刈谷市郷土資料館

運営母体 刈谷市
住 所 刈谷市城町1-25-1
電話番号0566-23-1488
休館日月曜,祝日の翌日,年末年始
開館時間9:00〜16:30
入館料無料
備 考郷土資料館分室が城町図書館2階にあります。
アクセス名鉄刈谷市駅から徒歩15分
公共施設連絡バス 小垣江線 「司町4丁目」バス停から徒歩5分
HP http://www.city.kariya.aichi.jp/sisetu/sa1_06.html (公式HP)

展示の内容

概 略 建物は昭和初期の亀城小学校旧本館。刈谷の文化遺産や考古・歴史民俗資料、山車、鎌倉街道、近くの図書館にも展示の一部がある。
山車の展示。山車は知立と同形式のものである。
キリシタン禁止のおなじみの定め書きの中の銀500枚とは430両、300枚とは258両、100枚とは86両のことである。仲間の年季奉公の給金が年3両であることから考えると非常に高い金額であることがわかります。
須恵器の展示。灰釉陶器は8世紀後半〜10世紀 9世紀前半が盛り
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
龍骨車という揚水装置がある。キャタピラーのような木造の水車。精巧な造り。
展示されているのは半田市とここ、名古屋市港区と長久手町の4ヶ所。収蔵品を合わせても10個しか残されていない。
鎌倉街道に関する展示。鎌倉街道は刈谷市を通っていた。
お代の方(家康の母)に関する展示。
ひとこと手作り感覚、雑多な展示。しかし展示物の質は高い。
備 考


地 図

 地図はパンフレットより

市街地外周北西部 亀城公園の近くです。
郷土資料館は刈谷城の三の丸の跡地に建っています。

外 観



小学校の校舎を利用した建物。
亀城小学校旧本館の建物。 昭和3年に落成し、刈谷市出身の大中肇の設計で側鉄筋コンクリート製。
昭和初期の建築様式をとどめており、国の登録文化財になりました。

展示物

シンボル展示



▲刈谷城にあった和時計
 大名時計であって、細工も精巧。

農 具

竜骨車

 

▲灌漑用の揚水器で手または足で踏んで回転させ、低いところから水を汲み上げて田へ注ぎます。
 江戸時代に各地で使われました。

愛知県では10個ほど残されていますが、全国的に見ると非常に珍しいものです。

竜骨車は愛知県と滋賀県に残されています。大型で精巧な農具。
不思議な竜骨車に関する記述はこちらをごらんください。

スイポン



▲低いところから水を汲んで田に注ぐポンプの一種。 手を使って操作します。
水利の悪い地方ではこのような農具を使って生産を上げる努力をしました。
地方によっていろいろ呼び名はありますが、刈谷地方では「スイポン」と呼ばれるようです。

踏 車



▲「明治形」の大型水車

水車に関する記述もこちらにあります。

製塩土器



▲土器に濃縮した海水を入れ、火で煮詰めて塩をとりました。
 高浜市の遺跡でみつかった製塩土器は、西三河地方最古で、古墳時代初頭のものです。
 足の部分が太いのは古い時代の特徴です。

製塩土器は地域により大きな違いがあります。こちらをご参考に。

山 車

小垣江の山車



幕末から明治初年にかけて小垣江村の祭礼に使われていましたが、明治10年ごろに神社の立て替え費用を作るため、市内の別の地区に売却されたと伝えられます。
後に個人所有となったため、持ち主の好意で、約120年ぶりに町に帰ってきました。

現在刈谷市に現存する山車は3台あります。

市原神社四月祭りの花車

 

 

市原神社渡御祭に奉仕された新町の花車です。
渡御祭には多い年には本町・中町・新町・正木町が花車を奉仕しました。
渡御祭は隔年に行われ、大名行列に続いて神幸行列が進み、各町からの花車がこれに花をそえました。
市原神社の四月祭りは刈谷の花祭りとして各町内が奉仕し、特色のある祭りでした。
この車の本体の部分は、少なくとも元治2年(1865)に作られたことがわかります。

天明8年(1788)七月 刈谷町庄屋が刈谷藩に報告した「祭礼由緒」によると、市原稲荷神社の祭りは宝永5年(1708)から始まり、一年おきに行われるようになったとあります。
これは稲垣氏の時代であり、貞享4年(1687)から祭礼に華車・警護・本町獅子がでるようになったという記録があり、この年本町は華車を買い求めています。
祭日は4月1・2日でしたから、四月祭りと呼んでいます。

 

