青塚古墳史跡公園・ガイダンス施設

運営母体 犬山市
住 所 〒484-0945 犬山市字青塚22-3
電話番号Tel・Fax:0568-68-2272
休館日毎週月曜日、12月28日〜1月4日
開館時間午前9時〜午後5時
入館料無料
備 考全長123mの青塚古墳に隣接しています
アクセス名鉄小牧線楽田駅より徒歩約30分
HP http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/aotsuka.html (公式HP)

展示の内容

概 略 青塚古墳と古墳全般に関する展示
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
古墳の知識に関してはここが一番詳しいようです
ひとこと小さな展示館ですが、わかりやすくて好感
備 考


地 図

 地図は犬山市観光協会HPより

犬山市の中心から南方6キロあたりにあります。

外 観



展示館



屋外の青塚古墳実物

野外の青塚古墳

青塚古墳(4世紀中頃)
青塚古墳は愛知県で2番目に大きい規模を持つ前方後円墳です。
(ちなみに1番は 断夫山(だんぷさん)古墳(名古屋市熱田区)6世紀 全長151m 前方部幅112m 後円部径80m 高さ16m)
今から約1600年前に現在の尾張周辺を統括していた豪族のお墓と考えられています。
別名「大塚」「茶臼山」と呼ばれています。
この古墳は犬山市の中心から南方6キロ、標高31mの台地の端に築かれ、古墳の西側には木曽川によって形成された平野が広がります。
青塚古墳の形状は、前方部、後円部共に低い基壇の上に築かれており、前方部2段、後円部3段の築城です。また、各段のテラス(平坦部)には壷型埴輪が並べられています。前方部の墳頂には低い段があり、この壇を囲むように円筒埴輪・鰭付朝顔型埴輪などが並べられています。
青塚古墳の周りは、自然の地形を利用した空掘の周濠があり、この周濠からは古墳東側のくびれ部より外に向かって延びる陸橋があります。
古墳の築かれた時期は、出土した埴輪などから4世紀中頃の古墳時代前期に造られたものと思われます。



▲墳丘の段となるテラス部分は、平均1mの巾があり、すべてのテラスから壷型土器の破片などが発掘されています。
 特に基壇から1段目にかけてのテラスでは同じ壷型土器が1.8m間隔で置かれていました。

これから考えると 現在の姿は完全に当時の姿を復元していません。
下記のように発掘風景から見ると
・全面に葺き石が敷かれていた。
・埴輪は各段に置かれていた。
神戸の垂水区に当時の姿を復元した五色塚古墳というのがありますが、これは青塚古墳よりちょっと大きめの全長192mの古墳です。このような姿だったのでしょう。

 写真はhttp://www.geocities.co.jp/Berkeley/8776/gosiki.htmlより

▲神戸の五色塚古墳 造営当時の姿を復元しています。

葺き石

葺き石とは墳丘の区画をはっきりさせ、古墳が立派に見えるように古墳全体を覆った石のことをいいます。
青塚古墳では土を掘るときに出た小さな石の他、川原で拾い集められた石が使われました。
「葺く」というより「積む」というイメージが強く、人間の頭ぐらいの大きさの石を基石として、その上に基石よりも小さい石を積み上げています。
また、積み上げられた石と墳丘の盛土の間には小石が埋め込まれています。

青塚古墳

大きさ

 

▲青塚古墳の全長は123m。実物を見るとずいぶん大きな古墳に見えますが、日本一の仁徳稜古墳と比べるとずいぶん小さく見えます。



方形壇状遺構

 

▲前方部では、埋葬された大王を祭る儀式を行ったと思われる「方形壇状遺構」や、お祭りに使った矢じりが見つかっています。

埴 輪

埴輪には壷型埴輪と形象埴輪があります。
青塚古墳で発掘されたような円筒形の埴輪を円筒埴輪といい、古墳が築かれ始めた西暦300年ごろから存在しています。 一方、青塚古墳からは発掘されていませんが、人や馬を形にした埴輪を形象埴輪といい、古墳時代中〜後期にかけて比較的新しい時代に築かれた古墳に見られます。

  

▲円筒埴輪
 前方部の頂上に存在する方形壇状遺構の周囲には円筒埴輪が置かれています。
この円筒埴輪には鰭付朝顔形埴輪と円筒埴輪の2種類があります。
埴輪表面には赤色顔料(べんがら)が塗られています。

