有楽苑 うらくえん (国宝茶室如庵)

運営母体 名鉄
住 所 愛知県犬山市御門先1
電話番号TEL0568-61-4608
休館日年中無休
開館時間9:00〜17:00(3/1〜7/14 ・ 9/1〜11/30)
9:00〜18:00(7/15〜8/31)
9:00〜16:00(12/1〜2/末日)
入館料入苑料:1,000円/呈茶料(一服):500円
国宝二つ巡りチケット(犬山城と有楽苑)/1200円
備 考国宝内部公開:毎年11月頃(3〜5日間)
アクセス名鉄犬山線犬山遊園下車徒歩7分
HP http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/index.html

展示の内容

概 略 織田有楽斎が建てた茶室国宝茶室如庵、重要文化財旧正伝院書院、古図により復元された元庵、新しく建てられた弘庵などがありますが、庭園も含めた茶の環境全体が見事です。
ただし、茶室や茶道の解説はほとんどありません。
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
本格的な茶室を見ることができるのはここだけです。
ひとこと国宝の茶室がかすんでしまうほど手入れがゆきとどいた庭園と雰囲気。
茶の湯というのは、日常と異なる場を演出する時間と空間のデザインであることが理解できました。
備 考如庵は国宝です。
国宝の茶室は如庵(織田有楽斎好み)と、京都府大山崎の妙喜庵待庵(千利休好み)、京都市の龍光院密庵席(小堀遠州好み)の3つだけです。


地 図

 地図は公式HPより

犬山市街地、犬山城のすぐちかく名鉄犬山ホテルの向かい側です

苑 内

 地図は公式HPより

広大なスペースに完璧にメンテナンスされた庭園。
博物館というよりも「茶」の贅沢な舞台です

如 庵

如庵は織田有楽斎のプロデュースにより1618年(元和4)頃につくられました。
柿葺き片入母屋造り、二畳半台目向切りの茶室です。

次のように各所に有楽好みの独創的なデザインがなされています。

床脇に三角の地板(鱗板)。壁面は斜行させた「筋違いの囲い」
 床の間の横の壁は斜めになっています。狭い空間を広く見せるための工夫なのかもしれません。
 この壁面はにじり口から入った瞬間はわからない角度になっており、座に付いた瞬間にあっと思わせる演出だったのでしょう。

壁面の腰張に古歴を使った「暦張り」(暦張りの席)
 茶道口と三角の地板の部分にある壁の下部には古い暦を壁に貼ってデザインとしています。
 「時」すらコントロールしているぞ!という宣言だったのかもしれません。
 ただし、貼られている最古の暦は寛永年間のもの。有楽存命中の暦が含まれていません。
 暦の腰貼りは後人の作意であるという説もあるそうです。

向切の風呂先に中柱を立て壁面に花頭形にくりぬいた板(有楽囲)
 中柱によりつくられた半畳の空間は使われることはありません。花頭窓も装飾です。
 狭い空間を更に区切って部屋を小さくしています。
 広く見せようとしても限りがある空間を一旦、小さく見せて、花頭窓を切って息苦しさをなくす。
 無駄な空間を意識させることで広く見せるという高度なデザイン手法なのでしょう。

竹の詰打(有楽窓)
 窓は竹を隙間なく並べた盲連子です。
 本来 太陽光や風を入れるための窓に あえて面積の大部分を竹で塞いで、機能をつぶしてしまう。
 その代償として狙ったものは光の演出か

にじり口が円窓を開けた袖壁を付す土間庇の中にある
 にじり口は普通庭に直接面しています。
 如庵のにじり口は土間や通常の上がり口が近くにあることで、にじり口の意味を意識させるのでしょうか。



▲如庵の間取り
飛び石の先は入り口のような深い土間庇とその先の腰付の二枚障子。
障子は建造当時はなかったものと思われます。
入り口のような障子の先は「鞘の間(さやのま)」、かつては「扈従(こしょう)の間」と呼ばれました。板床が脇についた小部屋になっています。
置刀掛けが備えられた部屋であり、茶室へは直接通じる部屋ではありません。
武士といえども茶室に刀を持ち込むことはできませんでした。ここに刀を置いてから、にじり口から茶室に入りました。

