藤川宿資料館

運営母体 岡崎市
住 所 岡崎市藤川中町北6-1
電話番号教育委員会生涯学習課 0564-23-6177
休館日月曜日 12月29日〜1月3日の年末年始
開館時間9:00〜17:00
入館料無料
備 考駐車場がありません。 通常常駐管理人がいません。
アクセス名鉄電車藤川駅下車 徒歩10分
HP 公式HPは特にないようです。

展示の内容

概 略 脇本陣の場所にある展示館。宿場の模型。古民具の展示。本陣の平面図。
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
藤川宿に関する展示は当然ここだけ。宿場の模型も宿場町の展示では定番のものだが、それぞれに個性がありおもしろい。
近くに本陣の裏手の石垣が見られる。珍しい。殿様の宿泊場所だけに裏手もしっかりしていることがわかる。展示館の門は脇本陣のもの。
また、裏手には「からむし」という植物がたくさんある。一般にはあまり知られていませんが、弥生時代の布地などの原料になる繊維が強い植物です。博物館では解説でけっこう出てきますが、本物は初めて見ました。
ひとこと街道には古い旅籠の町屋がいくつか残っているが、案内にも載っていた町家の所に行ったら空き地がぽつんとあるのみ、こんなふうにして、歴史的建造物が失われていくんですね。
備 考脇本陣の跡地にありますが、脇本陣の名残は門だけです。


地 図

 地図はパンフレットより

岡崎中心街より南南東約5キロ、国道一号線よりちょっと西へ入ったところ

外 観

 

▲現在の間口はせまいが、その当時の敷地は現在の4倍ほどありました。展示館の建物はその当時のものではありません。
当時の建物は本宿町揚珠院の本堂に使われています。
昭和30年に藤河村が岡崎市と合併するまでは、役場が置かれていました。



▲現存する門は関ヶ原の戦いの後に藤川へ居住したと言われる大西三家のうち大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理を施されていますが、昔日の名残をよくとどめています。

藤川宿



藤川は鎌倉期以前には山綱川の流れる北の山すそにあり、野生の藤が美しい集落でした。
天正18年(1590)岡崎藩主田中吉政によって現在の地にうつされました。
慶長6年(1601)に東海道伝馬の制が施行され37番目の宿場として定められました。
幕府直轄の天領となり、慶安元年(1648)三河代官鳥山牛之助の命により東隣の山中の68戸が加宿とされました。
天保14年(1843)の宿内人口は1203人(男540、女673)でした。
宿場の町並みは約1000mで、総戸数302軒、本陣・脇本陣・問屋場が各1軒、旅籠屋が36件(大7軒、中16軒、小13軒)の小規模な宿場でした。
しかし街道は大名をはじめとする旅人の通行が多く振わいました。
芭蕉は「ここも三河むらさき麦のかきつばた」の句を残し、その句碑が芭蕉塚として十王堂に残っています。
駅制の廃止と東海道線の開通により、街道はしだいに寂しくなってきましたが、現存する常夜灯・脇本陣跡・旅籠屋つるや・きらみち道標・松並木などに往時をしのぶことができます。

藤川宿は東の新居宿から西の宮宿(熱田)まで11宿が組合で、赤坂宿とともに「組合宿」の取締りの宿場でした。
さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要衝であり、また、二川・赤坂・御油の四宿連合で荷車の使用を願い出て、街道中で初めて幕府の許可をもらっていました。

宿場模型

 

▲定番 宿場町の模型。 小さな宿場だったようです。



▲幕末の頃の屋号

問屋場(といやば)



▲横7間、奥行き20.5間 140坪余り(約470u)
藤川町中町北にあり、宿場の中心的な役割を持っていました。
問屋場は人馬の継立をし、問屋・年寄・帳付・人馬指がいました。
問屋三重朗・三左衛門・六右衛門等の名が旧記に残されています。
建物は部屋数も多く、中庭を持ち、明治の頃には手習い所として使われました。
昭和27年に改築され、小林邸となり現在に至ります。



▲問屋場の間取り。 家の前にちょっとした空き地があること。
 カウンターのように一部屋外に突き出ていることが特徴です。

駅印



▲藤川駅組合駅伝取締所 印
 藤川宿は、赤坂宿とともに「組合宿」の取締役をつとめていました。
 江戸幕府は東海道に組合宿をもうけました。
 取締役は年に数回各宿場をまわり、問屋の「人馬日締帳」を調べたりもめごとの処理に当たりました。
 藤川宿の組合宿は東から 新居、白須賀、二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、知立、鳴海、宮 でした。

