三河武士のやかた家康館

運営母体 岡崎市
住 所 岡崎市康生町561岡崎公園内
電話番号0564-24-2204
休館日年末年始
開館時間9:00〜17:00(入館16:30迄)
入館料350円 岡崎城との共通券500円
備 考
アクセス
HP http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/ka111.htm (公式HP)

展示の内容

概 略 家康に関する展示。経歴、戦い等。三河武士の系譜
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
関ケ原の戦いの概要。映像と地形模型による解説。古戦場の定番展示なのですが、これがいちばん分かりやすいですね。
家康に関する展示。家康は16人も側室がいたんだそうです。
ひとことテーマが絞られており、映像の使い方もうまい。展示デザインもGood
ここは全体のストーリーがはっきりしており、そのストーリーを「モノ」を中心にして補足してゆく。複製でも写真でもかまわず使ってゆく。博物館関係者必見の博物館か。
非常に深い研究で徳川氏、三河武士研究の本を読むような感覚。もっと知りたいという好奇心を刺激する。
しかし残念かな、読む部分が多すぎ、模型などが少なく、多くの人が設定されたストーリーを把握できていないように思う。
備 考平成17年11月 1日から平成18年3月下旬まで耐震補強・展示改装工事のため休館。


地 図

 地図は パンフレットより

市の中心地 岡崎城公園の二の丸にあります

外 観



城の雰囲気に合わせた外観で、博物館として建てられた立派な建物です。

三河武士

三河武士の源流

11世紀後半、国司の一族 藤原季兼(としかね)は額田郡北部から加茂郡にかけての広い地域を開発しました。
その子額田冠者季範(としのり)は熱田大宮司となり、師弟を滝山寺の住職にしました。
承久の乱(1221)後に三河守護、額田・設楽二郡と碧海(あおみ)・吉良二庄の地頭となった足利義氏(よしうじ)の祖母は季範の孫であり、また、源頼朝の母は季範の娘です。
5代約100年間三河守護であった足利氏は、矢作東宿に守護所と額田郡公文所をおき、細川、仁木、吉良、今川、一色の一族諸氏を分立させました。
また 高・伊勢・板倉・倉持・栗生ら家臣に額田郡内で所領を与えました。
1333年に足利尊氏が矢作で北条氏打倒の決意をした背景には、三河における一族・家臣の大きな支持があったのです。

平安時代後期、岡崎市北部一帯を支配していた熱田大宮司家(熱田神宮の神官の中で最高位の家)は、系図からわかるように源氏および足利氏と姻戚関係にありました。
このような関係から、やがて源氏の一族で北条氏とも姻戚関係のある足利義氏(よしうじ)が岡崎と深いかかわりをもつようになりました。

源頼朝

源頼朝の母は熱田大宮司であった額田冠者季範(としのり)の娘です。
源頼朝と三河とは深いつながりがあったのです。

 

滝山寺(たきさんじ)と 木造観音菩薩立像

 木造観音菩薩立像は源の頼朝と等身大に作られたと伝えられる仏像です。
 鎌倉時代に、頼朝の従兄弟にあたる僧侶が頼朝の1周忌に山内に惣持禅院を建て、観音像の胎内に頼朝の遺髪と歯を納めたといわれています。
 調査によると、この仏像は慶派正系の仏師による秀作であり、頼朝の歯らしいものが口唇の裏側あたりに納入されていることが判明しました。

足利氏と矢作東宿

承久の乱(1221年に『朝廷と鎌倉幕府の間におきた争乱』)後 源氏一族の足利義氏(よしうじ)が三河守護に任命され、同時に額田郡、設楽郡、吉良庄、碧海(あおみ)庄の地頭となりました。
義氏は矢作東宿に屋敷を構え、ここを拠点として額田郡などを支配しました。



▲足利家時袖判重円奉書「武家手鑑」
額田郡公文所
足利市は諸国にちらばる所領や家臣を支配するための機関を作りました。
この古文書のあて先の額田郡公文所は額田郡を管理しうるために置かれたもので矢作東宿にあったと考えられています。

 足利義氏

矢作東宿は現在の岡崎市明大寺町付近(東岡崎駅あたり)にあったと推定されています。
明大寺町よりやや西方の矢作川の河床(渡町)からは縄文中期より江戸初期にわたる遺物が多数出土しており、このあたり一帯が古くから栄えていたことを物語っています。

矢作東宿には守護所や公文所がありました。



▲鎌倉街道と矢作宿



足利氏は源氏の一族で、下野国(栃木県)足利荘を本拠とする鎌倉幕府の有力武士でした。
13世紀末ごろには、三河と上総の守護であったほか、諸国に多くの所領を持つようになっていました。



▲三河の足利一族
 足利氏の一族は、分け与えられた所領の地名を苗字としました。
 ●仁木(にっき)氏
  足利実国(さねくに)が額田郡仁木(岡崎市)に住み、仁木太郎と称したことに始まります。
  子孫に三河守護になった義長(よしなが)がいます。
 ●細川氏
  足利義季(よしすえ)が額田郡細川(岡崎市)に住み、地名の細川を苗字としたことに始まります。
  応仁の乱の東軍の主将細川勝元は、この細川氏の子孫です。
 ●吉良氏(西条)
  足利長氏(ながうじ)が吉良荘西条(西尾市)に住み吉良氏を称したことに始まります。
  忠臣蔵の吉良上野介義央はこの吉良氏の子孫です。
 ●吉良氏(東条)
  足利義継(よしつぐ)も吉良氏を称しました。吉良荘東条(吉良町)に住んだと伝えます。
  子孫は奥州に移住しました。
 ●今川氏
  足利国氏(くにうじ)が吉良荘今川(西尾氏)に住み、地名の今川を苗字としました。
  織田信長に敗れた今川義元はこの今川氏の子孫です。
 ●一色氏
  足利公深(こうしん)が吉良荘一色(一色町)を苗字の地としたことに始まります。
  室町時代に子孫が三河守護になりました。



