| 運営母体 | 大口町 |
| 住 所 | 大口町伝右1-35 健康文化センター(ほほえみプラザ)3階 |
| 電話番号 | 0587−94−0055 |
| 休館日 | 月・火 |
| 開館時間 | 9:00-17:00 |
| 入館料 | 無料 |
| 備 考 | |
| アクセス | 国道41号線下小口五交差点を西へ1km 名鉄柏森駅から南へ3km(徒歩40分) |
| HP | 公式HPは特にないようです こちら の同興紡績株式会社HPに詳しいようです。 |
| 概 略 |
旧石器や鏡等の出土品や五条川の橋(裁断橋)、復元農家、水運・曳船を展示。 農家の実物一部、土器発掘品、弥生時代の家の模型、小口城の過去の姿と現在の地形との対比。 焼物の窯道具など |
| 愛知県では ここでしか 見られない 展示 | 裁断橋の展示(日本女性三名文と言われる戦場に息子を送り、失った母親の文章)が詳しいがここは母と息子の出身地。橋は熱田神宮近くにあり、名古屋の博物館にも展示がある。 木津(こっつ)の曳き船の実物展示。愛知県の川がかつて輸送に使われていたこと、その雰囲気がよくわかる。 醤(ひしお)という調味料 大豆と塩の汁 展示だけでなく味わってみたい! 鋳造の仏様 千仏 |
| ひとこと | 焦点を絞り、ビジュアルで美しい展示。好印象。 その反面、全く未消化の解説文章。このギャップがちょっと不思議な博物館です。 |
| 備 考 |
健康文化センター(ほほえみプラザ)の新しい建物の3階
地図は同興紡績HPより
▲非常に上品にデザインされた理想的な展示
この博物館は「縄文時代の石器」から始まりません。
かなりのスペースを使って「地元の特徴」をまず表現しています。
たったそれだけですが、学芸員が何を伝えたいかということが明確になっています。
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▲櫓時計。日本の技術の集積としてシンボル的に展示されています。
二挺天符式なので、江戸末期以降 物としては比較的新しいもののようです。
■五条川
「五条川は、犬山市の入鹿池の上流にある黒平山に源を発し、大口町、江南市を南西に下り、岩倉市、小牧市、師勝町、西春町、一宮市、稲沢市の境界に沿って流れ、青木川と合流後、春日町、清洲町を南下し新川に流入します。
流域面積は114.8キロ平方メートル、新川流域では最大の流域を占める一級河川です。
五条川の名の由来はいくつか説があり、清洲城下にかかる「御城橋」の御城から転化したとうい説、あるいは5河川(幼川、矢戸川、境川、巾下川、青木川)を集めて流れるため、五条という名称をつけたという説、更には古代土地制度の条理五条をとったとの説があります。
また、現在では上流まで五条川と呼んでいますが、かつて五条川と呼ぶ地域は、現在の一宮市五日市場の青木川合流点までで、そこから岩倉市大山寺までを生田川、本町を含む上流域は幼川(おさながわ)(雅川、瀬川)と呼んでいました。」
▲水車の軸受け石
「天保年間(1830〜1843)頃から五条川川筋の水力を利用した水車業が始まり、精米・精麦・製麺などを請け負っていました。
一般に水車を営む家は「車屋」と呼ばれ、朝早くから水車のまわる音が聞こえていましたが、時代の移り変わりとともに姿を消していきました。
水車の大きさは直径7mから大きいもので10mのものがありました。
農家の副業的なものが多く、近隣の家から持ち込まれた米や麦を明治末期の値段で一俵20銭ぐらいで搗いていました。
当時、米一俵が5円50銭前後、大工賃が1日80銭であり、1日平均一石(2俵半)くらいの依頼があったので、かなりの収入にったと思われます。」
▲農家の一部を室内に再現し、当時の生活の雰囲気を表現しています。
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▲この地域の農家の特色は
南側の「ダイドコロ」に囲炉裏が切ってある。(通常は北側)
養蚕にも利用されたのだそうです。
再現してある農家はおそらく大正か昭和の時代でしょう。鳥居建てではありませんでした。
間取りは、8畳2間、6畳2間(八六の田の字)の場合と8畳間が4つ(八八の田の字)の場合がありました。
▲はなれとなっている「コウエ」は主に養蚕用として使用し、物置ともなり、一間を寝室として使用するよう間取りした家も多くあった。
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▲ちょっとドキッとするおじいさん。でも屋内での作業にゴザはかぶっていたのでしょうか?