花車は毎年春のお祭りのときだけ箱から取り出して組み立てられていました。
ここにあるのは、花車を納めてあった箱の蓋で、現在の刈谷市民の祖先の名前を見ることができます。
安政の頃はまだ一般庶民には姓が与えられていなかったし、滑稽な面白い同じ名前があちらこちらにつけられています。
一般庶民は今私たちが思うほどの気苦労はなかったのではないでしょうか。

須恵器



▲内容

山ノ田古窯出土の杯(つき)とかめ
平安時代のもの。
胴部の外側にはたたき目があり、底は平底であるが、底部と胴部にはりつけた痕があります。

井ヶ谷古窯群



▲井ヶ谷古窯群の説明版 発掘された古窯は展示されていないようだ。
 愛知教育大学構内にあるとも聞くが未確認。

井ヶ谷古窯群は猿投山西南麓古窯跡群の一つで、77基が発見されています。
そのうちの31基が市指定されています。
井ヶ谷町の洲原池・大池・広沢池・牛池などの池の周辺に分布し、碧海台地より古くて一段高い挙母台地に広がっています。
窯の様式はすべて半地下式の窯です。
この地域には瀬戸陶土層に連なる良質の粘土を含んでいます。
井ヶ谷古窯の最も古い時期の窯は8世紀後半で9世紀前半頃最盛期を迎え、9世紀〜10世紀にかけて衰退しきました。
井ヶ谷窯で焼かれたものは灰釉陶器で、長頸瓶、短頸瓶、浄瓶、水瓶、平瓶などです。
出土品は愛知教育大学付属図書館に保管されています。

 

▲刈谷市の古窯址群分布図
 標高15mの挙母台地である北部に集中して分布しています。



▲山茶碗
 鎌倉時代の行基焼の山茶碗で大量生産のためにこのような重ね焼が行われていました。

鎌倉街道

鎌倉街道とは鎌倉時代に作られた、鎌倉へ続く道です。
従って鎌倉を中心に数本がありますが、愛知県を通る鎌倉街道は東海道の前身の道のことを指します。
東海道は江戸時代に拓かれたいわゆる五街道の一つです。
鎌倉街道はそれ以前にあった京都と鎌倉を結ぶ道ですが、愛知県では東海道とは異なったルートだったため、とりわけ印象的になります。

現在では鎌倉街道ははっきりわからなくなっているのですが、神社や文献などでおおよそのルートが推定されています。

刈谷市域では、境川をわたり西境の永福寺の側を経て、東境の祖母神社、大池の南で東に折れて、児塚の前を通り、竜ヶ根池を通り 駒場新田へと抜けていく道筋でした。
祖母神社境内は当時の街道の面影がうかがわれますが、他では残されていません。

大久伝
 ↓
西境
 ↓
祖母神社
 ↓
駒場新田
 ↓
駒場
 ↓
八橋
 ↓

 ↓
大浜茶屋
 ↓
宇頭−−−−−
 ↓       ↓
別所
 ↓       ↓
山崎
 ↓       ↓
桑子
 ↓       ↓
下切       矢作
 ↓       ↓
矢作南の渡  矢作北の渡



安城、刈谷では鎌倉街道は東海道の北を通っていました。

刈谷城

刈谷城は天文2年(1533年)水野忠政により築かれ、「亀城(きじょう)」とも呼ばれていました。
この城は水野信元(のぶもと)の時、桶狭間の戦いで破れた今川義元の敗軍によって焼かれてしまいましたが、慶長5年(1600)水野忠重の時代に再建されています。
それ以後9氏23代の城主により明治4年の廃藩置県まで守られてきましたが明治7年(1874)政令により取り壊されました。

徳川家康の生母「お大の方」の実家、水野家の居城です。

 

 




▲刈谷城 御殿

重原藩

明治時代に「お城」を建てようとした侍たち

あまり知られていませんが、明治時代になってから藩が誕生し、新しい領国の三河に城をつくろうとした侍たちがいました。そんな人たちの物語です。

東北の福島藩は幕末の混乱で一貫して幕府支持をつらぬきました。
慶応4年(1868)福島藩は奥羽列藩同盟に参加して 新政府軍と敵対しましたが、9月に第11代藩主勝尚は白河口政府軍へ嘆願書を提出しました。
福島城下は戦禍に巻き込まれることはありませんでしたが、福島藩は新政府軍に降伏しました。