▲三河の足利氏家臣
 三河国内には、足利氏の家臣も多数居住していました。
 これは足利貞氏(さだうじ:尊氏の父)が、家臣の粟生(あおう)氏に秦梨子(はだなし)郷(岡崎市)を以前のとおり所有して良いと認めた古文書です。
 粟生氏は足利荘から移住してきた足利氏の家臣です。
 他にも高(こう)・伊勢・倉持氏など足利氏家臣が三河に所領を与えられて移住してきました。
 また幡豆郡司であった伴(ともの)氏の子孫の富永氏や設楽氏などの古くからの三河の武士たちも、足利氏の家臣となって、足利氏の勢力は三河に浸透しました。

足利尊氏の反乱

 

▲足利尊氏木造 と 岡崎市大門町にある足利尊氏宝塔
            このあたりは矢作川の渡しとして知られる所です。

足利一族・家臣が多数居住する三河は、足利氏の第二の本拠といわれるほど、足利氏にとって重要な地となりました。
元弘4年(1333)足利尊氏は矢作において鎌倉幕府打倒を決意したといわれます。
また建武新政を開始した御醍醐天皇に反対した尊氏は、矢作川を前線基地として後醍醐天皇軍と戦いました。
矢作川の戦いでは足利軍が敗北するが、三河の武士たちは尊氏にしたがって各地で戦い、尊氏が室町幕府を開くのにおおいに貢献しました。



▲足利氏と後醍醐天皇の戦い

室町幕府と三河武士

室町幕府成立後も、三河は足利氏にとって重要拠点のひとつでした。
守護は観応上覧(1351)までは高(こう)一族、その後仁木(にっき)・新田(大島)・一色・細川と足利一族が多く任命され、その家臣が入国してきました。
幕府をひらくにあたり尊氏に従って活躍した足利一族・家臣の多くは三河を離れましたが、将軍親衛軍である奉公衆は中条氏・和田氏をはじめ四十家以上が三河に所領を持っていました。前代以来の額田郡の所領は将軍料所(直轄領)とされました。
これを管理する幕府政所執事伊勢氏の家臣の一員となったのが松平氏でした。
松平三代信光は1465年の額田郡牢人一揆討伐で頭角をあらわし、ついで応仁・文明の乱中に岡崎西郷氏。安城和田氏を追って版図を拡大しました。



▲室町幕府奉公衆
 守護の支配を受けず、室町将軍に直接つかえる武士を「奉公衆」といいました。
 江戸時代でいえば旗本にあたります。
 足利氏の第二の本拠と言われた三河に所領を持つ奉公衆は国別では最も多く、40人を超えました。
 このため、松平氏は周囲を奉公衆にかこまれながら勢力を拡大していかねばなりませんでした。



▲三河の奉公衆分布



▲三河の首都歴代年表
 室町時代に三河の守護をつとめたのは高(こう)一族、その後仁木(にっき)・新田(大島)・一色・細川の五氏です。
応仁の乱後の頃は細川成之(しげゆき)が三河守護でしたが、乱後は文明10年(1478)を最後にだれが守護であったのか不明になります。
下克上の時代となった三河では、特に松平氏が勢力を伸ばしました。
細川成之は安房の守護も兼ね、東山文化期を代表する教養人の一人としても知られています。



▲細川成之画像 徳島市 丈六寺

中条氏(ちゅうじょう)



▲中条家長(いえなが) 画像 埼玉県 常光院蔵
 高橋荘を支配した奉公衆で、初代家長は武蔵国中条保(埼玉県熊谷市)出身で、承久の乱後に尾張守護高橋荘地頭に任命された鎌倉幕府の有力武士でした。
 松平氏と戦ったこともありましたが、しだいに勢力を失い、永禄4年(1561)織田信長によって滅ぼされました。
 奉公衆は、あるいは中条氏のように滅亡し、あるいは強者の家臣となりました。弱肉強食の世の中へと時代は変わりました。

松平家



▲松平城絵図

松平氏の飛躍と譜代家臣の形成
松平氏発展の基礎を固めたのは三代信光でしたが、その子孫は岩津・岡崎・安城 松平家をはじめ額田・碧海・宝飯・加茂の各地に分立して松平氏の版図を広げました。
1506年、北条早雲を将とする今川勢の侵入により、惣領家であった岩津松平家は滅亡し、変わってこれを退却させるのに中心的役割を果たした長親の安城松平家が進展ししました。
安城松平家の四代清康(きよやす)は、1524年岡崎松平家の信康をくだして岡崎に移り、やがて西三河から東三河に進出して諸氏を服従させ、後の譜代家臣団の原型を形成しました。
しかし、美濃斉藤氏と結んで尾張進出を企てた清康が1535年尾張守山で家臣に殺されると、三河支配体制は急速に崩壊しました。



▲松平氏ゆかりの城

 

松平初代 親氏(ちかうじ)

松平初代親氏は松平城(郷敷城:ごうしきじょう、豊田市)を本拠として発展の基礎を作りました。
江戸時代の史書によれば、源氏新田氏の末裔で、上野の国新田郡得川郷(群馬県新田郡尾島町)が郷里であったが、足利幕府に追われて徳阿弥と称して時宗の遊行僧となり、諸国を流浪して応永(1394〜1427)のころに三河の国に入ったという説と、三河の山間部松平郷の一小豪族が発展したという考えの2つがあるそうですが、ここでは博物館の採用している前者の説に従います。
連歌の会で加茂郡松平郷(豊田市)の長者松平太郎左衛門信重に認められて同家の長女の婿になり、松平家を継いだといわれ、還俗して松平太郎左衛門親氏と名乗りました。
親氏は武勇に勝れ、隣村林添の藪田源吾を討って、次いで額田郡の中山七名(岡崎市)の地を征服し、松平の館南方の山頂に郷式城(松平城)を築いて本拠地としました。

