犬山市文化史料館

運営母体 犬山市
住 所 犬山市北古券8
電話番号TEL:0568-62-4802 / FAX:0568-62-4802
休館日12月29日〜31日
開館時間9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料 一般100円、中学生以下無料、団体80円(30名以上)
・犬山城、からくり展示館、文化史料館、どんでん館の4施設がセットになった入場券(ワン丸手形 600円)もあります
備 考駐車場有・普通車70台(無料)
アクセス名鉄犬山線犬山駅から徒歩約15分。
HP 公式HP

展示の内容

概 略 吹抜けとなっているホールには、城下の町衆が維持してきた350年の歴史を持つ犬山祭の車山(愛知県指定有形民俗文化財)中から昼車山(ひるやま)1輌と365個の提灯をつけた夜車山(よやま)1輌を展示。展示室には犬山の歴史、文化、産業、観光に関するパネルや様々な犬山の文化遺産が展示されている。
からくり、祭りの道具、各町の山車の模型など
犬山祭に使われる車山(やま)、犬山鵜飼、考古資料、文化財等の展示。
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
山車の実物展示は愛知県でもいくつかあるが(知立、半田、田原、刈谷、有松)背が高く大型の犬山型と呼ばれる山車は当然ここだけ。やはりサイズ感は本の写真では得られない情報でしょう。
周辺地区の山車の分布など解説も詳しい。
祭りの歴史や山車を曳くときの様子を表現したビデオ。
ひとこと大きな車山を誇らしげに展示
備 考


地 図

 地図は パンフレット より

犬山城下の旧市街の中にあります。

外 観



犬山祭

針鋼神社の祭礼犬山祭は、1635年(寛永12年)大火の後の復興を祈念して下本町が馬の塔、魚屋町が茶摘みの練り物を出したのに始まると言われます。まもなく馬の塔を車山に代え人形からくりを奉納するようになりました。
成瀬正虎(犬山城主成瀬家二代)の祭礼奨励もあり町々が参加して規模が大きくなりました。
1700年代に現在の三層の車山の定型が整い以後、太平洋戦争中の1年を除いて現在まで途切れることなく引き継がれています。
祭礼は4月の第一土曜日、日曜日の両日にわたっておこなわれます。
試楽祭(土曜日)には午後1時から、日曜日の本楽祭には午前10時半から三層の車山13両が笛・太鼓に合わせてからくり人形を奉納します。
夜になれば各車山に約350個もの提灯がともされ、満開の桜並木の町通りをぬって練り歩くさまは、豪華絢爛、まるで錦絵をみるようです。
とのこと。

祭りの進行

宵祭り
前日 18:00〜21:00
   13町内にて飾り夜車山(よやま)

試楽祭(しがくさい)
   針綱神社前広場
   09:00〜10:40  13町内より車山が順次集結
   11:30〜13:00  15分毎にからくりを披露し、半数は犬山駅西口に移動
   13:15〜14:30  残りも順次からくりを披露し、広場にて飾り車山
   18:30〜     365個の提灯に点灯
   18:45〜21:45  城下を練り、各町内へ戻る

   犬山駅西口
   17:45〜     針綱神社前より順次集結
   18:45〜21:45  城下を練り、各町内へ戻る

本楽祭り
   針綱神社前広場
   08:50〜09:50  13町内より車山が順次集結
   10:00〜15:00  からくり奉納
        その後北組6輌は余坂町へ、南組は犬山口へ移動

   犬山駅西口
   17:20〜     針綱神社前広場より順次集結
   18:30〜     365個の提灯に点灯
   18:45〜21:45  城下を練り、各町内へ戻る

「針綱神社前の広場に試楽祭・本楽祭の車山ぞろえをするようになったのは1882年(明治15年)に針綱神社が名栗町から現在の城山に遷座されてからです。
試楽祭の車山ぞろえの順ははじめの頃は決まっておらず、広場への到着順でありましたが1950年から抽選で決められるようになり、1950年から抽選で決まられるようになり、1972年保存会が結成されるようになり、1972年保存会が結成されてから、この会議で巡行経路や所要時間を考慮して決められました。本楽祭の車山ぞろえは旧例の通り「本楽祭からくり順序」に従っている。」

 

車 山

曳山のことを地方によっては鉾、山車(だし)、屋台、車楽(だんじり)などと呼びますが、地元の呼び名は"やま"で、漢字も順序が逆の"車山"です。

  

 

夜山の車両は楽田、横町の車山
13両の山車が300余個の提灯の火柱を揺るがす夜山巡行は犬山祭りのクライマックスです。
楽田、横町の車山は明治10年(1877)にそれまで犬山、枝町の山車であったものを譲り受け、以後昭和33年まで横町組の氏神牛頭天王の祭礼日にカラクリを奉納していました。
しかし、その後は解体し、保存されていたままになっていましたが、平成元年に全面的な修復され陳列することになりました。
他の車山と比較して中山(二層)の高さが低く、二、三層の中心線が一層の中心線より後方にずれており、当時の踊山形式をとどめています。



▲犬山の車山は三層構造で背が高いのが特徴です。

からくり

からくりの歴史

  

▲犬山の車山にはからくり人形が備えられています。

日本のからくりの歴史は古く、800年をさかのぼるが、近世に南蛮渡来の「時計」が知られるようになった、和時計の技術が応用され、精巧な人形戯が工夫されるようになりました。
からくりは座敷芸や芝居としても人気を博したが、曳山の上での「奉納」のかたちで江戸期に各地で行われるようになりました。

祭礼に曳山の類を巡行するところは全国に数多く、「からくり」をともなうものは50地方、180基ほどを数えます。
そのうちの70%を超えるものが東海地方に集中して見られます。