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農家の間取りには意外と地域性があるのものです。
農家の間取りにに興味を持たれた方はこちらをごらんください。
■馬とのかかわり
「古代より馬は貴人の乗用に使われ、また神の乗り物としても考えられてきた。
そのため神聖な生物として神社や生馬や木馬を奉納したり、祭りに馬を曳いて奉仕するといった風習がよく見られました。
馬を競争させて吉凶を占う競馬(くらべうま)は、馬の行動を神意のあらわれとする神事であり、全国各地に見られる。 東北地方では、出産時に山の神を迎えて安産を祈る風習があり、出産が近づくと馬を山に連れて行き、途中で馬が立ち止まったり、身震いすると山の神が乗ったとして家に帰った。
また藁やマコモ、チガヤなどで作られた馬形も、神を迎えて送る乗り物として年中行事の中に欠かすことができない存在であった。
このようなことから各地に、飾り馬、首馬、馬乗り武者、春駒など馬に関する郷土玩具が数多く伝わっています。 大口でも昭和30年代までは農耕に馬が使われることは珍しくなく、祭りにおいても飾りをたてた馬を「オマント」と呼び、神社に奉納をしていました。
農業の機械化により農耕馬は次第にいなくなり、祭りもすたれました。」
■オマント
▲馬の飾り。ちょっとシンプル。
▲豊田八劒社(はっけんしゃ)のお祭り
「豊田では、始まりは定かではないが、裸馬を走らせ、それを捕まえる神事が八劒社によって奉納されていました。
伊勢湾台風(昭和34年)を契機に馬を使った神事は行われなくなりましたが、かつては、春はお蚕祭り(現・金助祭り)、秋は豊年祭として年2回行われていました。
馬は東奈良子(ならし)、西奈良子、東御供所(ごこしょ)、西御供所で各組で一頭、計4頭、それぞれの組で手配し、祭りの当日、江南、一宮、小牧、岩倉などから馬方が馬宿へつれてきました。
馬宿とは、連れてこられた馬を一時的に預かる家のことです。
馬宿はくじびきで決められ、馬宿になった家は玄関に「宿」と書かれた提灯を下げ、酒や押ずしを用意して客人にふるまい、馬を洗い浄めました。
昼過ぎ、青年会で決められた口もちが、赤の長襦袢に白足袋のまつり装束をまとい、飾り立てた馬を曳いて八劒社へ赴く。
馬の背には1mあまりの竹ひごに、紙製の桜の花をかたどった「オマント花」を付け、それを何十本と束ねて飾りつけられていました。
この飾りは、祭りが終わると各戸に一本ずつ配布されました。
馬宿から出発した4頭の馬は、お披露目をかねて地区を歩きます。
八劒社にてご祈祷が終わると、馬から飾りが外され、口もちが4頭の馬を曳いてコースを一周し、スタート地点まで連れてゆきます。
コースの一部、南から北への直線を1頭ずつ走らせること3回。4頭×3回で12回の激走が見られました。
馬はコース横で見ている子供たちが土を投げつけるのでますます興奮し、またスタート直後にコースを外れてそのまま自分の馬屋まで一直線に逃亡することがありました。
このようなことが田畑の荒廃を招き、馬を走らせなくなった一因でもありました。
ゴール地点では青年会の若者が待機しており、走ってくる馬を素手でつかまえました。
全て上手くつかまえられるわけではなく、時にそのまま逃走する馬もいました。
そのため付近の民家では門を固く閉ざし、馬の侵入を防いで見物していました。」
尾張、西三河の代表的な祭り「オマント」に興味を持たれた方はこちらをごらんください。
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▲上りは舟を綱で曳いて行きました
「木津用水では、明治から昭和の初め頃まで、荷物を積んだ舟が盛んに往来していました。 上りの時は、何曹も舟を連ね、それを縄で連結し数人で曳いて上っていったので、木津(こっつ)の曳舟と呼ばれ親しまれていました。
下りは丸石を運び、のぼりは生活用品を積んで犬山まで帰りました。
戦前までは石を運ぶ舟をよく見ることができましたが、戦後は交通の発達により徐々に見られなくなりました。