松平二代 泰親(やすちか)

弟とも子とも言われる泰親が跡目を継ぎ、同じく松平太郎左衛門を称しました。
親氏、泰親は確実な資料がなく不明確であるが、三河平野進出の足掛りとして、岩津城を攻略、また岩津に若一神社を創建しました。
「三河物語」「松平氏発祥譚」「朝野旧聞襃藁」等に記載されています。

松平三代 信光(のぶみつ)

泰親の子(あるいは甥)信光は岩津(岡崎城)の天神山を本城とし、室町幕府政所執事伊勢氏の権力を背景に西三河の1/3を入手して、松平氏を大きく発展させ、松平氏躍進の基礎作りをしました。
信光は、寛正6年(1465)の額田郡牢人一揆を平定し、応仁、文明の乱中に安祥(安城)城、岡崎城などを攻略して、領地を拡大しました。
子7人を入手した要地に分立、配置し松平氏の支配力を広く確実なものにしました。
神仏への信仰も深く、大松寺・信光明寺・妙心寺等の寺院等多く創建。
「親元日記」「菅浦文書」に出てきます。



▲信光は岩津信光明寺(しんこうみょうじ)を起し、そこに納めた本尊釈迦如来の連座には松平氏発展と子孫繁栄を願う願文が残されています。

松平郷には松平氏発祥地としての松平館跡、親氏・泰親の菩提寺高月院、郷式城址、親氏縁の妙昌寺(豊田市王滝町)などが現存しているので 始祖たち二代も14世紀末ごろ松平郷を本拠地としていたようです。

松平傍系 益親(ますちか)

「信光の弟 益親は京都に住み、伊勢氏のはからいによって近江(滋賀県)の菅浦荘(すがうらのしょう)、大浦荘(おおうらのしょう)の代官を務めました。
寛正2年(1461)の両荘の争いを記した「菅浦大浦両庄騒動記」には「松平殿勢には、三河よりものぼる」とあります。
松平一族は、遠く三河の地から益親の加勢に向かったのです。」

松平四代 親忠(ちかただ)

「四代親忠は信光の三男で安祥(安城)城を与えられ、安城松平家の初代となりました。
麻生城(あそうじょう:額田町)の天野景孝(あまのかげたか)をくだし、子の乗清(のりきよ)を入れ、明応2年(1493)には中条氏の軍勢と井田野で戦い(第二次井田野合戦)これを破りました。
足助の鈴木重勝の女を妻とし鈴木一族と姻戚になり、岡崎の北も固め、大給、滝脇に分立家を出しました。
文明7年(1475)鴨田に大樹寺(だいじゅじ)を建て安城松平家の菩提寺とし、また伊賀(岡崎市)に八幡宮を勧請して氏神としました。
さらに碧海郡南部を支配下におさめ、71歳で没しました。」



▲伊賀八幡宮 文明2年(1470)の創建。社殿は国指定重要文化財に指定されています。
 伊賀八幡宮に続き、親忠は大樹寺を創建しています。



▲安祥(安城)城   ちなみにここには安城市の博物館があります。



▲安藤親忠が伊賀八幡宮に寄進した兜(複製)



▲井田野の戦い
 「明応2年(1493)、松平氏の勢力拡大をおさえようと、中条氏は家臣である寺部の鈴木氏、伊保(いぼ)の三宅氏、八草の那須氏らを結集して、北方から矢作川を越えて松平領に攻め入りました。
 親忠は安城から兵を出し、井田野(岡崎市)でこれを破りました。
 この戦いにより松平氏の勢力は拡大し、一族内における安城松平家の親忠の地位も高まりました。」

松平五代 長親(ながちか)

「五代長親は碧海郡南部から幡豆郡へと勢力を伸ばしました。
永正3年(1506)、北条早雲のひきいる今川勢の侵入を撃退し、松平一族の惣領の地位を入手しました。
その子信忠に家督を譲り隠居しましたが、実権は依然として長親が持っていました。
子の信忠、孫の清康にも先立たれ、天分13年(1544)72歳で没しました。
1542年生まれの曾孫の子にあたらう家康の顔は見たことと思われます。」



▲今川氏の三河侵入
 「永正3年(1506)三河は、北条早雲の指揮する今川軍勢の侵入をうけました。
 岩津城は激しい攻撃にあって落城し、岩津松平家はここで絶えました。
 長親の松平勢は、安城を発して市内の井田あたらいで今川勢と戦い、早雲を退却させました。
 早雲は当時74歳の高齢でした。
 今川氏の三河侵入は1508年まで続き、ようやく松平氏が勝利をおさめました。」



▲松平親盛画像 安城市 宝泉院蔵(複製)
 「松平長親の次男で、福釜(ふがま)松平家の初代です。
 東間三河で最後まで清康に反抗した宇利城の熊谷氏に対する攻撃では多くの戦死者を出しました。
 中でも清康のおじにあたる親盛は、大手門を拓いて打って出た城主熊谷直利勢に対して必死に踏みとどまり戦いましたが、家臣13人と共に討ち死にしました。
 死後は福釜良心寺(宝泉院)に葬られました。」

岡崎松平家

「岡崎松平家は、信光も5男光重が岡崎城の西郷頼嗣(よりつぐ)の婿養子となり、この城を譲られたことに始まります。
当時の岡崎城は菅生川(乙川)南岸の明大寺の地にありましたが、のち松平7代の清康によって現在の地に移転再築されました。
岡崎松平3代の信貞は山中城を構えて惣領家に背いたので大永4年(1524)清康に攻められ大草(幸田町)にしりぞきました。」

