鈴木正三記念館

運営母体 豊田市足助町?
住 所 豊田市足助町則定字寺田
電話番号足助資料館内 鈴木正三顕彰会 0565−62−0387
休館日月曜日
開館時間9:00〜17:00
入館料無料
備 考館は無人で自由に見る形式です
アクセス足助から153号線を南進。県道39号線に入り、更に343号線に入り、少し行ったところ。
HP 特にHPはないようです

展示の内容

概 略 地元出身の江戸時代の思想家 鈴木正三 に関する展示
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
鈴木正三に関する展示では当然ここが一番です。
ひとこと鈴木正三に関しては私も始めて知りました。あまり知られてはいないようですが、思想は現代にマッチしているようでけっこう人気があるようです。
備 考まだ、現在ではパネル展示が主体。


地 図



足助町市街より南西約5キロ。
地図は http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei107.htm より

外 観



外観も内部の作りも博物館というよりも、地元の公民館という感じ。

展示室



▲現在はまだパネル展示だけで、手作り感覚ですが、ぜひがんばってほしいものです。

鈴木正三とは

足助の即定城の城主の長男として生まれ、徳川家康に仕え、関が原の合戦、大阪冬、夏の陣の実戦に参加し、200石の旗本となり、大阪城番士などを勤めますが、42才でその地位を捨て出家。豊田市山中町に創建した恩真寺を拠点に「世法即仏法」「仁王禅」「果たし眼念仏」などを唱えて布教活動を行い、江戸で77歳の生涯を終えるまで、弁道、唱道、教化につとめました。この地方で多くの寺院を創建、再興し、多くの著作を著しました。
天草、島原の乱後の初代天草代官として、弟重成を助け、寺社の建立、再興、民衆の教化などに協力しました。天草では今でも正三、重成、重辰(正三の実子)の3人を「鈴木さま」と呼び、信仰しています。

 

ちょっと発展させて鈴木正三を深堀りしてみました

最初にお断りしておきますが、以下に述べることのほとんどは巻末に記したHPからの引用です。 そのうちにまた自分の考え、説などを持ちたいと思っていますが、現在ではまだ自分の勉強のためにまとめただけです。

著 作



正三は書くことが好きだったようで著書もおおく、出家前に著した「盲安杖」、島原に建立した各寺院に納めた「破切支丹」、ほかにも「因果物語」「万民徳用」「草分」「二人比丘尼」「念仏草紙」などがあり、没後、弟子の恵中がまとめた「反故集」「驢鞍橋」も正三の思想を知る上で貴重な資料となります。

「七部の書」といわれている代表的な著作は以下の本です。

「盲安杖(もうあんじよう)」
武士の生き方、処世の信条について、仏教の考え方と儒教(じゅきょう)の考え方を合わせて説いたものです。
常に自分自身をふり返り、本当の意味でで己を知れ。たとえ学識(がくしき)が広くたくさんのことを知っているとしても、自分自身をよく知っていなければ、本当の識者(しきしゃ)とはいえないであろうと喝破。 儒学者が「仏教は世の中の教えに合わない」と言ったのに対して、仏教(禅宗)の立場から人間とて守るべき10ヶ条を書いたものです。
正三が出家(しゅっけまえ:お坊さんになること)前に書いたものです。
「心の目の見えない人を安全に導くための杖(つえ)」という意味で『盲安杖』と名付けました。
「己を忘れて 己を忘れざれ」という記述があります。
「破切吉利支丹(はきりしたん)」
天草初代代官、弟・重成の願いで、はるばる天草(今の熊本県天草地方)に行った正三が、人々の心からキリスト教の教えをなくそうと書いた書物です。
天草の全島の寺社に配布され、天草復興の精神的バックボーンをなしたものです。
正三の仏教、キリスト教のとらえ方がわかります。
「因果物語」(いんがものがたり)
仮名草子。
正三が実際に見たり聞いたりした不思議な出来事、おばけ、ゆうれいの話をまとめた書物です。仏教の教えを広めることを目的に書かれました。「岡崎の龍海院(りゅうかいいん)にて」とか「東三河千両という村にて」と実際の地名や人の名前が出てきます。
「万民徳用」
仮名書きのやさしい和文で、江戸時代260年を通して庶民に読まれた本です。
商家で丁稚の手習いや寺小屋の読み書きの教科書として使用されたそうです。
文字を覚えながら処世訓を学ぶという一石二鳥の方法だったのです。
商人道の発展と普及に大きな役割を果たします。