12月に福島藩の処分が決まりました。
・2千石減知
・藩主板倉勝尚は隠居し、跡継ぎの板倉勝達が家督を相続。
・福島城付地1万6千石余と飛地の東金分領は召し上げ
・替地を会津大沼郡90カ村を与える
ここに福島藩は消滅しましたが、愛知県(三河国)の分領は残りました。

場所は重原。刈谷市重原。
重原は三河安城駅の近く、刈谷と知立にまたがる地域です。
重原には、転封になる前から遠く東北の福島藩の領地がありました。

もともとは刈谷藩の領地でしたが、寛政2年(1790)に百姓一揆が起き、幕府は刈谷藩にたいして、その責任を問い、領土の一部である重原村、野田村、半城土村、高須村、小垣江村、犬ケ坪村等18か村を、奥州の福島領・幕領の一部と交換したのでした。
以来福島藩はこの地に陣屋(現在の愛知中央農協重原支店の所にあった)をおいて郡代により三河の飛地を治めました。
浄福寺の前に「重原陣屋の跡」の石碑があります。

福島城明け渡し、大沼に就封する前に新政府に対し本領移転を願出て認められました。
更に大沼郡をあきらめ、その替地として、三河国碧海・加茂・設楽三群の内にて1万7千石余を与えられ、従来の分領と合わせ2万8千石になりました。

ここに 、明治になってから(明治2年)、藩主板倉勝達を中心に重原藩が誕生しました。

藩士たちも続々東北の地から三河に移ってきて、付近の農家やお寺等を仮住まいとして、藩の再建にかかりました。
彼らが最も求めたものは象徴的なお城でした。
陣屋では規模が小さすぎたのでしょう。
明治3年(1870)重原藩庁の建設に取り掛かりました。
彼らにとってはそれは藩の「お城」でした。
材料もある程度そろえたのですが、直後の明治4年(1871)廃藩になってしまいました。
わずか2年間の藩でした。
重原藩は消滅し、重原県となり、さらに額田県となりました。

板倉藩士たちの築城計画はついに実現することはありませんでした。

その後の藩士たちは
福島へ帰るもの
地元へ残るもの
東京など新たな地を求めるもの
さまざまでしたが、それぞれに活躍をしました。

ちなみに武士の夢の跡となった陣屋で使われた門は、半城土町の願行寺(刈谷市半城上町乙本郷81)の山門に、玄関は十応寺(刈谷市半城上町乙本郷)にそれぞれ移築されています。

刈谷の城跡



▲重原荘内の城館跡

天誅組

幕末、明治維新の4年前、1963年。幕府に対し反乱を起こしたグループがいました。
彼らの反乱は即 鎮圧されてしまいますが、幕末の混乱の先駆けになりました。
いわば時代を先取りした行動の理由と内容をちょっと調べてみました。

●刈谷出身の天誅組志士。

宍戸弥四郎
諱(いみな)は昌明(まさあきら)、号は道一軒(どういっけん)、通称を弥四郎といいました。
天保4年(1833)刈谷藩士、弥助の6男として生まれました。
嘉永6年(1853)21歳のとき命ぜられて江戸藩邸に勤め、馬廻加役に進み、その後3年間程山鹿流の兵法を学びました。
安政3年(1856)24歳のとき、刈谷に帰り27歳まで小姓(主君の側近く仕えて雑務をつかさどる武士)となりましたが、感ずるところあって仕えを辞し、招きに応じ駿府(静岡市)で半年間兵学を講じました。
文久3年(1863)国内で尊皇攘夷論が盛んになったので直ちに藤本鉄石らと大和に皇政復古「天誅組」の義兵を挙げ合図係として参加しました。
兵勢は一度は大いに振るったが、次第に劣勢となり、転戦約20日余で鷲家口に至ったとき、千代橋付近道路上において彦根藩の軍兵の包囲を受け、決死隊、福隊長格の一人として、彦根の陣所を突き破り鷲家川まで進んで川を背にして戦闘中誤って河中に転落、直ちに対岸によじ登ろうとするところを背後より彦根勢の一斉射撃を浴び壮烈な最期を遂げました。
時に年31歳。文久3年9月24日のことでした。
懐中に金10両を埋葬費としたため所持しており彦根勢もいたく感動しました。
明治24年(1891)靖国神社に合祀、明治31年従四位を贈られました。



▲宍戸弥四郎戦死の地(奈良県吉野町)

