hz
当時米国ではアレキサンダーソン発電機は発明されていたが軍事機密のため資料を入手できず、東芝が独自で完成させた。
その後送信機は、強い磁場を作ることができるので、サイクロトロンに改造され原子力研究に使われ、戦後は海中に沈められました。

 画像は国立科学博物館のHPより

▲類似の小さい125kVA、12,000Hzのアレキサンダーソン発電機が東芝 電力システム社内の屋外に展示・保存されている。



アンテナの塔は高さ200メートルの自立式鉄筋コンクリート柱。
当初は1本だけ。
空中線を傘型に張った。

昭和3年には周辺の5本の鉄塔を主塔と同じ高さにして、増強された。

鉄塔は 昭和12年(1937)に2基がNHK鳩ケ谷送信所に移転
昭和17年(1942)2基が年に遠く台湾の民雄送信所に移転
昭和19年(1944)1基が陸軍によって金属回収のために解体されています。

最後に残されたコンクリート製の主塔はそのまま残され、原町市のシンボルになっていました。
しかし、老朽化により、1982年に解体され、シンボルとして一部が残されています。

参考にしたHP
http://www1.tcn-catv.ne.jp/kasatetu/page013.html
http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/0-3-3.htm

磐城無線電信局 富岡受信局 福島県

原の町は送信局で、富岡は受信局です。
富岡受信所は大正9年5月1日に開局。
その後、昭和2年に短波送信所に改修されたが、小山送信所、福岡受信所体制が整い、富岡は昭和7年廃止されました。

福島県双葉郡富岡町小良ケ浜深谷
常磐線富岡駅の北方約4キロメートルの丘陵の上にあった。
ここ です。
現在はNHK 双葉中継局としてその痕跡を残しています。
双葉ラジオ中継局は平成10年に開局されたので直接の子孫ではありませんが同じ敷地にあったようです。
局舎も閉局後個人が購入し住居として使っており、現存している模様です。

詳細 ぜひ現地調査したい。

受信設備
・真空管式長波持続電波受信機、
  テヘロダイン検波低周波増幅一段
・低周波増幅一段電話受信機。

アンテナ
 開所当時は高さ75メートル、水平距離約300メートルのループアンテナ、
 正確には「中央に高さ90mの木柱及びこれより東西に300m隔てて高さ75mの木柱各1本を建て、これに15番7ヶ撚硅銅線で、方形に架設せられた大型ループ・アンテナである。
尚90m木柱と他の75m木柱との間に、約300mの逆L型空中線をも設備した」(日本無線史 第二巻より引用)
 大正11年米国製受信機及び空中線を導入して通信能率の向上を図った。

参考にしたHP
http://www.geocities.jp/haramachi_tower/hensen.html
http://home.p04.itscom.net/yama/index.html
http://home.p04.itscom.net/yama/NHK_Futaba_Tomioka/NHK_Futaba_Tomioka.htm

多摩送信所 東京都

町田市相原町からポツダム宣言受諾を世界に発信

法政大学多摩キャンパスの中にある。
ここ です。

多摩送信所跡記念碑説明文
「第二次世界大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信所の建設が着手された。
当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地74,000千坪(244,000平方メートル)を確保し、高さ60メートルの木支柱を立て、空中戦6基を樹林にめぐらした。
技術者、職員50名が勤務する局舎を点在させ、翌年4月竣工した。5月5日から操業を開始した。
 当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。
これらの対外送信は、1945年8月10日から15日の間、日本政府のポッダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。
政府の対外ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。
 ここにあたった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946年11月10日、開設以来1年半で活動の幕を閉じた。
本学の多摩校舎は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。
ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。」

局舎 木造150坪
 電力舎、ポンプ舎、倉庫、事務所等が敷地内に点在し、防空用に迷彩されていた。
設備
 50kw 電話送信機(R2)1基 (八俣送信所から移転)
 20kw電信送信機3基 (小山送信所等から移転)
   昭和21年(1946)に閉鎖後はそれぞれ八俣送信所、小山送信所に返還
 アンテナ ドイツ専用 指向性アンテナ2基
      軍通信用  無指向性アンテナ2基
      海外宣伝用 円形型回転式指向性アンテナ