松平六代 信忠(のぶただ)

六代信忠は「三河物語」によると慈悲心がなく、政務の手腕もなかったといわれます。
このため松平家の家臣は信忠派と弟の信定(のぶさだ)派に分かれて宗家相続を争ったといわれています。
家臣の信望を失った信忠は、子の清康に家督を譲り、大浜(碧南市)称名寺(しょうみょうじ)に隠居しました。
分立一家を出しています。
大樹寺に信忠が寄進した涅槃図のなかにこのような自分の姿を描きました。



▲涅槃図の中の信忠の姿

松平七代 清康(きよやす)

13歳で家督を継ぎました。
「若年ながらも人慈にあふれ、武勇にすぐれていたといいます。
山中城攻めで岡崎松平家の信貞を攻略し、松平宗家の居城を安城から岡崎に移しました。
西三河から東三河に支配を拡大し、さらに織田信秀を攻略するためにも尾張にも進出するが、家臣に殺されて25歳の生涯を終えました。
「三河物語」は清康の容姿を、背は低いが目は鷹のように鋭く、ならぶ人がいないと評しています。
清康の代には岡崎城下の建設がはじまり、また、のちの家康に続く譜代家臣団の原型も形成されました。」

 

「山中城は三河地方では最大規模に属する典型的な山城でした。
東海道と額田郡南部へのみちを押さえる交通上の重要な場所に位置しています。
山頂の本丸・二の丸跡は、約3アールの広さを持ち、その山腹には帯状の郭が設けられています。
北側と南側は急な斜面になっており、北側の山腹には、谷間に向けては尾根伝いに攻めてくる敵を防ぐための堀切が設けられています。
山のふもとには当時の武士たちの住居をあらわす字名が残されています。」

 

▲山中城             ▲大樹寺多宝塔 天文4年清康により建立

山中城攻め
「山中城は、松平宗家に対立していた岡崎城主松平信貞の城でした。
清康は宇津(大久保)忠茂(ただしげ)の献策により、大永4年(1524)6月風雨をついて夜襲し、この城を攻め取りました。
清康に山中城を取られた信貞は、岡崎城を明け渡して大草(幸田町)にしりぞきました。
清康は安祥(安城)城から岡崎城に移り、以後、家康が浜松に居城を移すまでの46年間、同城が松平氏の本拠となりました。」



▲宇津(大久保)忠茂(ただしげ)墓 岡崎市竜千寺町
 「山中城攻略の第一のてがらをたてたのは宇津(大久保)忠茂(ただしげ)でした
 彼はほうびとして「枡取」(ますとり)という市場の管理権を清康から与えられました。
 更に忠茂が市場にかかる税を免じたために諸国の商人が岡崎城下に集まりました。
 これが岡崎の町のおこりといわれます。」



▲清康の三河平定
 「清康の短い生涯は、毎年のように出兵に終始しています。
 山中城をせめて以降、西三河一帯をおさえ、ついで今川氏の勢力下にあった東三河の国人衆(吉田城の牧野氏、田原の戸田氏、奥三河の山河三方衆、嵩山(すせ)の西郷氏、宇利の熊谷氏など)も支配下に置きました。
 さらに尾張にも進出しますが、天文4年(1535)守山で殺されました。
 清康の三河一国支配の動きは、東の今川、西の織田の両氏に対抗して戦国大名をめざすものでした。」

松平八代 広忠(ひろただ)

「清康の死後わずか十歳で松平宗家の跡継ぎとなりました。
松平家の内紛により、広忠は岡崎城を追放され、伊勢・遠江と各地をさまよいました。
天文6年(1537)に今川義元の後援で岡崎城に帰城しました。
二回にわたる小豆坂(市内美合町)の戦いで義元とともに織田勢をからくも追い返しました。
天文18年(1549)家臣の岩松八弥に殺され、24歳の生涯を終えました。」

 

▲小豆坂古戦場跡        ▲松平広忠使用青貝鞍(複製)

徳川家康

「家康は東の今川氏、西の織田氏の間で苦闘する松平広忠の長男として1542年に生まれ竹千代と名づけられました。 3歳の時、母於大の実家刈谷城主水野氏が織田方になったため母と分かれ、6歳から8歳まで織田氏にとらわれの身となり熱田におかれました。
1549年父広忠が殺されると、今川義元は西三河に出兵して織田勢を三河から追い出し、岡崎城を接収し城代を置きました。
さらに義元は捕虜にした信長野庶兄信広と交換に竹千代を引き取り駿府(静岡市)に移しました。
以後19歳まで家康は今川氏のもとで人質生活を送ることになりました。
その間、三河は今川氏の領国となり、松平家家臣も今川家家臣団のなかに組み込まれました。」

竹千代



▲竹千代(家康)出生 岡崎城内産湯の湯

 「家康は、天文11年(1542)12月16日寅の刻(午前4時頃)広忠の長男として岡崎城内で生まれ、竹千代と名づけられました。
母は水野忠政の娘於大(おだい)です。
3歳で母と生別し、5歳で今川方に人質として赴く途中を奪い取られて織田方に渡されました。
父広忠の死後は8歳で今川方の人質として駿府(静岡市)に移されました。
駿府での12年間の人質時代には太原雪斎(たいげんせっさい)らに教えを受けました。」

於大の方
「刈谷水野氏の出で、松平広忠に嫁して家康を生みました。
兄の刈谷城主水の信元が天文13年(1544)今川義元にそむいて織田信秀に属することになったので広忠と離別、刈谷に帰りました。
のち、尾張知多阿久比城主松佐渡守俊勝に再嫁しました。
慶長7年(1602)没、法号伝通院。」