中部地方の曳山の分布

ここに記されたものはほんの一部です。
山車とか神輿は現在のテンポにあっているのでしょうか、町おこしのシンボル的になってしまっているので、 新旧とりまぜ、非常に多くの市町村が山車を持っています。




常設展示



▲常設展示室 犬山の古代から現代に至るさまざまな文化遺産を展示しています。

鵜飼(うかい)

鵜飼は岐阜市の長良川が有名ですが、犬山にもあるようです。

「日本の鵜飼の歴史は非常に古く、大化年間(645〜649)より以前に天皇に献上する魚をとる鵜飼集団だありました。 703年頃には美濃国各務郡に「鵜飼部」という集団があり、この地方に早くからうかい漁法が行われていたことがわかります。
犬山で幕府の御料鵜飼が始められたのは3代城主成瀬正親の1660年頃と考えられます。
三河足助から3人の鵜匠が呼び寄せられたといわれています。」

鵜飼の復活
「城の西、木曽川畔に鵜飼町、鵜飼長屋の町名が今も残るあたりが犬山鵜飼の本拠です。
6代城主正典隠居の際、殺傷禁令によって鵜飼は中止、鵜匠たちは四散しました。
明治半ば、鵜飼鎌次郎は自らの姓でもある鵜飼の復興を強く願い、各方面に説いてまわりました。
明治32年、長良から鵜匠が相次いで来犬、再現されることになりました。
鎌次郎は明治43年遊船会社を設立、大正二年動力船による川下りを実現、犬山観光の道を開きました。」



犬山焼き

 

犬山焼きという焼き物があるようです。
元禄年間に今井で始まった
呉州赤絵、桜楓文などが特徴の幽趣豊な焼物。
江戸時代から明治にかけての1作品ですので比較的新しい窯のようです。



▲現在の犬山焼の窯元のひとつ尾関家
尾関家は江戸時代から犬山城の御用瓦師として城下で瓦を造り、天宝13年(1842)の大火の後、郊外の現在の場所に移りました。犬山焼を復興した窯元です。
主屋は保存民家としても有名で、登録有形文化財にもなっています。

犬山城



犬山城に関する記述は本家こちらにもあります。。

成瀬氏入部以前の犬山城
「犬山城は天文6年(1537)織田与次郎信康によって築城されて以来、軍事・経済・交通上の重要な拠点でした。 特に豊臣秀吉の時代には飛騨川・木曽川を下す材木や舟運等の拠点として重きをなし、秀吉は腹臣の石川備前守光吉を犬山城主にすえました。
関が原合戦の後は、尾張を与えられた徳川家康の4男松平忠吉が清洲城主となると、その重臣である小笠原和泉守吉次が犬山城主となり、また、慶長12年(1607)、忠吉が没すると、家康お9男徳川義直が尾張を襲封しました。
そして、幼少で在駿府中の義直に代わって、甲斐支配に当たっていた平岩主計親吉が9万3千石を領して犬山城を与えられ、親吉自身は清洲城において尾張藩の国政を執りました。」

犬山城と成瀬氏
「その後、元和3年(1617)に義直が駿府から尾張に入ると、すでに没した平岩氏に代わって義直の補佐役となった鳴瀬正成が、旧平岩氏付属の同心を家人とし、犬山城主となりました。
以後犬山城主を世襲するとともに尾張藩の筆頭家老を勤めました、なお近代以降も10代、11代、12代正俊と平成16年3月まで成瀬氏が犬山城を所有してきました。

小牧・長久手合戦と犬山城

「小牧・長久手合戦は、信長の孫の三法師(秀信)を押し立てる羽柴秀吉と徳川家康を後盾とする織田信雄(信長次男)との戦いで、天正12年(1584)におこりました。
この年の3月より11月という長きにわたる一進一退の膠着した戦線は、小牧・長久手だけでなく広範囲となって、犬山もこの戦いの戦場となりました。
3月13日、豊臣秀吉の家臣 池田恒興(大垣城主)は織田信雄の家臣中川定成の居城であり、以前は池田氏の居城でもあった犬山城を攻め、犬山城は落城しました。
一方、池田恒興の娘婿である森長可(美濃金山城主)も、清洲城をうかがい小牧山を押さえるのに適した要地である羽黒八幡林(現羽黒小学校付近)に陣を構えました。しかし、家康は酒井忠次・榊原康政らに命じて羽黒を奇襲させ(羽黒八幡林の戦い)、森長可は犬山に敗走しました。」



「この羽黒八幡林の敗戦を知った秀吉は3月21日に、3万人余りの大軍で大阪城へ入場し、清洲城から移った家康の本陣小牧山を包囲する地点に多くの砦を築かせました。
その後、戦線が膠着状態となると4月7日、秀吉は
、本陣を楽田へ移し小牧山を押さえて、その間に留守となった家康の本拠地三河を衝く作戦を取り、三好秀次、池田恒興・元助親子 森長可、長谷川秀一らの軍勢を向かわせました。
しかしこの情報は家康に察知されて、9日、秀吉軍は徳川軍に長久手で敗れました。

この長久手の戦いが、小牧・長久手合戦の最大の戦闘であり、秀吉方は池田恒興・元助親子 森長可らの有力武将を一度に戦死させる大敗を喫しました。
その後秀吉は楽田へ帰り、家康の本陣小牧山とにらみあいを続けますが、11月になると、秀吉と信雄との間で和議が成立。犬山城は信雄に変換されることになりました。

長久手合戦に関する記述は本家長久手町郷土資料室にもあります。

 



▲特別展示室 特定のテーマにそった展示を年に数回、特別展や企画展として開催しています。

 この博物館の企画展示は非常に力が入っていて常設展と同様 質が高い展示です。
参考資料
写真の一部はパンフレットから転載

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