本 陣

藤川町中町北にあり、昭和の中頃までは残されていましたが、現在は森川邸と駐在所になっています。
建物は当時本陣としては珍しい「桧皮葺」で、北側に残る石垣により当時の規模を知ることができます。
屋敷内には薩摩藩士が掘ったといわれる飲料水用の井戸があります。
本陣森川家は菅原家の子孫で久斉の時に三河国宝飯郡御油に住し、孫八郎は家康に仕え功績がありました。
のちに森川喜太郎が藤川に移ったといわれています。

横13間、奥行き25間 320坪余(約1000u)



▲本陣はすでになくなってしまっており、普通の民家になっていました。

 

▲本陣裏側の石垣



▲本陣の梁



▲本陣の間取り。

常夜灯

市場の出入り口付近の寛政7年(1795)建立。秋葉山常夜灯
模型を見ると街道の突き当たりにあるが、現在は道の脇にある。移動したのでしょう。

 

▲内容

棒 鼻

宿屋の出入口を棒鼻(棒端とのかきます)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とあります。

大名行列の際はここで、本陣・問屋等は出迎え「何々宿本陣の何の何等でございます」と向上を述べたと言います。
また宿から差し出される下座触の「シタニーオレッー」も、この棒鼻から始まる場合が多かったといいます。

十返舎一九は「東海道中膝栗毛」のに藤川宿の棒鼻の風景を次のように書いています。
「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿、鉢、みせさきにならべたてて旅人の足をとどむ。
弥次郎兵衛「ゆで蛸のむらさき色は軒毎にぶらりとさがる藤川の宿」(紫色と藤川宿の藤の紫をかける。また藤のぶらりと下がると軒毎に下がる蛸をかける)これにより、宿をうちすぎ、出はなれ(宿のはずれ)のあやしげなる店にて休みて・・・」

 

▲広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行が、棒鼻に入っていくるところを描いたものです。

旅 籠

大正の頃まではこのようなつくりの家が街道筋にはかなり残っていましたが、現在は数えるほどしか残っていません。

銭屋

平岡邸
間口、奥行き共に6間。前面より2間幅を2階としていました。

 

▲街道に面して格子があり、大屋根が出て樋がなく屋根の雨水は溝に落ちるようになっていたといわれます



▲銭屋断面図

米屋

平岡邸・野村邸
 

▲米屋は米を商い、宿内では規模が大きく米倉3棟と長屋を別棟に持っていました。
 屋根の両端には卯建(うだち)があり、隣家との境を示すとともに火災から類焼を防ぐようになっています。

つる屋

現在の斎郷邸で、東海道の北側に面していました。当時藤川宿にあった7軒の大宿のうちで、原型をとどめていた唯一の建物でした。
二回は大名の行列を見下さないように細目の格子となっています。
通庭の構造を持ち、入口は大戸を引いて戸口としていました。
現在は残されていません。

間口6間半、奥行き7間半
表2階建て、瓦葺切り妻 東2間が土間
室内は不整形の6間取り

 

▲つる屋のかつての姿と現在の姿
 ほんの少し前まで保存されていたようですが、とうとうつぶされてしまったようです。



▲つる屋の断面図

宿場の名物

からむし

宿場のみやげは「カラムシ」細工のかんざし、網袋、縄等でした。



▲本陣の裏にはカラムシが多く自生しています。



▲元禄時代の道中記に「道筋の里々にカラムシ細工の早縄、簪(かんざし)あり」と記されています。
 カラムシ細工が藤川宿の土産でした。
 カラムシは桑によく似ており、山野に自生し、その繊維を紡いで縄を作りました。
 縄は本宿の法蔵寺付近でつくり「法蔵寺縄」ともいわれていました。

むらさき麦



芭蕉は「ここも三河むらさき麦のかきつばた」の句を藤川宿に残しました。

藤川宿のこの辺りでは、かって、むらさき色の麦「紺屋麦(高野麦)」を栽培していました。
東海道名所図会では
「藤川、この辺に紫麦を作る。これを高野麦という。」
という記述もあります。
むらさき麦とは穂がむらさき色をした麦で、食用や染色用として使われ、かつては藤川宿の名産でした。
いつしか作られなくなりだれも見たことがない幻の麦となっていました。
平成6年に愛知県農業総合試験場の協力で復活し、藤川で栽培することができました。
藤川宿の西はずれ、藤川小学校の向いの畑に「むらさき麦」が栽培されており、7月には駅や町の各所で見ることができます。