展示してあるこの舟も初めは石を運んでいましたが、その後、魚を捕るようになったためにいけすをつけ、また、人力から船外機に変わり往来をしたようです。
石を運ぶ舟は、漁の舟よりも長く、また舟の横の板も1枚多く漁の舟を2枚腹と呼ぶのに対し、石を運ぶ舟は3枚腹と呼ばれていました。」
▲石器
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▲壷形土器
「弥生時代は前期・中期・後期に分けられ、弥生土器はそれぞれの時代や地方によって、文様や形態に変化が見られる。
この壷形土器は、胴径に比べて口径が小さく、最大胴径が下胴部にある形態をしています。
器面の文様も略され、わずかに細い刷毛目の調整痕が見られるにすぎない。
底部とそのまわりに黒班が認められます。
町内で出土した数少ない完形品です。
弥生時代後期から古墳時代への以降段階に見られる土器で、土師器敵な要素が強い。」
「弥生時代から古墳時代前半期に営まれた、周りに溝をめぐらし方形の平面を持つ低墳丘墓をよびます。
弥生時代前期に近畿地方に出現し、中期以降、九州から東北地方にわたる各地に広がりました。
ただ九州に出現するのは弥生時代後期以降であり、東北地方に及ぶのは古墳時代です。
古墳時代前期まで各地に盛んに営まれたが、中期以降急速に衰退しました。
方形周溝墓の多くはすでに墳丘や埋葬施設を失い、周溝のみしか遺存しない例が多いが大阪平野の沖積低地では、弥生時代中期の方形周溝墓がほぼ原型に近いかたちでいくつか検出されています。
中でも大阪府東大阪市瓜生堂2号墳では南北15m、東西10m、高さ1.2mの墳丘からは木棺墓6基、土こう墓6基、土器棺墓6基が確認されています。
木棺墓からは男女の成人3組、土こう墓からは乳歯の検出があって、土器棺墓に治めることができない程度に成長した子供の墓、土器棺墓は生まれてすぐ、あるいは幼くして逝った子供たちが葬られたと考えられました。
このことから男女の成人3組は3世代の夫婦で家族墓敵な性格を持った墓と推測されています。
東日本でも、弥生時代後期の山梨県東八代郡中道町上の平一号墓のように南北30m、東西20mという大型のものが知られています。しかし一般には一辺10m前後ないしそれ未満のものが多い。
方形周溝墓が方形方形の低墳丘墓という点では方形台状墓と同じで、周溝を持つ方形台状墓との区別は明確ではない。
強いて言えば台状墓は瀬戸内地方の山上部を中心に分布し、尾根上にあって周囲を削ることによって成形されています。
一方、方形周溝墓は広い地域にあって分布し、平地で周りに溝をめぐらし、その土量によって墳丘を形成するのを特徴とします。なお方形周溝墓には、周溝の一部を共有して互いに連接して営まれたものが少なくありません。」
▲仁所第2号方形周溝墓
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▲白山神社古墳群
大口町下小口に鎮座する白山神社の境内には、弥生時代末から古墳時代にかけての方形周溝墓や方形合状墓・古墳などが分布しています。
仁所野遺跡
「仁所野遺跡は、白山神社(大字小口)の境内地であり、境内には7基の古墳があって白山古墳群と称されていました。 昭和57年に調査された結果、弥生台の墓である方形周溝墓が発見され、弥生時代から古墳時代がかけての複合遺跡であることが確認されました。
7基のうち 1・5・6・7号墳は未調査であるが1号墳は全長50mの前方後方墳と見られます。
第5号墳は墳頂に金毘羅権現社がある円墳でよく残っています。
第6号墳は竹藪の中・第7号墳はその北にありましたが、いずれも現在はその位置を推定できる程度です。
残り第2・3・4号墳は発掘調査がなされ、山神の祠がある第2号墳は弥生から古墳時代への過渡期にあたる方形台状墓、第3・4号墳は弥生時代の方形周溝墓、ほか土墳3基が検出されました。
遺跡の東側一帯は現在、住宅地となっているため不明確であるが、遺物の断片的出土状況により、第1号墳から第6号墳までの間の東側一帯が居住地と考えられ、集落と水田が墓域をはさんだ立地環境になります。