松本奎堂
通称は謙三郎、長じて士権。25歳のときから以後は奎堂の号を用いました。
天保2年(1831)刈谷藩士、印南(いなみ)の二男として生まれました。
10歳で詩を作ることを学び、15歳のとき尾張の伊藤両村の塾に通学しました。
左の眼は18歳のとき道場で槍術の稽古中誤って負傷。ついに失明しました。
21歳と25歳のときのときの2回にわたって江戸に遊学。昌平坂学問所に学びました。
特に詩文にすぐれていたため、学問所の詩文係に挙げられ、刈谷藩でも一時「侍読(じどく)」(君主に対し学問を教える職)を努めたが、他方面にすぐれた才能を示し、天下の名士といわれるようになりました。
やがて盟約することがあって、京都に上がり梅田雲浜らと国事について謀議、奎堂は脱藩して大阪に出て勤王の士と交遊しました。
その頃世論もようやく騒がしくなって身の危険であることを知り、各地を転々潜伏することが多くなりました。
文久3年(1863)藤本鉄石と共に天誅組総裁として大和五条を本拠に勤王倒幕の兵を挙げ実行に移ったが、江戸幕府の大軍の前に悪戦苦闘すること一月余、もともと目の不自由だった松本奎堂はこの頃には完全に失明しており、ついに大和国吉野郡高見村鷲家の伊豆尾峰で敵中に自刃して果てたとも、狩りをしていた追討軍に銃殺されたとも言われています。

時に33歳でした。
「君がため 命死にきと世の人に語りつぎて峰の松風」はその時世です。
(文久3年9月25日戦死)
明治24年(1891)靖国神社合祀、同年従四位を贈られました。



▲松本奎堂戦死の地

佐々木市兵衛
「市兵衛は天保5年(1834)築地(刈谷市築地町)の貧しい家に生まれましたが、努力家で青年のころ、誓願寺住職大道和尚に就き学を修め、刈谷藩士山田鈴之進の許で武術を磨きました。
常に尊王攘夷を唱え機会を待っていましたが、慶応3年(1867)同志3人とともに京都に上り勤王の士として浪華(大阪市)の辺にて転戦しました。

明治維新ののち帰郷し、その後東京へ出て官途に就き、太政官使部に進みましたが、母の病気のため職を辞し再び帰郷後妻を娶ったが、たまたま伊勢神宮に不穏を加える者があると聞き、病母を妻に託し自らを神官を守護せんと再び家を出ました。
この時同志は佐々木半太郎以下29名でした。
しかし、この挙は事実と違い暴挙と誤られ、明治5年(1872)刈谷において一応の審問をうけ後京都に送られ結審を待たず獄中で病死しました。
享年40歳でした。
氏は人となり極めて廉潔で殉国的精神に富み、また母に仕えて孝心が深かった。」

天誅組の事実概略
・幕府に対し反乱を起こしましたのは幕末1963年。明治維新の4年前のことでした。
・尊王攘夷派のグループによります。武家である幕府を倒して、天皇中心の政治に戻して、外国を排斥しようと考えた人たちです。
・シンボルあるいはリーダーは中山忠光という公卿。
 実姉が孝明天皇の妃。当時19才。熱心な攘夷派でした。
・中心人物は吉村寅太郎 土佐の農家出身です。
・同調した侍は37〜39人と推定。
・援助を与えたのは五條の豪農「鶴屋治兵衛」
・京都で結成され、五條市に下り、代官所を襲い、その地域の占領を狙いました。
・京都で尊皇攘夷派が一掃されてしまう事件(七卿落ち)が起こり 尊王攘夷派が急に力を失ってしまいました。
 後ろ盾を失った彼らは反乱軍となってしまいました。
・幕府は急遽兵力を派遣し、天誅組の殲滅を図りました。
・追われた天誅組は五條から南下し天辻峠(大塔村)に本陣を構えました。
・十津川郷士を加え、大軍勢にはなりましたが、緒戦に敗退し、追われる身となりました。
・天皇の支持がないと知った十津川郷士は離れ、退却を重ね、やがて鷲家川にて壊滅してしまいます。
・中山忠光卿はかろうじて脱出しましたが、約1年後に長州で暗殺されてしまいます。

ちょっと深く調べてみると・・・・
・孝明天皇(こうめいてんのう)
 事件のきっかけは、文久3(1863)年8月に孝明天皇が大和行幸(天皇が皇居から外に出かけること)を宣言しましたことにはじまります。
 彼は熱心な攘夷論者(外国との貿易、交流を排斥する考え)で、各地の神社に攘夷祈願をしてました。
 今回は奈良県の春日大社に行くと発表し、その後、橿原神宮、御所市の加茂神社(高鴨神社・鴨都派神社)に祈願にいくという計画でした。
 朝廷の反幕府勢力に押された結果とも言われますし、天皇には奈良に逗留して諸方の兵を集め、幕府に対抗して挙兵をするという意図があったとも言われています。