於大の方については東浦町郷土資料館も詳しく展示しています。

三河の今川領化

広忠は、天文18年(1549)年 家臣に暗殺されました。
当時あとつぎの竹千代は、織田方に人質に取られており、松平家には当主がいませんでした。
今川義元は、ただちに岡崎城を接収して城代を置きました。
さらに、安祥(安城)城を攻め落として西三河から織田勢力を一掃し、また、その時とらえた織田信弘(信長の兄)と竹千代を交換して、竹千代を駿府に移しました。
以後、松平氏の所領は没収され今川氏によって2度にわたる検地が実施されるなど三河は完全に今川領に組み込まれました。

家康の三河平定

桶狭間での今川義元の戦死により19歳の元康(家康)は人質の身を脱して岡崎城に帰城しました。
今川氏から自立した元康はすぐ三河平定に着手しました。
今川氏真(うじさね)と手を切り織田信長と和睦し、1562年には清洲城で会見しました。
信長との同盟を背景に元康は今川勢力の駆逐につとめ、さらに東三河の西郷・菅沼・奥平・設楽の諸氏を貴族させました。
しかし、この三河支配の前にたちはだかったのが1563から翌年にかけておきた三河一揆でした。
半年余り続いた一気に苦戦はしましたが、これを制圧した家康は、吉田城、田原城を攻め落として三河全土を平定することに成功し、戦国大名としての地位を築きました。

元康の自立

永禄6年(1563)には、名前を源義家の「家」と武勇の祖父清康の「康」を合わせて家康と改めました。

 

▲家臣団



▲大高城兵糧入れ
 永禄3年(1560)信長が大高城への糧食を絶ったために、義元は元康(家康)に兵糧入れを命じました。
大高城は織田領に深く入り込んだ今川方の最前線の拠点でしたが、元康は徹底的に織田兵を撹乱し、それによって織田兵の動きを止め、労せずして大高へ入城しようとする元康の作戦をもって兵糧入れを成功させました。



▲桶狭間の戦い
 「永禄3年(1560)今川義元は、駿河、遠江、三河三ヶ国の大軍をひきいて信長の領内尾張に入りました。
 同年5月18日、義元は桶狭間に駐軍するところを信長の奇襲を受けて敗死しました。」



▲大樹寺門前の戦い
 今川義元戦死の報をうけた元康は、大高城からひきあげ、大樹寺に兵を納めました。
 追撃の織田勢は大樹寺を包囲しました。
 大樹寺住職の登誉上人(とよしょうにん)は、元康に「厭離穢土、欣求浄土」(えんりえど、ごんぐじょうど)の経文の言葉を授けて自害を思いとどまらせたといわれます。
 登誉上人ら衆僧は、白布に「厭離穢土、欣求浄土」と書いた旗を掲げて戦いました。
 なかでも70人力といわれた祖洞和尚(そどうおしょう)は、総門のかんぬきを持って門外に出て戦い、敵を打ち散らしたといわれます。

 

▲今も大樹時には「厭離穢土、欣求浄土」が掲げられ、カンヌキが残され祭られています。

ちなみに、厭離穢土欣求浄土とは?
戦国の時代は、武士が自分の欲のために戦って、国土が穢(けが)れています。その穢土を厭(いと)い離れ、永遠に平和な浄土を欣(ねが)い求めて、それを成すという意味です。 源信(げんしん)著「往生要集」に記述があります。

三河一向一揆

「一向一揆を制圧した家康は、本願寺派寺院に転宗を命じ、それに応じない寺は破壊し、さらに、坊主衆を国外に追放しました。
以後、約20年間三河において本願寺派は禁止されました。
それが許されるのは、家康の叔母の妙西尼(みょうさいに)からの熱心なはたらきかけによってです。
天正13年(1585)追放されていた坊主衆に帰国許可が出され、本願寺派寺院は再興に向かいました。」

妙西尼(みょうさいに)
「妙西尼とは妙春尼とも言います。
石川清兼室で家成の母。
刈谷城主水野忠政の娘で、通説では家康の母於大の妹とされていますが、家成の生年などからすると於大より10歳近く年長の姉と考えられます。
三河本願寺教団の中心人物の一人で、三河一向一揆後約20年間三河で禁止された一向宗の解禁、および本願寺派寺院再興に貢献しました。
慶長3年(1598)没。」

三河平定



▲家康の初陣より三河平定までの合戦場のプロットです。  しだいに三河の東へ勢力を広げていった様が理解できます。



▲尾張を勢力下におさめていた織田信長は徳川家康の勢力に押されしだいに西へと本拠地を移動します。



▲三河統一期の家康家臣団
 「1560年代末に三河をほぼ支配下においた家康は三河を東西に二分して、東は酒井忠次(さかいただつぐ)、西は石川家成(いしかわいえなり)を旗頭とし、松平一族・譜代家臣や、平定と共に家臣となった各地の武士を組下にいれました。 この両組に家康直轄の旗本を加えた「三備」(みつぞなえ)と呼ばれる軍制が成立しました。」

武田氏との抗争14年間

「三河平定後 武田勝頼の天目山で自刃した1582までの14年間は家康にとって武田氏との抗争の時代でした。
まず今川氏を追放して遠江を平定するとともに、領国の経営と東方の武田氏に対するために岡崎から浜松に移しました。
1572年武田信玄と三方ヶ原に戦い 大敗しましたが、3年後の長篠の合戦では織田信長と組んで勝頼の武田軍を破りました。
以後家康は高天神城などの武田方の城を攻め落とし、遠江・駿河から甲斐に進出し、信長とともに武田氏を滅ぼしました。
この過程で家康は今川家臣、武田家臣を配下に編入して強力な家臣団をつくりあげ、戦国大名として成長し、「海道一の弓取り」といわれるようになりました。」