 樽型埴輪は古墳のくびれ部や後円部の頂上に置かれていたと考えられます。

 壷型埴輪には底に穴があけてあります。
  古墳の格段に約2m間隔で置かれています。  底に穴をあけることで生活の中では使えない、古墳のために特別につくられた壷ということを表現したといわれています。

  

▲穴を開ける方法は焼成前にへらでくりぬく方法と、焼成後に打ち欠く方法がありました。



▲内容



▲今でさえ、きれいになっていますが、ちょっと前までこのような状態でした。
 でも長い間よく保存されていました。威厳があったのでしょう。

小牧・長久手の戦い

秀吉が青塚古墳を砦とする。
天正12年(1584)3月7日、徳川家康は3000人の兵士をひきいて浜松城を出陣しました。
一方豊臣秀吉はた3月21日大軍をひきいて大阪城を出発し、29日楽田(がくでん)に本陣を置きました。
この戦で青塚古墳を砦として敵軍から身を守ったのは10万人もの兵をひきいた秀吉軍でした。
この頃、家康軍は小牧山に本陣を置いていました。
長い合戦の末、両軍は尾張長久手にて最終決戦を迎えます。
兵力では秀吉軍が圧倒的に多いのに対し、長く続いたこの合戦は、徳川家康軍の圧勝に終わりました。

発 掘

  

▲発掘風景

青塚古墳群



▲青塚古墳と、青塚古墳を中心に築かれたいくつかの古墳を合わせて「青塚古墳群」と呼びます。
現在ではそのほとんどが消滅してしまい、わずか数基の小円墳を残すのみとなってしまいました。
この小円墳は青塚古墳に埋葬された権力者よりも位の低いものが埋葬されたと考えられます。

古墳の知識

 

竪穴式石室と横穴式石室
竪穴式は前期・中期。 横穴式は後期です。
竪穴式は墳丘の中央にほった穴に木や石の棺を納めたあと、石を積んで四壁をつくり天井石をのせて粘土で覆い、土をかけて埋めたものです。
一方横穴古墳は玄室という石積みでできた石の棺をおさめる空間と、せん道という墳丘の外に通じる通路からできています。
横穴式古墳は後から別の人をいっしょに埋葬することも行われた。
青塚古墳では石室のある「主体部」の調査はまだ行われていません。



▲ご存知、古墳の種類



▲副葬品
 これは東之宮古墳からの出土品です。青塚古墳は未調査なのでわかりません。



▲古墳が築かれる様子
 古墳の周りには古墳をつくる人のムラが作られ、人々は衣料や食料を与えられて古墳づくりにはげみました。

古墳時代の前期〜中期にかけてつくられた古墳は大きくて、後期につくられた古墳は小さい。
後期になると、大様だけでなく、あまり身分の高くない人まで古墳をつくり始めたからです。

古墳時代の生活



▲囲いを持った家や、倉庫や庭を持った家もあります。

 

▲今から約2200年前の弥生時代、現在の大口町付近に小さな集落が点在したのではないかと言われています。
それはたくさんの遺跡が残されていることから推察されています。

やがてその集落は、ひとつの「クニ」になり、「クニ」を治める王がこの地にも誕生しました。
青塚古墳は、その当時有力な王が存在したことを物語っています。

こうして見ると、古墳が集落を見下ろせる台地の端に築かれていたことがよくわかります。
子孫の生活を見守ってもらうという宗教的な意味があったのでしょう。



古墳時代になると、大陸から新しい文化が伝わったことによって住まいも、食べ物も衣服も大きく変わり、人々の生活はゆたかになっていきます。
このころから人々はムラをつくり、集団で生活するようになります。

●大がめの須恵器を使って、水や酒をたくわえるようになりました。
●木製のくわやすきにU字型の鉄をはめ込んだ農具ができて、米作りが盛んになりました。
●家の中に「かまど」がつくられ、お米や雑穀類を蒸して食べるようになりました。
●このころ新しく作られたのは酪(らく:ヨーグルト)、蘇(そ:バター)、乾酪(かんらく:チーズ)などの乳製品
 まるで西洋の食事みたい
●男はそでのついた上着とズボンに、皮でできた靴を履きました。
 長髪をみずらに結い、冠や帽子のようなものをかぶっていました。
●女は巻きスカートに皮でできた靴。
 長い髪をまげに結ってかんざしをさした。



参考資料
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/8776/gosiki.html

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