天誅組結成
・各地の尊皇攘夷活動家が京都 方広寺にてグループを結成しました。
 天誅組という呼び名は、 後世の人々によってつけられた名前で、彼らの持った幟のぼりにも 「皇軍御先鋒」 と書かれてただけでした。
 京都での結成に至るまでの伏線があったはずですが、勉強不足でわかりません。

・結集したメンバーは37〜39人。13才の人から46才の人までいましたが、たいていは20代でした。
 長州藩や薩摩藩などのメジャーな藩の藩士はいません。農豪の出身者や、脱藩者などが多いようです。
 刈谷出身者も数名入っています。
・天皇が大和へ来ることを前提にし、幕府の攻撃から天皇を守るため、あるいは幕府の領地を占領し、天皇に渡し、新たな天皇の拠点作りをしようと考えました。
・彼らは五條市の代官所を襲撃し、代官を殺害しました。
 五條市は幕府の天領で五條の天領の他、宇陀郡、吉野郡の天領も支配し、幕府政治の中心地でした。
 役人も数人しかおらず、手薄でした。
 京都からは淀川を船で下り、一度海に出てから堺に上陸。富田林から千早赤阪を抜け、千早峠を越えるというルートでした。

・ところが、その襲撃の翌日、京都では尊王攘夷派が京都から追放され(七卿落ち)尊皇攘夷派は急速に権力を失い、孝明天皇の大和行幸も中止されてしまいます。

・彼らは反乱軍となってしまい、やがて幕府から討伐軍が派遣されます。
 幕府軍とは言っても、津の藤堂、彦根、和歌山など各地の大名の軍勢です。

・8月21日には桜井から移動し天辻峠鶴屋宅に本陣を置きました。
 鶴屋治兵衛の屋敷を本陣として使いました。
 鶴屋治兵衛は土地の豪農で、見渡す山は彼の所有だったと伝えられます。
 彼は家、食事から 十津川郷士の人集めまで絶大な支援をしました。

・十津川兵に味方を頼み、約1200名が集まりました。
 大塔・十津川郷士は南北朝以来尊王の志が厚く、独立心が高く、勇猛で知られていました。

・8月26日には十津川兵とともに高取城を攻撃しましたが敗北。
 夜襲の混乱で吉村寅太郎は味方の銃弾を受けて負傷してしまいました。

・そして天辻峠本陣が攻撃されて敗北。

・結成時1200名余りを数えた十津川郷士も本陣陥落の日、池穴村の龍蔵院で密かに全郷会議を開き、「朝敵となることは本意ではない」という結論を出し、天誅組との決別を決意。

40日程度の大事件
 8月13日 孝明天皇大和行幸の勅宣布
 8月14日 京都 方広寺にて天誅組結成
 8月17日 五條代官所襲撃、桜井寺を本陣とする。
 8月18日 代官らの首をさらす。
      天皇行幸撤回
      七卿落ち(公武合体派が尊皇攘夷派を京都から追放)
 8月19日 庄屋の家を打ち壊す。
      天皇が奈良に来ることが中止となったという知らせを受ける。
 8月20日 天皇が奈良に来てくれることを信じて、十津川兵に味方を頼む。
 8月21日 天辻峠鶴屋宅に本陣を置く
      大塔、十津川郷士1200名余が集まった。
 8月26日 高取城攻撃 敗北
      吉村寅太郎 味方の銃弾で負傷
 8月29日 忠光一行 長殿へ滞陣 南へ移動

 9月1日 忠光一行 風屋へ滞陣 更に南へ移動
 9月2日 忠光一行 武蔵へ滞陣 更に南へ移動
 9月6日 忠光 武蔵から本陣へ帰陣 一旦北へ戻る
 9月8日 忠光一行 白銀山布陣
 9月9日 下市攻撃 市中炎上
 9月11日 忠光 白銀山より本陣へ帰陣
      河内勢 十津川郷士離脱  9月13日 忠光一行 上野地へ脱出
 9月14日 天辻峠本陣陥落
 9月15日 十津川郷士離脱
 9月17日 忠光一行 小原へ
 9月18日 忠光一行 下葛川へ
 9月20日 忠光一行 浦向へ
 9月21日 忠光一行 白川へ
 9月24日 忠光一行 武木へ
 9月25日 天誅組 鷲家川にて壊滅
      吉村寅太郎 射殺
 1964年11月8日 中山忠光 下関で暗殺