「万民徳用」を書いたのは、正三が熊野を訪れた際に世話になった加納某という武家に、武士の日用に役立つものを書いて欲しいと頼まれて、「武士日用」を著したのがきっかけでした。
その後、正三は次々に「農人日用」「職人日用」「商人日用」を著し、『四民日用』が作られました。
そして、正三の死後6年後、『四民日用』に前に書いていた『三宝徳用』『修行念願』を一つにして『万民徳用』として出版されました

「商人日用」のなかで、正三は、「売買をしようとする人は、まず徳利の益すべき心づかいを修行しなさい。」 と述べて、積極的に利益を肯定しています。
商人は士農工商の身分制度の最下層におかれました。それは商人がモノを売るだけで利益を得る卑しい存在だと考えられた社会の中では画期的なことでした。
そして、「その心づかいとは他のことではない。身命を天道によって、一筋に正直の道を学びなさい。正直の人には、諸天の恵みが深く、仏陀神明の加護があり、災難を防ぎ、自然に福をまし、衆人が敬愛し、浅くなく万事思ったとおりになるようになる。」と述べ、正直な商売こそが大事であると説いています。
では、その「正直」とはどのようなものかというと、「私欲に専念して、自他を隔て、人を抜いて、得利を思う人には、天道のたたりがあって、わざわいをまし、万民のにくみをうけ、衆人が敬愛することなくして、万事思ったようにはならなくなる。」とありますので、「私欲」を持たないことと考えることができます。
「自分が名声を得たり財産をふやしたりすることを願っても、さらによいアイデアがあるわけではない。結局、地獄道・餓鬼道・畜生道の三つの悪道の業が増長して、天道に背き、必ずそのとがめをこうむるのだ。」
名声や財産を得たいというのは誰しも思うことですが、正三はきっぱりと否定しています。そしてこう続けます。
「これを恐れ慎んで、私欲の念を捨て、この売買の作業は、国中の物流を自由する役人になることで、天道より与えられたのだと思い定めて、この身は天道に任せて得利を思念することを休め、正直の旨を守って商いすれば、火がものを乾かしたり、水が上から下に流れるように、自然に天の福が相応して万事思ったとおりになるであろう。」
「一筋に正直の道を学ぶべし。正直の人には、諸天のめぐみふかく、仏陀神命の加護有りて、災難を除き、自然に福をまし、衆人愛敬、浅からずして万事心に叶うべし」
私欲を捨て、正直を守るということが、結局は「福」を増すことなのだと正三は、主張するのです。
「人々の心の持ち方が自由になり、人々が心の世界の中で自由に振る舞うことができるようになるためならば、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるもよし、座禅をしてみるのもよし、さらには、そんなことは何もしなくても、毎日、自分に与えられたそれぞれの仕事に、精一杯打込んで働いていれば、それが人間として完成していくことになる。」
と、民衆の日常に目を向け、宗教、禅、念仏にとらわれずに、世俗的な職業に励むこと自体が仏教修行であると説きました。
正三の考えは、日本人の勤勉さを説明するものの一つとされています。
「草分」「麓草分」(ふもとのくさわけ)
出家した僧のために修行の心得(こころえ)が書かれています。
はじめに17条の見出しを示し、後で一条ずつ解説がしてあります。
「二人比丘尼」
仮名草子本の代表作といわれ、基本的には七五調の韻文で、一部に謡曲調、問答体も用い、和歌も挟んであって、読みやすいのが特徴です。
江戸時代のかな書きの読み物を仮名草子(かなぞうし)本といいます。この『二人比丘尼』は仮名草子本の代表作といわれ、江戸時代のベストセラーとなりました。
物語を通して女性に対して仏道の教えがわかるように書かれています。
「念仏草子」(ねんぶつぞうし)
『二人比丘尼』と同じ頃、江戸で書かれた仮名草子本です。
20才前に出家した尼(あま:女のお坊さん)が仏教について、幸阿(こうあ)というお坊さんに質問するという形でお話しが進みます。『二人比丘尼』と同じく、女性に向かって仏教の教えをわかりやすくあらわした本です。 