  
  写真はhttp://park23.wakwak.com/~hotaru2/tamasousinnjo.htmlより


▲多摩送信所と円形型回転式指向性アンテナ

参考にしたHP
http://park23.wakwak.com/~hotaru2/tamasousinnjo.html

小野受信所 兵庫県

逓信省大阪無線電信局操縦による受信所

おそらくここ です。

世界の歴史的無線送受信所

グリムトン長波海岸局 スウェーデン

GRIMETON
世界遺産
運用可能な長波通信所
1924年に運用開始
交流発電機はスウェーデン系アメリカ人アレキサンダーソン(Ernst F.W Alexanderson)が発明した技術が使われた。
スウェーデン南部 ヨーテボリ南方、デンマークに面した海岸の町 Verberg の近郊にある。
1922年〜1924年にかけて建設
6本の127mの鉄塔が残る。
アメリカとの交信用に作られた。
周波数16.1 kHz  波長18.6km
1938年には短波の試験運用が行われた。
現在も博物館的に運用されており、年に数回長波の電波が発信されている。

公式HPはここです。(スウェーデン語)
http://www.alexander.n.se/



▲送信所建屋とアンテナ

 

▲交流発電機(発振器)とアンテナ群
 写真は公式HPより

コートワイク放送局 オランダ

Kootwijk
オランダ中央部のアペルンドルン(Apeldoorn)という小さな町の郊外にあります。
ここ です。

1918年に短波送信所として開設され、オランダと植民地インドネシアとの間の交信に使われた。
インドネシア側の交信所はバンドンの近くの Malabar Gorge に設置された。
1923年からは PTT(オランダ郵政公社)により、長波による電信交信がスタートした。
設備はドイツのテレフンケン社から購入。
1928年からは短波による電話交信がスタート。
第二次世界大戦末期には占領していたドイツ軍によって、設備と鉄塔は破壊されたがいくつかは再建。
1980年には鉄塔が撤去された。1998年には送信が停止された。
2004年に送信所としての機能が停止された。
かつての社宅も個人に売却され、送信所のビルディングは現在は産業文化財として保存されているようです。

建物は昔のままですが、通信施設として日々更新されたため古い送信設備は残されていません。

公式HPはここです。(オランダ語)
http://radiokootwijk.free.fr/index.php?section=1



▲コートワイクの中心となる建物

 

▲かつては依佐美に似た長波の発振器があったようですが(左)、
 機能停止直前では非確定新しい設備に置き換えられていました(右)。
 写真は公式HPより

ナウエン無線局 ドイツ

Nauen
ベルリンの西45km に位置する。
受信所はポツダムの近郊 ゲルトー(Geltow )にあった。
無線局は1906年に創設された。
主屋は1920年に完成。
鉄塔は順次拡張されたが、最大のものは1920年に作られた。高さは260m 長さ2484m。
依佐美と直接交信したヨーロッパの無線局のひとつ

第二次大戦中も破壊されることはなく、潜水艦との交信に使われた。
鉄塔は1945〜47年に占領ソ連軍により解体され、設備はソ連軍により持ち去られた。
主屋はじゃがいも倉庫として使われたが、1955年に短波の設備が設置され、再び放送局として使われた。

1940年からは「ラジオベルリンインターナショナル(Radio Berlin International)」が放送されていた。



▲ナウエン無線局



▲現在の建物



▲アンテナ群



▲内部の設備



▲ゲルトーの受信設備
 受信設備は送信所ほど大きな設備を必要とはしませんでした。

更に詳しく知りたい方はこちらのHPをご覧ください。
http://home.snafu.de/wumpus/nauen.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Nauen_Transmitter_Station
http://www.funkstadt-nauen.de/fun00061.html

サンタシーズ無線局 フランス

Station TSF de Sainte-Assise
パリの東南45km
1920年に完成
16本の鉄塔 250mの高さ
4台のオルターネータ 250kW×2、 500kW×2
依佐美と直接交信したヨーロッパの無線局のひとつ

サンタシーズ無線局の場所はMulunの郊外。
ここ です。

この無線局は現在でも潜水艦との交信に使われているようです。

 

▲送信所建屋と初期の交流発電機(発振器)



▲アンテナ群

更に詳しく知りたい方はこちらのHPをご覧ください。
http://dspt.club.fr/Sainte_assise.htm
http://randorif.canalblog.com/archives/2007/01/25/3399901.html

ラグビー無線局 イギリス

Rugby Radio Station
1926年にサービス開始
1956年に長波の発信を停止
12本の250m鉄塔があった。
1943年に火災となり内部が大きく損傷した。
Rugby Radio Museum として設備は残されている。
依佐美と直接交信したヨーロッパの無線局のひとつ