家康・信玄の今川領侵入

永禄11年 1568年



▲今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結び、今川領であった遠江の大半を攻め取り、掛川城で氏真を降し、元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江の曳馬に移し浜松城を築きました。

三方ヶ原の戦い

元亀3年 1572年
「武田信玄の軍勢が甲府を出発し、遠江に侵攻しました。
武田軍は2万5千の大軍を率いて徳川家康側の拠点である浜松城へとせまりました。
この時、家康側には武田軍の半分以下の軍勢しかいなかったため、家康は当初 籠城戦を行う作戦でした。
しかし、野戦に持ち込もうとする信玄の作戦に乗り、家康は北方の三方ヶ原の地に進み出ました。
戦いの結果は、家康の惨敗で、家康は浜松城へ逃げ帰りました。」

 

▲武田信玄の遠州地方への侵攻路は、諏訪を遠回りして天竜川沿いを南下したものでした。

長篠の戦い

「天正3年 1575年
武田勝頼軍は、設楽原(したらがはら)を舞台に連吾川(れんごがわ)をへだてて織田・徳川連合軍と対峙しました。
この戦いは、徳川家康が奪取した長篠城を武田軍が包囲したために起こりました。
同城に籠る奥平信昌をたすけるために設楽ヶ原に布陣した織田・徳川連合軍は千丁以上の火縄銃を有効に使用して武田軍を破りました。」



▲浜松を出た家康は新城市の設楽原に陣をかまえ、武田勝頼軍を撃破しました。

 

▲長篠城

設楽原合戦に興味を持たれた方は設楽原歴史資料館または鳳来町長篠城史跡保存館をごらんください。

徳川・織田軍の武田領侵入

天正10年 1582年 武田氏滅亡
「勝頼の力の急速な衰退を機に、織田・徳川連合軍は武田氏討伐に集り出しました。
家康は田中城を落として駿府に入るとともに、武田氏の重臣である穴山梅雪を味方につけて甲斐に攻め入りました。
そして、織田軍に逐われて田野まで逃げ込んでいた勝頼が自刃し、ついに鎌倉時代以来の名家武田氏は滅亡しました。」



▲中山道から織田信忠(信長の嫡男)・滝川一益・河尻秀隆軍、飛騨口より金森長近軍、駿河口より徳川家康軍が甲斐に攻め入りました。織田軍の総勢は10万ともいわれた。

本多忠勝



「三方ヶ原の戦いは、徳川方の大敗に終わったが勇猛な三河武士の名を高めました。 とくに本多忠勝のはたらきはめざいましく、甲州武士は「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と本多忠勝をたたえました。
本多忠勝は黒糸驚異威(おどし)の鎧、鹿角のいでたちで五十余度の合戦に臨んだが、一度も負けなかったといわれます。」

「天文17年(1548)額田郡蔵前の生まれ、永禄3年(1560)尾張大高城を攻略したのを初陣として、多くの戦いで家康に従軍しました。
猛将として知られ、徳川四天王と一人に数えられます。
家康関東移封により、上総尾本多十万石、関が原合戦後に伊勢桑名十万石に転封となりました。
1610没。」

ちなみに唐の頭にとは徳川軍の武将がよくつけた兜の飾りのことです。

井伊直政



「家康は遠州を征服する過程で今川旧臣を自分の家臣団に組み込んでいきました。
遠州井伊谷の井伊家も今川氏に仕えていたが、直政の父が織田方への内通の嫌疑を受けて殺され、とりつぶされました。
直政は流浪の生活を送りましたが、天正3年(1575)浜松城下で見出され、以来家康につかえることになりました。
のち徳川四天王にかぞえられるほど重用されました。」

豊臣政権と家康

「本能寺の変で信長が倒れたあと家康は、伊賀越えをした堺から岡崎に帰り、すぐに甲斐・信濃の計略に乗り出しました。
そして1583年までに甲斐と南信濃を支配下におき、以前から三河・遠江・駿河を含めて五ヶ国の大名となり、信長の地位をひきつぎ全国統一をめざす豊臣秀吉と対抗するまでになりました。
こうして翌年秀吉との小牧・長久手の戦いがおきました。
両者とも互角の勢力を示したが、政略結婚などにより、家康と秀吉と講和を結びました。
1590年小田原氏の北条氏を滅ぼしたのち、家康は秀吉により関東に転封されました。
旧領五ヶ国を離れ、江戸にはいった家康はただちに家臣団の知行割を行い、関東各地に家臣を配属しました。」

伊賀越えの危機

 

▲伊賀越えのルートと 京都の商人茶屋四郎次郎清延

「天正10年(1582)織田信長は家臣の明智光秀に襲われ、京都本能寺に倒れました。
当時、堺の町を遊覧中だった家康は、京都の商人茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)から変報を聞き、三河への最短経路である伊賀路によって帰国しようとしました。
途中しばしば危険なめにあいましたが、本多忠勝や茶屋などの活躍と、伊賀者の助けにより、家康は無事岡崎に帰ることができました。
この伊賀越えは、家康の生涯で最大の危機のひとつと言われます。」

築山御膳・信康の悲劇

「天正7年(1579)家康は、武田氏と内通したとの疑いをかけられた正室の築山御膳、長男の信康を信長の命令で死においやりました。
武田氏に対抗するために信長の後援を必要としていた家康は、信長に背くことができませんでした。」

「徳川信康は永禄2年(1559)家康の嫡男として生まれました。
母は今川氏の一族関口義広の娘である築山殿。
同6年に織田信長の娘五徳と婚約し、10年に結婚しました。
元亀元年(1570)、家康が浜松に移ると岡崎城主になりました。
しかし、武田氏通牒との嫌疑をかけられたために、天正7年(1579)家康によって岡崎から追放され、遠江二俣城で自刃させられました。
享年21歳。」