その生涯

その生涯は既に多くの方が本格的に研究されているので、ここでは引用させていただきます。
この略年譜は、川路和夫氏が制作されたものをもとに若干の修正を加えました。

天正7年(1579年)
◇三河国賀茂郡足助則定(東加茂郡足助町則定)で則定城主・鈴木重次(しげつぐ)の長男として生まれる。
1月10日生まれ。
鈴木家は代々松平家に仕える500石の武士の家系で、いわゆる「三河武士」の家でした。
豊臣秀吉による天下統一が進んでいたころのことです。
今の愛知県豊田市足助町大字則定がそのふるさとです。記念館ののやや上にあり、現在は鈴木正三記念公園になっています。

天正10年(1582年) 4歳
◇同じ4歳のいとこが病気で死んだとき、死とは何かという死について大きな疑問をもつ。(行業記)
  ◇高橋七十騎(武士の集団)の鈴木九大夫の養子となる。

天正16年(1588年) 10歳
◇実弟・重成(しげなり)が生まれる。父の家は重成がつぐ。(『鈴木正三道人全集』鈴木鉄心編では文禄3年の16歳とある)

天正18年(1590年) 12歳
◇徳川家康(とくがわいえやす)が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令で関東へ移る。家康の家臣も関東へ移る。正三は高橋七十騎とともに上総国(かずさのくに:今の千葉県)塩子村(しおこむら:今の八街市<やちまたし>)へ移る。
◇本多作左衛門重次に仕える。

文禄4年(1595年) 17歳
◇『宝物集』を読み感動する。諸行無常(ししょぎょうむじょう:すべてのものは常に変化して少しの間も常住しない事)という仏教の教えを深く考えて、自分の命を惜しまず真実を求めようという気持ちを持つようになる。(行業記)

慶長元年(1596年) 18歳
◇主人であった本多重次が病死する。本多佐渡守正信に仕えることになる。

慶長5年(1600年) 22歳
◇関ヶ原の戦いが起こる。本多正信の家来として戦いに参加することになる。しかし、関ケ原の戦いに行く途中、信州(今の長野県)上田城の真田昌幸(さなだまさゆき)、その子幸村(ゆきむら)と戦い、その間に関ヶ原の戦いは終わり、戦いには間に合わなかった。
◇塩子村に帰ってから、いくつもの国のお寺を訪ねる。常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)の下妻村の多宝院で、良尊禅師と問答する。宇都宮(うつのみや)の慧林寺(けいりんじ)には物外禅師を訪ねる。ここで臨済宗(りんざいしゅう:ぜんしゅうの一派)の大愚宗築、愚堂東寔らの修行中のお坊さんに出会う。(行業記)

慶長10年(1605年) 27歳
◇美濃(みの:今の岐阜県)の岩村で、徳川秀忠(とくがわひでただ)が二代将軍となったことを知る。使者を使い、お祝いのことばを送る。