土間の左側、にじり口の反対側は丸窓が配置されており、土間に独特の表情を与えています。
丸窓のある袖壁は袖壁は和釘が使われていることから、当初のものではと推測されています。

当初は東向きで現在は南向きになっています。

  

▲如庵の板額はもともとは如庵にあったものではなく、
 大阪天満屋敷にあった元庵(下記−かつては如庵と呼ばれた)に掛かっていたものです。

▲突き上げ窓はこの位置にあります。

▲丸窓のある袖壁により造られた空間はすでに茶室の内部のような空間を作り出しています。

  

▲炉の前かどに中柱を立てて、火灯(華頭)形をくり抜いた板をはめ込んで壁にしています。
 有楽窓はこの面に2つあります。
 左側の窓の下にあるふすまの奥は洞庫になっています。

▲この位置(にじり口)からは床脇の斜めの壁は見えません。  その先の腰紙に暦が貼られた「暦張り」があります。
 腰紙にに暦を貼ることは「茶湯秘抄」の「反古ハ利休の時ハ無之」によれば利休の時はなかったようですが、秀吉の大坂城山里の二畳の茶室には「カベ暦ハリ」の記述があり、すでに試みられていたようです。

  

▲天井は二分されていて、床前から点前座にかけて平天井、
 残りの躪口から風炉先にはめられた板より南側までの間中分は掛込天井となっています。
 平天井は「杉板色付、紫竹竿縁也」(貞要集)、
 化粧屋根裏となっている掛込天井は「かけ込垂木円竹、小舞すす竹二本ならびふじハがき上下一本ヅツ、かいするすす竹、野根巾らん張」(無題茶室図集)という記述があり、そのとおりになっているそうです。



▲連子窓は竹を隙間なく並べた盲連子で<有楽窓>と呼ばれます。

如庵流転

・有楽の所有だった如庵は有楽没後、建仁寺正伝院に寄進されました、その状態が明治まで続きます。
・明治4年(1871年)社寺境内上地令で正伝院は永源寺と合併しました。
・明治6年(1873年)正伝院跡は祇園女紅場の宴席として有楽館となりました。
・明治41年(1908年)売却され建物も四散。如庵と書院、露地のしつらえは東京麻布今井町の三井家本邸へ移築。
・昭和13年(1918年)大磯の別邸城山荘に移築。
・昭和45年(1970年)、名古屋鉄道鰍フ所有となり、犬山城下御門先の有楽苑に移築されました。

三井家は代々茶の湯を行いました。如庵を買ったのは三井高保(たかやす)だと思いますが、金にものを言わせて、高価な美術品をそろえ、茶の湯を「金がかかる道楽」にしてしまい、そのまま現在に至っています。
千利休が普段使っているもの、質素なものに価値を見出した精神はすっかり変質してしたと見るのは私だけでしょうか。

旧正伝院書院

有楽斎が京都建仁寺の塔頭正伝院に移り住んだ隠居所です。
如庵と同時期に建てられ、如庵とともに移築されました。
現在は銅板葺きですが、古図によれば屋根は柿葺きであったと思われます。
内部は南側に二室、北側に三室と水屋、その先に鞘の間と土間があり如庵の一部となっています。
北側にある入口の軒は、かるく唐破風のように盛り上がり温和で上品なたたずまいを見せています。
客間、茶座敷として使われたようで、長谷川等伯、狩野山雪などの貴重な障壁画が残っています。

 

 

  

  

▲内も外も実に簡素であり、内部の床構えも茶室風のつくりを基本としています。

▲書院には長谷川等伯をはじめ狩野山雪、安信、常信、鶴沢、探山などの襖絵が残っています。

 建物は国指定重要文化財です。

元 庵

 