しかし、西側もまた、帯状に延びた水稲農耕に最適な低湿地であるため、生計基盤と居住地が大きく隔たっているとは考えにくい。
つまり居住地が西側であれば、広大な面積を持つ余野の遺跡群の南東部にあたり、清水、日高、神明下、権現、若ヶ橋一帯が大規模で母村的集落となり、居住地が東側の場合であれば、小規模な分村的集落となる。
このようなことからも方形周溝墓に埋葬された人々がどのような地位を持ち、どのような性格をもっていたかが問題となるが、今後の調査研究によって推考したい。」
■竪穴式住居
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▲弥生時代後期の住居
この家は余野区区画整理に伴う事前の発掘調査で検出された弥生時代後期の住居です。
場所は余野浅井権現浦の広い道路になっているところです。
■十字内行花文鏡
▲「この銅鏡は、弥生時代の終わり頃、祭祀を司った巫女という字の書体の一つで「+」を表した文様があることから、祭祀用具の鏡と見られる。
この種の鏡は近畿地方を中心に、全国で6例が出土しており、類例の少ないものです。
「+」の字は、古代中国の甲骨文や青銅器に見られます。」
▲小銅鐸
「銅鐸は弥生文化のうち日本特有の銅器で、農耕祭祀に用いられた祭器をいいます。
大きさは数cmから130cmをこす大型品まであり、全国で500個が知られています。余野銅鐸は、最小の部類に入ります。
これらは集落や集落から離れた山の中腹、あるいは谷間の傾斜地などから発見されることが多い。」
▲乳文鏡
「小型のぼう製鏡で一部を欠失しています。
背文は円座の紐を中心に9個の素乳を不規則な間隔に配しており、そのうち3個はやや小さい素乳です。
乳の位置は均等に配置されておらず不ぞろいです。
乳文帯に続いて、二区の櫛歯文帯が続くが、内側、外側とも同一の櫛歯文帯で中央を突線で二分しています。
櫛歯の間隔にも粗雑な面が見られます。
これに続く複線波状文帯は一部を残して欠失しています。
鏡径6.8cm、縁厚3mm、面反り3mm、ちゅう径1.5cm、ちゅう高さ9mmを測り、背面は緑青に覆われていて、一部に朱が付着しています。
材質や鏡背文に上等さを欠くが、相当な力をもった被葬者の副葬品でしょう。」
解説で書いてあることが理解できないので、ちょっと勉強してみました。
ぼう製鏡とは:中国製の鏡をまねて国内で作られた鏡。つまり中国製製品の日本でのコピー商品ですね。
背文とは:鏡の裏の模様です。博物館ではほとんどの場合、裏側をこちらがわに見せているのですね。
乳とは:乳首のように見える突起ですね。梵鐘の突起もこのように言われます。
櫛歯文帯とは:鏡は同心円のいくつかの模様で構成されており、そのパターンで呼ばれます。
クシの歯のように見える模様のようです。
複線波状文帯とは:これも同様にパターンの名称でしょう。
一部に朱が付着しているとありますが、鏡は一般的に彩色されていたのでしょうか? 謎。
▲四神二獣鏡
明治の終わりごろ道路の新設工事によって石亀塚古墳の土が取られ、鏡、直刀、短甲、須恵器などが出土しましたが、現在に伝わるのはこれだけです。
日本で作られたぼう製鏡ですが、青塚古墳に近接する古墳から出土した意味は大きく、当地方の豪族の一人として、近隣の支配をしていた被葬者の一端がうかがえます。
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▲こちらの鏡は極めて新しいものでしょう。
■三角縁神獣鏡
東之宮古墳からも三角縁神獣鏡が出土しています。
「中国の三国時代(220〜265)で、倭の邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王から鏡百枚を贈られたということが、中国の史書「魏志倭人伝」に記されています。
この鏡は邪馬台国が九州にあったという説、畿内にあったという説の論争の的となっています。
また、この鏡が中国で作られたという魏鏡説と倭の国でつくられたという国産鏡説があり、決着が付いていません。
三角縁神獣鏡には龍や獅子、鳥などの霊獣が陽鋳されており、古代中国の神仙思想を表現しています。