 

▲築山御膳の墓。西来院(浜松市)    信康の首塚(岡崎市朝日町若宮神社)

甲州経略と平岩親吉

「武田氏滅亡のあと、甲斐・信濃を支配していた信長が急死したことにより、両国は混乱しました。
家康はただちに出兵し、両国を支配下に組み込もうとしました。
甲斐国への進出は成功し、家康は旧武田家家臣数百人を家臣団にくみいれ三河譜代の平岩親吉(ひらいわちかよし)を郡代とし甲州を統治させました。」

「平岩親吉は家康と同年の天文11年(1542)生まれで、幼い頃から家康に仕えました。
家康長男信康の補佐をつとめ、家康関東移封後は上野鷹橋3万3千石、関が原合戦後は甲斐甲府6万3千石を与えられました。
慶長8年(1603)家康9男森直に付属され、同12年尾張清洲に封じられると犬山9万3千石を領しました。
慶長16年没。」

信州経略と酒井忠次

「信濃は土豪の勢力が強く、進出は困難をきわめました。
天正10年(1582)7月、家康は徳川四天王のひとり酒井忠次(さかいただつぐ)に、とくに「五箇条定書」を与えて信州 経略に出発させました。
忠次は苦労を重ね、信州南部をその支配下におきました。」

江戸幕府の基を築いた家康

「豊臣秀吉の死によって、家康は五大老の筆頭として実権をにぎり、朝鮮攻略後の国内政治の安定に努めました。 1600年、家康を排斥しようとした石田光成らの連合軍を関ヶ原で破り、1603年には征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開きました。
以後260年余りにおよぶ幕藩体制社会の基礎作りを進めました。
二年後、将軍職を秀忠にゆずり、駿府城に引退した形をとりましたが大御所として政権をとりしきりました。
当時、まだ大阪に残されていた豊臣氏に対しては1614〜15年の大阪の役でこれを攻め滅ぼしました。
この結果、徳川氏に反抗する大名はまったくなくなりました。
翌年家康は、その重くて遠い75歳の生涯を閉じました。」

小牧・長久手の戦い

「天正12年(1584)、家康は織田信長の次男信雄(のぶかつ)と連合し、小牧・長久手で豊臣秀吉と戦いました。
この戦いは、主力同士の激突がないまま、秀吉と信雄が講和しておわりました。
この戦いでは徳川四天王のひとりで豪勇な榊原康政が、味方を励ますために秀吉をはげしくののしる檄文を飛ばしたことがよく知られています。」



▲榊原康政
 「榊原康政は天文17年(1548)碧海郡上野に生まれました。
 幼名小太郎、永禄6年(1563)三河一向一揆の時、上野の戦いで初陣し、のち家康の側近として活躍し、家康関東入国と共に上野館林10万石を与えられました。
 武功派の武将として知られますが、関ヶ原合戦後は本多正信らの吏僚派と対立し、失意のうちに慶長11年(1606)没しました。」

秀吉との和睦

「小牧・長久手の戦いのあと、秀吉はたびたび家康に上洛するよう催促するが、家康は拒否していました。
そこで、秀吉は異父妹の旭姫を家康の正室とし、さらに母の大政所を人質として家康のもとに送り込みました。
いつまでも秀吉に反対する不利を考えた家康は、上洛して秀吉を対面し、秀吉の死までよき協力者として活動しました。」

関東入国

「天正18年(1590)秀吉から関東に転封を命じられた家康は、家臣団を従えて江戸城に入り、新領土である関東6ヶ国の経営を始めました。
家臣団の知行制では、江戸の家康を中心に徳川一門・譜代を配置しました。
それら上級家臣団の大半は三河出身者によってしめられています。」



▲家臣団の配置

名古屋城築城

慶長14年(1609)、家康は諸大名に分担をわりあて、名古屋城の築城を開始しました。
初代の名古屋城主は九男で御三家筆頭尾張徳川家の始祖義直(よしなお)です。



▲名古屋城丁場割図

大阪冬の陣



▲大阪城包囲網
 「慶長19年(1614)方広寺鐘銘事件をきっかけに、家康は大阪城に篭城した豊臣秀頼を圧迫し、20万の大軍で大阪城を包囲しました。  12月に外堀を埋めるなどの条件で講和が成立し、家康はいったん軍勢をひきあげました。」

大阪夏の陣



▲合戦図
 「元和元年(1615)4月、家康はふたたび大阪城を包囲しました。真田勢などの奮戦もむなしく、難攻不落とうたわれた大阪城も5月8日に落城し、秀頼、と淀殿は自害して、ここに豊臣氏は滅亡しました。
家康の孫で、秀頼の正室となっていた千姫は、落城寸前に救出され、のちに本多忠勝の孫忠刻(ただとき)に再縁しました。」

二元政治と本多正信

慶長10年(1605)家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に引退した形をとりましたが、大御所として外交、寺社、朝廷関係の政務をとりしきりました。
このため江戸の将軍秀忠と駿府の家康による二元政治が行われました。
本多正信は両方につかえ、駿府の家康の指令を江戸の幕閣に実行させる役割をはたしました。

その他

家康の夫人たち

家康の夫人は正室、側室合わせて18人もいます。

正室
●築山御前
(西来院、清池院、西光院) 生年不詳。関口氏の娘。家康より年上であったといわれます。
長男信康、長女亀姫を産む。
天正7年(1579)没
●旭姫
(南明院)豊臣秀吉の異父妹。小牧・長久手合戦後家康の正室となりました。
家康より1歳年下。天正18年(1590)没。49歳