慶長12年(1607年) 29歳
◇実の子ども、重辰(しげとき)が生まれる。

慶長17年(1612年) 34歳
◇このころ、相模国(さがみのくに:今の神奈川県)の最乗寺で仏教を学ぶ。

慶長19年(1614年) 36歳
◇大坂冬の陣(徳川家康が豊臣氏を滅ぼそうとした戦い)が起こる。
◇本多出雲守忠朝の家来として、父・重次、弟・重猛(しげたけ)、重之(しげゆき)とともに戦いに参加する。

元和元年(1615年) 37歳
◇大坂夏の陣始まる。この戦いで初めてよろいを着た敵の首を2つとる。しかし、一生この生首の悪夢に苦しめられるのかと思うと恐ろしくなり、捨ててしまう。(武蔵名勝図会による)
◇戦いからに帰り、旗本(はたもと:将軍直属の武士)として江戸(今の東京)神田駿河台(かんだするがだい)に住む。
◇このころから、有名なお坊さんを訪ねて、仏教について勉強する。起雲寺の万安英種(ばんあんえいしゅ。1591〜1654)と禅について語る。万安英種は、正三の質問に十分答えられなかったため、お寺をやめて、八王子(はちおうじ)の山の中に入って修行をするようになる。また大愚が江戸・南泉寺の第一世となる。正三は南泉寺の寮に入り、禅の勉強、厳しい修行を行う。

元和2年(1616年) 38歳
◇四月、家康が病死する。正三は2代将軍秀忠に仕え大番(通常は江戸城、大阪城などを守り、戦いのときは将軍の本陣を守る役)となる。

元和5年(1619年) 41歳
◇大番頭、高木主水正とともに大坂城番として勤務。(下の一三八)
◇『盲安杖』(もうあんじょう)を著わす。

元和6年(1620年) 42歳
◇切腹を覚悟の上で江戸にて出家(しゅっけ:家や家族、仕事を捨てて、仏の道に入る、お坊さんになること。)する。二代将軍・秀忠は、「正三は、出家したのでなく、隠居(いんきょ:家の財産を子どもにゆずって、仕事から離れること)したとにしておけ」と言い、処罰(しょばつ)をしなかった。

◇家は甥(おい)の重長を養子にしてつがせる。実の子である重辰は、弟・重成の養子にする。
◇大愚宗築に僧としての名前をつけてくれるように頼むが、大愚は、「今のままでよい。」と言う。
※これについては、正三の名がすでに仏教界で知られていたから、という説と、大愚が、正三の出家を軽んじて名前をつけなかったという説とがある。

元和7年(1621年) 43歳
◇正三は風呂敷と一本の杖という姿で、畿内(きない:今の関西)五ヶ国のすみずみまで名所旧跡を巡り、神や仏を参拝して修行する。(行業記)

元和8年(1622年) 44歳
◇豊後(今の大分県)の雪窓和尚と高野山の玄俊律師に同行して、大和(今の奈良県)の法隆寺に身を寄せ、律義を習い経典を学ぶ。
◇そして、玄俊より沙弥戒(しゃみかい:出家したばかりの高僧が守るべき十の取り決め)を授かる。

元和9年(1623年) 45歳
◇三河国、足助にもどる。千鳥山に入り、修行を重ねる。あまりに激しい修行のため病気になる。弟・重成のすすめで戒律(かいりつ:まもらなければいけないきまり)を破り、肉を食べて、快復(かいふく)する。(下の十三)

寛永元年(1624年) 46歳
◇三河国石平山(今の豊田市)にお寺を建てて、坐禅弁道に努める。多くのお坊さん、他の職業の人、女性がおとずれ教えを聞く。

寛永3年(1626年) 48歳
◇三河国野田村の塚火を、七日間お経を誦んで鎮める。
◇弟子の三政と江戸へ行く時、新居(あらい:今の静岡県の地名)の渡しで船頭を済度(さいど:人間を迷いからたすけること)する。
◇重成、御納戸頭(ごなんどかしら)になり、不正を行う旗本の取り締まる。