鏡は古代の政権の権威を示すとか葬具の一種であるとか言われているなどの問題が多いものです。
東之宮古墳は犬山市成田山の裏にあたる白山平山の頂上に築かれた前方後円墳です。」
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▲貴族の食事と庶民の食事
貴族は一日に2回の食事
庶民は1汁3菜 一日2回の食事でした。
食材
●飯 水で炊いた姫飯(ひめいい:現在の飯に近い飯)
蒸した強飯(湯漬けか水かけ飯)
粥(薄粥、厚粥)
●香物 瓜、茄子、蕪などの漬物
●煮物 野菜類、、かも、きじ、山鳥、にわとり、いのしし、うさぎ、しかなどの干肉
(721年に仏教の教えで殺生が禁止されました)
●焼物 あわび、さざえ、いか、ひらめ、かつお、いわし、ふな、あゆ、貝などの乾物
●鱠(なます) なま魚や干物、大根、人参などを細く切って酢につけた物
●汁 野菜や海草
●果物
●唐菓子 米や麦の粉を固めて油で揚げたもの
●酒 清(すまし)、濁(にごり)、滓(かす)
●調味料 酢、塩、醤(ひしお:大豆に塩を加えて作った汁)
箸、匙、包丁(出された食物を切る)
■平安時代の窯
▲こしき
この穴の開いた陶器の板はスチームを通すためのものです。
昔の炊飯はこのような専用の釜を使って「蒸しました」。
こうすると火力の調整が不要なので安定して飯を炊くことができました。
この陶器の板は、この上に布を敷いて、米を乗せて、下に水を張り、沸騰させた湯から出た蒸気をあてます。
■窯道具
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▲ツク と トチ
陶器を焼くときの台をさせえる柱がツク、陶器の皿を重ねたときにくっつかないように間に置くスペーサーがトチです。
■奈良時代
▲布目瓦 どこかの寺院に納める瓦なのでしょう。
■鎌倉・室町時代
▲これは形から見るとすり鉢のような感じですね。
▲宗門御改帳
▲吉利支丹出候村之覚帳
「天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリスト教は、織田信長の奨励などによって短期間に広がりました。
信長は、西洋の文化に対して優れた感覚を持っており、鉄砲や西洋戦術をとりいれることによって全国制覇を成し遂げましたが、一向宗などの反抗に対しても西洋渡来のキリスト教を広めることによって寺社勢力を抑えようとしました。
このため、、キリスト教宣教師の渡来を許して、その不況を保護しました。
信長の信を受けて、大名の中にも細川、明智、大友氏のようにキリスト教を信仰するものも現れ、宣教師たちの熱意とあいまって、激しい勢いで拡大していきました。
信長の死後、秀吉は貿易の利を狙ってキリスト教に対し信長同様寛大でしたが、やがてキリスト教禁止に踏みきり、家康もこれにならいました。
その後、3代将軍家光の時に島原の乱(明正14年:1637)が起こり、キリスト教による民衆蜂起を恐れた幕府は、徹底したキリスト教根絶の方針を立て、これを厳しく弾圧しました。
幕府や、尾張藩ではキリスト教を根絶するために
1.信徒に改宗を求め、これに従わないものは死刑にする
2.信徒の探索につとめ、信者を訴人したものに賞を与える
3.五人組をつくって隣近所の共同責任において、信者の帽子、探索、訴人につとめる。
4.他国よりの移住を禁じる
5.それぞれキリスト教に関係ない宗旨にはいらせ、旦那寺を決めて、その檀徒であることを強制する
6.宗門改め手形を作って、その身分を明らかにさせる
7.疑わしいものには厳重な取調べをする。
このような方法をもって根絶をはかったので、キリスト教信者も、寛文8年から同10年(1668-1670)にいたるころには、ほとんどその影をひそめるようになりました。
信長の直轄地であった美濃・尾張では、キリスト教の宣教が盛んにおこなわれ、民衆の中に浸透していきました。
その中心が岐阜であり、一宮であったようです。
大口にもその信者があったことが、当時の文書に残っており、また、近隣の扶桑町地内には何百人という信者があったと記録されています。