▲天誅組の舞台



▲天辻峠の天誅組本陣跡。
 土地の豪農「鶴屋治兵衛」の屋敷が本陣になりました。

鶴屋治兵衛


▲鶴屋治兵衛の石碑 奈良県大塔村

中山忠光


▲中山忠光
 公卿出身。19歳。天誅組の象徴的な存在であるとともに活動家。

中山忠光は弘化2(1845)年に、大納言中山忠能卿の第五子として誕生.明治天皇の母である中山一位の局(慶子)は中山忠光の姉であることから,忠光は明治天皇の叔父となりました。

●暗殺
JR下関駅前より国道191号を北に8kmほど進むと綾羅木地区に中山神社があり、境内には中山忠光の墓があります。
中山忠光はこの地で暗殺されたのではなく、暗殺後ここまで運ばれて埋葬されたのです。

9月25日に天誅組が鷲家川にて壊滅したあと、中山忠光はかろうじて死地を離脱し、西へ向かいました。
そして長州藩に保護され大坂から長州へとかくまわれていきました。

中山忠光が10月5日に海路大坂より長州・三田尻港に移動し、しばらく滞在した後に11月11日には下関の豪商・白石正一郎邸に隠棲地を移しました
再三にわたる幕府の引渡し要求を長州藩は当初拒否しましたが、しだいに邪魔になってきました。
そして、長府藩に彼の管理をゆだねました。
また、中山忠光自身も隠遁生活を嫌い、脱出を試み、そのたびに長府藩に捕らえられ場所を変えました。
延行村から始まり安岡村→湯玉村→上畑村(常光庵)→黒井村→大河内村(山本五兵衛宅)→川棚村(三恵寺)→室津村(観音院)→田耕村(大田親右衛門宅)と場所を移されました。
側女として恩地トミを置いて彼の動向をさぐらせたりもしました。

そして最後の逗留地となった田耕村において,蛤御門の変から4ヶ月後の元治元(1864)年11月8日のに暗殺されてしまいました。場所は現在,田耕神社が安置されている崖裏とされています。
当時,中山忠光を預かっていた長府藩は「病死」と報告しましたが,明治時代になって調査が行われると、放たれた刺客は警護を司っていた「長府藩士」ということが判明し、長府藩による暗殺であると断定されました。

彼の遺体は長櫃に入れられ下関へと運ばれようとしましたが、運搬中に夜が明けて、一目をはばかった藩士たちは松林に遺体をうめました。
そこが中山神社の地です。彼も歴史の犠牲者でした。

首謀者 吉村寅太郎



▲吉村寅太郎

中心になっていた吉村寅太郎は土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれました。
土佐の農家の息子です。
文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、翌年武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞と会見しました。
その後、久坂に感化されて文久2年(1862)に脱藩。土佐藩脱藩第一号でした。
吉村虎太郎の最期も悲惨。高取城攻撃で負傷。重傷の彼は駕籠で移動していたが、銃声に怯えた人足たちは吉村の駕籠を放り出して逃げてしまう。
そして、それから3日後の27日早朝に、置き去りにされた場所から3キロほど離れた山中の小屋に潜んでいる所を藤堂兵に発見されて撃ち殺されました。享年27歳。

五條の代官 鈴木源内
天誅組が五條の代官所を襲ったとき、時の代官は鈴木源内。
源内が五條に赴任してきたのは事件の前の年でしたので土地の人の恨みを買うほどの時間はありませんでした。
60才程にもなる温厚善良な人柄で、領民からもよく慕われた代官でした。
彼は天誅組に殺害され、首は道端にさらされました。
彼も、幕末維新の動乱に巻き込まれた同じ犠牲者といえるでしょう。
彼の墓は五條市本町1丁目の極楽寺にあります。

乾十郎
 文政10年(1827)五條生まれ。
思想は五條の森田節斎から教えを受け、医術を節斎の弟に学び 大津で梅田雲浜にも学び、 尊王志士に育ちました。
大坂に出て筋違橋東詰めで町医を開業、独自の目薬「真珠円」を売る一方、吉野川を下流へ流す木材に対する、紀州藩の課税を廃止させる運動をしたり、現在の吉野川分水に似た計画を立てました。
 十郎は代官所に程近い今の本陣交差点近くに住み、代官所の様子を監視して天誅組が五條に攻め入るのを助けたといわれています。
 事件後、大坂で偽名を名乗って医者をしていましたが 捕らえられ、元治元年(1864)京都の六角にある牢獄で斬首 処刑されました。享年38歳。