側室
●西郡殿
(蓮葉院)三河西部(蒲郡)城主鵜殿氏の娘。次女督姫を産む。
●小督局
(長勝院)築山殿の侍女で於万と称しました。
次男秀康を生む。家康より6歳年下。元和5年(1619)没。72歳。
●西郷局
(宝台院)実名は昌子。於愛と称しました。
三男秀忠、四男忠吉を生みます。天正17年(1589)28歳といわれます。
●下山殿
(良雲院)於竹と称しました。甲斐武田氏の家臣市川氏の娘。三女振姫を産みました。
五男信吉を生む。天正19年(1591)没
●油河局
(妙真院)於都摩と称しました。甲斐武田氏の家臣秋山氏の娘。
五男信吉を産む。天正19年(1591)没
●金山殿
(朝覚院)於茶阿と称しました。遠江金屋の河村某の娘と言われます。
六男忠輝、七男松千代を産みます。
元和7年(1621)没
●不詳
北条氏の家臣間宮氏の娘と言われます。四女松姫を産みます。
●於亀
(相応院)京都石清水八幡の神官志水氏の娘。八男仙千代。九男義直を産みます。
寛永19年(1642)没。
●蔭山殿
(養珠院)於万と称しました。十男頼宣、十一男頼房を産みます。承応2年(1653)没。
●於梶
(英勝院)於勝ともいう。武蔵稲村城主太田氏の娘。五女市姫を産みます。
寛永19年(1642)没。65歳
●阿茶局
(雲光院)甲斐武田氏の家臣飯田氏の娘。寛永14年(1637)没
●於牟須
(正栄院)甲斐武田氏の家臣三井氏の娘。文禄元年(1592)没
●於仙
(泰栄院)信濃国駒馬住宮崎氏の娘。元和5年(1619)没
●於梅
(蓮華院)江州浪人青木一矩の娘。正保4年(1647)没。62歳
●於六
(養儀院)北条氏の家臣黒田氏の娘。家康が死んだ時、まだ20歳であった。寛永2年(1625)没。29歳。
●於奈津
(清雲院)伊勢北畠しの家臣長谷川氏の娘。家康が死んだとき、35歳。側室の中で最後まで残り、万治3年(1660)没。 80歳

家康の子供たち

子供は16人。家康が62歳の時の子供までいます。

●信康(竹千代、次郎三郎、岡崎三郎)
永禄2年(1559)生。家康の嫡男。将来を期待されていましたが、織田信長から武田氏と内通したとの嫌疑を受け、天正7年(1579)遠州二俣城で自刃。21歳。
●女子(亀姫、加納殿)
永禄3年年(1560)生。17歳で奥平信昌と結婚。寛永2年(1625)66歳で没した。
●女子(督姫)永禄8年(1565) 岡崎城で生まれました。19歳で北条氏直と結婚。氏直の死後、秀吉の媒酌で池田輝政と再婚しました。元和元年年(1615)51歳で没しました。
●秀康(於義丸、結城殿)
天正2年年(1574)生。小牧・長久手の戦いの後、秀吉の養子となりました。さらに下総の名族結城氏に請われて養子となり、結城姓を称しました。慶長12年(1607)没。34歳。
●秀忠(長松)
天正7年(1579)生。家康のあとをうけ二代将軍となります。寛永9年(1632)没。54歳。
●忠吉(福松丸)
天正8年(1580)生。秀忠の同母弟。尾張清洲52万石を領有したが、慶長12年(1607)28歳の若さで没しました。
●女子(振姫)
天正8年(1580)生。秀吉の命で蒲生秀行とと結婚。秀行の死後は浅野長○と再婚しました。
元和3年(1617)38歳で没。
●信吉(福松丸)
天正11年(1583)生。常陸水戸15万石を領有しましたが、生来病気がちであり、慶長8年(1603)21歳で没しました。
●忠輝(辰姫)
文禄元年(1592)生。伊達政宗の長女を妻に迎えました。越後高田60万石を領したが、大阪夏の陣不参加により改易、追放されました。元和3年(1683)92歳で没しました。
●松千代(松君)
文禄3年(1594)生。慶長4年(1599)6歳で没しました。
●仙千代(仙君)
文禄4年(1595)生。実施を持たない平岩親吉の養子となったが、慶長5年(1600)没。6歳
●女子(松姫)
文禄4年(1595)生。慶長3年(1598)没。4歳。
●義直(五郎丸)
慶長5年(1600)生。尾張名古屋60万石を領有。御三家筆頭尾張徳川家の始祖となりました。慶安3年(1650)51歳で没。
●頼宣(長福丸)
慶長7年(1602)生。紀伊55万石を領有し、紀伊徳川家の始祖となりました。寛文11年(1671)70歳で没しました。
●頼房(鶴千代)
慶長8年(1603)生。家康62歳の時の子。水戸徳川家の始祖となりました。寛文元年(1661)59歳で没しました。
●女子(市姫)
慶長12年(1607)生。伊達政宗の子忠宗と婚約したが、慶長15年(1610)4歳で死去しました。

家康の死

死期の近いことを知った家康は
・遺体を駿河久能山に納める事
・葬式を江戸増上寺で行う事
・位牌を三河大樹寺に置く事
・一周忌がすんだら下野日光山に小さな堂を建てて勧進する事
を命じ、元和元年(1616)4月17日、重くて遠い75歳の生涯を閉じました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの前夜、戦況を再現した模型とビデオ演出があります。
たいへんわかりやすい解説です。これを見てから、関ヶ原を訪れるとリアリティーが更に高まります。

参考資料
http://www.sun-inet.or.jp/~massa/tourist/taki.htm
http://bunkaken.net/index.files/raisan/shizuoka2.html
http://www1.odn.ne.jp/~cag38460/public_html/80matudaira.html
http://www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka1030/ka361.htm
http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/db/kkp/H12-09-15/ky00401.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~htobe/tenmokuzan.html

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