このため、この地方においても次々と宗徒の検挙がおこなわれましたが、当時の尾張藩においては必ずしも決定的な掃討手段ををりませんでした。こらは一説に犬山城主であり尾張藩付家老であった成瀬正虎がキリスト教信者であったため、それへの配慮があったのではないかといわれています。
万治2年(1659)成瀬正虎が没すると尾張藩は大弾圧に踏み切りました。
その2年後の寛文元年(1661)、江戸の旗本は林権左衛門が尾張藩へ使者を出して、自分の領地内である濃州の村の信徒の検挙を申し入れたことに始まり、これにより、尾北一帯におけるキリスト教徒の大検挙が行われました。
特に、犬山藩内においては五郎丸を中心として高木、下野村に信徒が多く、寛文元年3月以降20人、30人と捕らえられ、これらはほとんど名古屋へ送られたと記録されいます。
高木村では寛文5年(1665)までに82人が捕らえられ、ついで斉藤、柏森村そして小口村の信者がつぎつぎに捕らえられ、尾張藩では入牢者756人にのぼり、そのうち半数は死刑に処せられたようです。」
■擬宝珠(ぎぼし)の名文
裁断橋は名古屋市熱田区にかって精進川という川にかかっていました。
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▲これは複製で当時の青銅の実物は名古屋市博物館に市文化財として保存されているようです。
▲裁断橋
昭和元年、裁断橋はその橋が架かっていた精進川が埋め立てられ不用の物となり、欄干のみが残されました。
昭和28年、原型の三分の一に縮められ、現在の姥堂の境内に再現されました。その後、腐食のため、
昭和44年に架け替え工事が行われ、現在の橋が復元されました。
天正18年2月18日に
小田原への御陣
堀尾金助と申す
十八になりたる子をたたせてよ
又二目とも見ざる
悲しみのあまりに
いまこの橋を架けるなり
母の身には落涙ともなり
即身成仏し給え
逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで
この書き付けを見る人は
念仏申し給えや
三十三年の供養なり
天正18年(1590)2月18日に、小田原への御陣に堀尾金助という18歳になった子を出発させてから
もうこの世では2度と会えなくなりました。
悲しさのあまりに、今、この橋を掛けるのです。
母の身には涙の種とのなりますが、安らかに眠ってください。
逸岩世俊(堀尾金助の戒名)とこの世のまた後まで、この書き付けを見る人は仏様にお祈りしてください。
わが子の33年の供養です。
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▲裁断橋はかつてこのような姿だったとのこと。近くの公園に復元されており、現在は五条川にかかっています。
一方名古屋熱田区の裁断橋のあった場所はこのようになっています。
■堀尾氏
裁断橋で見送った息子が死に悲しみにくれる母という構図は 第二次大戦の兵士と母のイメージと重なり、
貧しい家の母親が突然やってきた戦で息子を取られ、帰ってきたのは戦死の連絡のみ。ということを勝手に連想させます。
ところが、堀尾氏はこの地の有力な戦国武将。
むしろ住民を戦に巻き込んだ支配者層だったのです。
堀尾氏は室町時代の初期に当地に移住してきました。
戦国時代に浅井氏攻め、長篠の合戦、毛利攻め、北庄攻めと秀吉の家臣として戦勲を上げ、出世し、天正18年に秀吉が北条氏を攻めた時のてがらで、堀尾吉晴は浜松12万石の大名となりました。
このときの小田原城攻めの際に一族の堀尾金助が18歳で参加し病死しました。
金助の父と当主の吉晴の父は兄弟で、つまりいとこどうしとなります。
秀吉の死後、石田三成と不仲だったので次第に徳川家康側となり、関が原合戦後、出雲国24万石の領主として徳川に仕えました。
しかし三代目忠晴となって跡継ぎがなく断絶しました。
■製鉄炉
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▲小口城内で製鉄が行われたようで炉の跡、鉄さいが発掘されています。
小口城に関してはこちらをごらんください。
▲銅造千体地蔵