井澤宜庵
 天誅組には軍医として参加、文政6年(1823)に紀伊国伊都郡に生まれ。
 父に連れられ五條に移りました。節斎とも親交がありました。
 天誅組が鎮圧された後、五條で幕府に降伏して捕らえられましたが、その時は五條の人々の嘆願で釈放されました。しかし2ヵ月後、幕府の役人により再逮捕。
慶応元年(1865)六角の牢獄で毒殺されました。享年43歳。
十郎と宜庵の墓は、どちらも五條にあります。

橋本若狭
文政5年(1822年)12月益田藤左衛門の第四子として宇智郡滝村に生まれました。
幼名を藤馬、通称を綱幸と称し後に若狭と改めました。
万延元年(1860)三月38歳の時、吉野郡丹生村長谷の丹生川上神社下社祠官橋本信政の後継となる。
幼少より武芸を修め、当時「滝の今弁慶」とさえ言われました。
剣、柔、槍、砲術の技を修業するために常に各地を巡歴、諸藩の形勢や国情を探り歩きました。
一方、特に柔術に長じ 自ら「二葉天明流」を興し、神職のかたわら練武場を設け近隣の者たちへ武芸 を教えながら熱く勤王の志を説きました。
天誅組の義挙が起こると妻子を残し、同志中井元定(越前)や欣求寺良厳等を引き連れ参陣、祀官として皇軍戦勝を祈祷する一方で自らも武人として栃原、樺の木峠、広橋峠で彦根藩を相手に奮闘。
鷲家口での最後の戦をかろうじて脱出。三河の村上忠順宅に潜伏。
元治元年(1864年)大阪にて大阪屋豊次郎と称して材木仲買商を営みながら同志たちとの画策を続ける。
11月幕吏に捕縛され翌慶応元年(1865年)六月京都六角獄で処刑された。時に享年44才。
明治25年(1895年)五月靖国神社に合祀。同31年(1898年)七月正五位を賜る。
「川上の神の心をこころにて 濁れる世には澄むとそ思う」

民 具

キリシタン禁制の高札



幕府が正徳元年(1711)に出したキリシタン訴人制札を、東境村の領主である旗本本多修理がのちに奥書をつけて出した高札です。
旧東境公民館前にあったといわれます。
江戸時代中期以降の東境村は、刈谷藩と旗本本田氏(元治元年に西端藩となる)の相給でした。

銀500枚は
銀1枚=京目43匁
金一両=銀50匁(慶長14(1609)年)
 43×500÷50=430
銀500枚は金430両
銀300枚は金258両
銀100枚は金86両
※当時の仲間の年季奉公の給金が年3両ほどであったから大変な高額でした。

ふいご



▲野鍛冶の送風機

ハイトリック



▲今から5〜60年前大正から昭和初期のころまでよく使われたゼンマイ仕掛けの蝿取り器で、直径10cmほどのドラムに蜂蜜など甘い粘液を塗っておくと、蝿がそこにとまる。
回っているドラムは下方にいって、逃げ場を失ったハエは、下の方から隣にある金網のケースにはいるというという装置のもので、かなりよく捕れたらしい。
日本人の細かい工夫、アイデアがよく生かされたものといえよう。

当時のハイテク蝿取り器はこちらをごらんください。



▲ところ天つき器
 箱の一方に糸を縦横に張り、もう一方からところ天を入れて棒で押し、ところ天がひものようになってでてくるようにした道具



▲俵締機
 稲藁を材料とした菰俵に玄米を入れ、米俵を仕上げする段階で縄を締め付ける道具。



▲牛のブラシ
 牛の体についたゴミやよごれを取る道具



▲行灯



▲コエ車
 コエ(人畜の肥料)入りの桶を、かなり離れた田畑へ運んだとき 使った車でゴムタイヤのリアカーがまだ普及されなかった大正昭和の中期(20年ごろ)まで広く使われました。
車体の前後に2個づつ桶をぶらさげ、一本木棒の先を持ってカジをとりながら運びました。