 

▲送信所建屋の現在の姿

 

▲内部の設備



▲アンテナ群

場所は イギリス、イングランド中央部 Warwickshire県とNorthants県にまたがっている。
ラグビー市(Rugby)の郊外、ヒルモートン(Hillmorton)の近く。
ここ です。

更に詳しく知りたい方はこちらのHPをご覧ください。
http://www.subbrit.org.uk/sb-sites/sites/r/rugby_radio/index.shtml

ポーランド

依佐美と初めて交信したのがワルシャワでした。
昭和4年(1929)4月のことす。
ワルシャワの送信所とは おそらくBabice送信所だと考えられます。

場所;Warszawa-Boernerowo, Fort Babice ("Radiowo")
アンテナ鉄塔は 126m ×10本
高周波発電機はアメリカ製アレキサンダータイプ 200kWのものが2台
電力供給はは500kWのディーゼルの自己発電機
周波数は 16.4 kHzおよび14.29 kHz

ワルシャワの西の郊外、約10km 砦跡の西側に隣接していました。
ここ です。

1920年に欧州内、アメリカとの交信基地として計画された。
1923年に開局
受信局はGrodzisku Mazowieckim
随時増強され、国産の高周波発電機に置き換えられた。
1939年にドイツに占領され 1945年までドイツの潜水艦との交信に使われた
ドイツ軍の退却の時に受信局と共に鉄塔、設備が爆破され、そのまま廃局。

現在ではかすかな痕跡が森の中に残されているだけです。



▲バビース無線局の交流発電機



▲アンテナ群



▲1923年頃の内部施設

更に詳しく知りたい方はこちらのHPをご覧ください。(ポーランド語)
http://hamradio.pl/wiki/Nadawcza_Radiostacja_Transatlantycka_Babice
http://pl.wikipedia.org/wiki/Transatlantycka_Centrala_Radiotelegraficzna
http://www.babice-stare.waw.pl/gazeta.php?arch=9

その他

このほかに依佐美と直接交信した無線局としては
イタリアのローマにあるはずのカルタゴ送信所
スイス ジュネーブ
があるはずですが調べきれません。

博物館を見た後の疑問点

・短波送信棟の中は戦後は何に使われていたの?
  内部はどのようになっていたの?

・真空管式の新しい送信設備は依佐美のどこに設置されていたの?

・今それらはどこにいったの?

・米軍の施設だったときはどこからリモートコントロールされていたの?

電波技術の急激な進化

電波技術は近年で急激に進化した技術のひとつ。
最近でもデジタル化などにより、次々と新しい技術が生まれ、過去の技術に置き換わっている。
イタリアのマルコニーが電波通信の実験に成功したのは明治27年(1894)です。
その3年後の明治30年には日本に伝わりました。
明治31年には東京の月島において公開実験がなされている。

明治34年には イギリス コーンウォールのポルデュ局から カナダ・ニューファンドランド島までの 3400kmの大西洋横断通信に成功。 中波800kHz
わずか7年後には十分実用に使える実力を達成しました。

日本でも明治41年には銚子無線局などが完成しました。
和歌山県 潮岬
山口県 角島
長崎県 五島列島 大瀬崎
北海道 根室郡 落石

明治41年には日本とサンフランシスコ間の通信実験がなされた。
(中波を使ったため不成功)

船橋に海軍が無線局を設置したのが大正4年です。

明治維新以後に発明された技術であり、日本に導入された時期も早く日本だけでも全体の歴史を見ることができる。
軍事的にも、国家戦略でも有益だったため 国家的規模で技術革新と投資が行われた。
技術的にも次々と革新的発明が行われ変化が大きいこと。
など博物館的には最高のテーマのひとつだと思います。

詳細に記載されたホームページがあります。

更に詳しく知りたい方はこちらのHPをご覧ください。

http://www.city.kariya.lg.jp/school/yochu/rekisi/tettou/tettoumein.htm
http://njb.virtualave.net/web/rl2005/yosami/yosami.htm
http://www.tcp-ip.or.jp/~sugi-96/sanngyouisann/yosamisoushinnsho.htm
http://www-ani.nips.ac.jp/jr2ipn/ipn.htm
http://karuho.hp.infoseek.co.jp/benkyo/ben03-9.html
http://www.geocities.jp/ndxcjp/yosami.htm
http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?&key=900590111003&APage=994

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