有楽斎が大阪天満に屋敷を構えていたころに建てられた茶室を古図に従って復元新築したものです。
この茶室もかつては如庵と呼ばれていたもので、元庵の名は新たに表千家13代家元即中斎宗匠によって命名されました。

ここは新しく作られたものなので資料的価値は少ないのですが、その周辺の雰囲気は如庵を上回るものがあります。
かつての茶の湯の精神、雰囲気がよくわかります。



▲待合 客は茶室の準備が整うまで、ここで待たされます。
 わざわざ自然の中で待たせる演出。今から始まる特別な「場」への心の準備。
 外観や雰囲気だけでなく、時間も重要な演出の手段。



▲ここから客は入ってはいけない という象徴的なバリアー
 石を置いていても物理的な効果は同じなのですが、そこに「紐で結わえる」という人為的な作業が加わることで、石に主人の意思を託すことができるのですね。



▲待合から見る元庵



▲目に入る全てのものが演出されている。
 花が一輪。はっとする美しさと緊張感があります。

 

 

 

   

 

▲そして最大の演出の道具が茶室。
 建築物としての機能に影響を与えない部分は徹底的に造形されている。
 縁側の板の間に竹を置く。たったこれだけのことなのに涙が出るほど美しさがあります。
 自然の素材だけを使ってこれだけすばらしいデザインができるとは・・・

織田有楽斎

天文16年(1547年) - 元和7年(1622年)
織田信秀の末子(11男)で織田信長の実弟となる。安土桃山時代から江戸時代初期の大名、茶人。
織田 長益(おだ ながます)、幼名は源五(あるいは源五郎)。有楽斎如庵(うらくさいじょあん)と号し、後世では織田有楽、織田有楽斎と呼ばれていました。
はじめ織田信長の長男信忠の旗下にあり、本能寺の変のときは京都にいたが逃れた。変後は織田信雄に仕えて尾張国知多郡を領すがのちに所領を捨てて剃髪、信長の家臣であった豊臣秀吉に出仕して摂津国味舌に2000石を領した。
関ヶ原の合戦では東軍に属して戦功を挙げ、大和国で3万石を与えられた。その後も大坂城に出仕して姪の淀殿を助け、大坂冬の陣の際にも大坂城にあったが、江戸幕府の間者であったともいい、内通を疑われて大坂夏の陣を前に城を離れ、京都二条に隠棲した。
千利休に茶を学び、利休七哲の一人にも数えられ、1617年京都建仁寺の正伝院を再興し、茶室如庵を建てた。
平穏な晩年の後1622年(元和7)正伝院内にて亡くなった。

東京都千代田区有楽町という町名は、有楽が同地に居住していたことに由来し、現在も屋敷跡が残る。

有楽の茶道観は「茶の湯は客をもてなす道理を本意とする」という明解なものであり、そのために「二畳半、一畳半などは客を苦しめるに似たり」として寛ぎのある茶室を求めた。

他の建物

岩栖門(いわすもん)



▲茶室への門となっている。この門をくぐると「別世界」という雰囲気作りに重要な役割です。

 文明年間に細川満元が京都新町頭に建立した武家屋敷岩栖院の唐門と伝えられます。
 京都の東山に移されたのち、慶長年間に戻され、如庵、旧正伝院書院と同じ道を歩む。
 数少ない武家屋敷の門のなかでも優れた意匠である。

弘庵

 

▲昭和61年に新たに作られた新しい茶室

含翠門



嘯月台(しょうげつだい)



▲ここから眺める月はちょっと違った月です。

萱門



▲旧正伝院書院の南正面にある萱葺き妻入りの門。棟の下に扉があり、軒は細い4本の柱で支えられています。

有楽好み井筒(佐女牛井)



▲井戸の形にもこだわったのでしょうね。

石の演出

  

▲石も演出道具の一つとして命が与えられています。

参考資料
http://homepage2.nifty.com/K-Ohno/a-map/Aichi/001-JA-Tyashitu/001-JA.htm
http://www.meitetsu.jp/news/210.html
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/jap/hstj/others/joan.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%9C%89%E6%A5%BD%E6%96%8E

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