▲だいがら
 米や麦などを臼に入れて、きねでついて白くする道具です。
 足踏み臼とも言います。
 明治30年代まで使われました。



▲醤油樽

祭り

伝統の祭り

一般民衆にとっての楽しみはまつりにありました。
野田八幡宮の神幸神事(しんこうしんじ)は400年の伝統をもって今も行われ、雨乞いの笠踊りは復活し今も行われています。
天下の奇祭として知られる刈谷の万灯祭は秋葉神社の雨乞いの祭りです。
伝説によると天宝13年に大きな旱魃があり、時の領主 土井利祐(としすけ)が家老をつかわして、雨乞いをさせたところ、満願の日に雨が降ったので一同喜び、台所の行灯を持ち出し、振りかざして踊ったのが始まりというが、実際には、これより70年余り古く、安政7年(1778)に万灯が登場し、やがて現在のような祭りの形態が整っている。
雨乞いの神事は各地に行われ、刈谷領内の4ヶ村はたびたび市原竜神に雨乞いの立願を行っています。

御馬燈(おまんとう)

1960年までは市内の各地で御馬燈の行事が奉納されていましたが、年とともにその数は減り、80年代は小垣江町で行われるのみとなっています。



▲馬の鞍(鈴付き)
 昔、近辺の町村の祭礼に奉納したお馬燈で使用した鞍で、これを背に付けた馬が若者たちと共に走るほどに鈴が威勢良く鳴り響き観衆とともに境内は大いにわきました。

 

▲内容



▲万灯祭り(まんとうまつり)
秋葉神社は火防の神を祀ります。
1年の火難防除と町内安全の感謝と祈りを込めて、万灯祭りは200年の伝統を持って今日も行われてます。
次々に現れる万灯は上杉謙信に武田信玄、宇治川先陣争いの武将の馬上姿、那須与一など、更に子供向けのパンダも見える。
この秋葉神社の祭礼は宝暦7年(1757)に始まります。
はじめは神楽に幟(のぼり)、提灯を出しての静かな祭りでしたが、安永7年(1778)に至って各町内ごとの出し物に笛、太古で拍子を取る形態に変わり、この年初めて万灯が登場しています。
そして神前舞ののち町内にも繰り出すようになり、出し物は、しだいに万灯に統一されていき秋葉祭礼は万灯祭りと呼ばれるようになりました。
以前は旧暦の6月23、24日が祭礼日で両日とも神前舞ののち、町内にも繰り出したが、現在は8月の第一土曜日、日曜日に改められ、新楽(しんがく)(第一日)に市中行進、本楽(第二日)に神前舞を行っています。
この万灯祭りは最近まで古老の伝説による天保13年(1842)の大旱魃の時の雨乞い満願の時から始まったように伝えられていましたが、古い記録によれば、実際はそれより64年程古く上記の安政7年に始まったというのが正しいようです。
刈谷市の無形文化財に指定されています。

市原神社の大名行列

 

▲大名の籠ですが祭りの道具で複製のようです。

 市原神社の祭りに行われる大名行列は、刈谷町誌によると、寛永9年(1632)刈谷藩主、松平主殿頭忠房(とのものかみただふさ)が始めたといいます。
10万石の格式をもって、秋田出来守が神輿を警護する型で行われます。
寺横町の奉仕によって続けられ、現在は大名行列保存会によってその伝統が保たれています。
神輿がお旅所まで行かれる神幸行列は、末町(すそまち)の奉仕するもので、慶長年中(1596〜1614)刈谷藩初代の藩主、水野日向守勝成が始めたといわれます。
大名行列が進み、そのあと神幸行列が、そして最後に本町・中町・肴町・新町・正木町の花車が続きます。
1年おきに行われる市原神社の渡御祭は、非常にはなやかなものでした。

花火の筒



▲小垣江町大ヶ坪の神社に保管されていた打ち上げ花火用の筒です。
明治30年頃から大正初期の時代に村の秋祭りの催し事はもとより郷土の軍人を送迎する時など、村の祝い事のある場合はこのような筒で花火を打上げ祝意をあらわしました。

参考資料
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/siro4/kariya.html
http://www.gakusen.ac.jp/anjogakuen_pr/chienowa/news.asp?id=04050102
http://www.city.kariya.aichi.jp/history/rekisinannbu2.html
http://shinsent.hp.infoseek.co.jp/zyoukaku/touhoku/hukusima/hukusima.html#重原藩
http://japan.road.jp/History/Yamaguchi-R191.htm
http://www.gojo.ne.jp/g-kanko/tenchu/

http://www.eishindo.co.jp/iyosaku/nanio/kangun.html
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/yomoyama/06tenchugumi.htm
http://homepage3.nifty.com/makio1/torataro.htm
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tentyugumi_5jo2.htm
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/gojo1.htm

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