高 札

きりしたん訴人の高札




きりしたん宗門は累年御禁制たり、
自然不審なる者有之申出すべし
御褒美として、
ばてれんの訴人 銀五百枚
いるまんの訴人 銀三百枚、
立かへる者の訴人 同断
同宿拝宗門の訴人 銀百枚
右之通下さるべし、
たとい同宿宗門之内たりといふとも訴人に出る品により
銀五百枚下さるべし
隠し置他所よりあらはるゝにおひては
其所の名主并五人組迄一類共に罪科におこなはるべき者也
正徳元年 5月 奉行

(現代語訳)
キリスト教は従来から禁止されている。
何か不審な者がいるならば通報せよ。
御褒美として、
「ばてれん」(伴天連=司祭)を訴えた者には銀500枚、
「いるまん」(伊留満=修道士)を訴えた者には銀300枚、
いったん仏教に改宗した者で再 びキリシタンになった者を訴えた者にも銀300枚、
キリシタン並びにそれを匿っ た者を訴えた者には銀100枚をそれぞれ与える。
右のとおり通知する。
たとえ 親類縁者であっても訴え出た者には銀500枚を与える。
キリシタンを匿っていることが他から露見した場合には、
そこの名主・五人組も連帯して一類共に責任 を問われることになる。
正徳元年5月 奉行

同様のものは各地に残されているが、詳細に読むと、全国で完全に統一されているというものではなく、
・天和二年五月から正徳元年5月まで時間に若干の開きがある。
・文面は微妙に異なっている。特に後半の部分。
などがわかります

きりしたん訴人の高札はこちらもうすこし記述しました。

駄賃並人足荷物之次第の高札




 御伝馬並駄賃の荷物壱駄   重サ 四拾貫目
 歩もちの荷物壱人      重サ 五貫目
 長持壱丁          同  参拾貫目
但し人足壱人もち重サ五貫目の積リ参拾貫目の荷物は六人して持べし
それより軽き荷物は貫目にしたがひて人数減すべし
此外いづれの荷物もこれに准すべし
 乗物壱丁       次人足六人
 山乗物附壱丁     次人足四人

一 御朱印伝馬人足之数 御書付の外に多く出すべからざる事

一 道中次人足次馬の数 たとひ国持大名たりといふとも其家中共に東海道は一日に五十人五十疋に過べからす
  此外の伝馬道は弐万五人弐拾五疋に限るべし
  但し江戸京大阪の外道中におゐて人馬ともに追越すべからざる事

一 御伝馬駄賃の荷物は其町の馬不残出すべし
  若駄賃おほく入時は在々所々よリやとひ
  たとひ風雨の節といふとも荷物□なき様に相はからふべき事

一 人馬の賃 御定の外 増銭を取るにおゐては牢舎せしめ
  其町の問屋年寄は過料として鳥目五貫文づゝ 人馬役のものは家壱軒より百文づゝ出すベき事

   附 往還の輩 理不尽の儀を申かけ 又は往還のものに対し非分の事あるべからざる事

右の條々可相守之 若於相背は可為回事もの也

  正徳元年五月 日    奉行

親子兄弟・博奕等の高札





一 親子兄弟夫婦を始め諸親類したしく下人等に至るまでこれをあはれむべし
  主人ある輩は おのおの其奉公に精を出すベき事

一 家業を専にし 惰る事なく万事其分限に過るべからざる事

一 いつはりをなし 又は無理をいひ 惣して人の害になるべき事をすべからざる事

一 博奕の類一切に禁制之事

一 喧嘩口論をつゝしみ若其事ある時 猥に出合べからず

一 手負たるもの隠し置べからざる事

一 鉄砲猥に打べからず 若違犯の者あらば申出べし 隠し置
  他所よりあらはるゝに於ては罪重かるべき事

一 盗賊悪党の類あらば申出べし 御ほうび下さるべき事

一 死罪に行はるゝものある時 馳集るべからざる事

一 人売買 かたく禁ず 但し男女の下人 或は永年季 或は譜代に召置事は相対に任すべき事

  附 譜代の下人 又は其所に往来る輩 他所へ罷越 妻子をも持有付候物呼返べからず
  但し罪科ある者は制外の事

右の條々可相守之 若於相背は可被行罪料候也

  正徳元年五月 日    奉行

展示品

旧家に残っていた江戸時代のものを集めて展示してあるようです


▲ほかい いわゆる弁当箱です。



▲本陣状箱
 んっ? これは珍しい! 初めて見た。
 本陣に関するなんらかの書類を入れたものかもしれません。
 でも、「本陣状」というのがあったとは知りませんので、おそらく「本陣」で使っていた「状箱」なのではないでしょうか。



▲狛犬

参考資料
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kosatu2.htm
http://tokdo53.arrd.net/hr-02/hiro03/38mugi.html

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