寛永4年(1627年) 49歳
◇この頃より、『因果物語』を集める。

寛永5年(1628年) 50歳
◇父・重次が則定で病気のために71歳で死ぬ。(寛政重修諸家譜には76歳とある)
◇弟・重成が上方(今の大阪)代官に選ばれ、大坂に住む。翌年、重成は摂津(せっつ:今の兵庫県)、河内(かわち:今の大阪)の両国の堤奉行(つつみぶぎょう)をかねて行う。

寛永8年(1631年) 53歳
◇京都で天台宗の高僧真超法師と問答する。真超は天海僧上に召され、一時は東叡山の学僧となる。その後、真超は「正三はまさに活きた悟(さと)り人である。末法の世に実に会い難(がた)き人に会うことができた」と話した。
◇大坂の重成邸に泊まる。重成に話して、隠し田(かくしだ)を作った百姓の処刑に対して、女は無罪とする。 また死刑者のために、阿弥陀仏および二十五菩薩の像を造る。

◇紀州熊野(きしゅうくまの:今の和歌山県)から、和歌山の加納氏の家に泊まって、『四民日用』を書く。
◇三河に帰り、矢並(やなみ:豊田市矢並町)の医王寺(いおうじ)を修復する。

寛永9年(1632年) 54歳
◇三河の石ノ平(今の豊田市山中町)にお寺を建て、石平山恩真寺(せきへいざんおんしんじ)と名付ける。
◇その後、大和の吉野山に登り、行者が行う捨身の修行に感激する。(上の一六六)

 恩真寺

山号を石平山と号し、曹洞宗。 元和6年(1620)に出家し五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)の寺院を巡った正三は同9年(1623)、千鳥山(豊田市千鳥町)で修行しました。そして寛永元年(1624)ごろからは生家則定鈴木家の知行地である山中村石ノ平(豊田市山中町)に草庵を結んで修行にはげみました。同9年(1632)、2代将軍秀忠が没すると、その遺財が大名・旗本に配られ、これを弟重成から贈られた正三は恩真寺を建立しました。
正三は慶安元年(1648)、住まいを江戸に移すまでここを拠点に弁道、唱道、教化に勤めました。



境内には、正三が修行したと伝える座禅石や滝などがあり、本堂裏手には正三の墓石もあります。
本堂には正三存命中の正保2年(1645)につくられた坐像が安置され、その体内に正三100回忌(宝暦4年)に分骨された遺骨の一部が納められています。



また、寛永21年(1644)に正三が雇主となって作られた梵鐘や、正三使用と伝える袈裟、鉄鉢、木椀、杖、正三自筆の著作などが残されています。

寛永13年(1636年) 58歳
◇万安禅師が丹波国(たんばの国:今の京都府と兵庫県にまたがる地域)に瑞巌寺を再興(さいこう)したので、急いで行き、万安に頼まれて『麓草分』 上・下二巻を書く。
◇その後、江戸に行き、『二人比丘尼』、『念仏草紙』 を書く。

寛永14年(1637年) 59歳
◇島原の乱が起こる。松平伊豆守信綱に従い、弟・重成は火器隊長(砲術奉行)として出陣する。重辰も出陣する。
◇重成は、島原の乱が終わっても、天草の地にとどまる。
「落城のとき本丸に先登して軍功あり。信綱凱陣ののち重成なおかの地にとどまりしかば、その軍功を老中に告げるのむね信綱書をあたへてこれを賞す」(寛政重修諸家譜)

寛永15年(1638年) 60歳
◇この頃、足助宮平に十王堂を創建する。

 十王寺

山号を神宮山と号し、真宗大谷派。正三開基の寺と伝えられ、当初は十王堂として創建されました。江戸時代は曹洞宗や浄土宗の僧侶が在住することが多かったのですが、明治6年、愛知県の小祠小堂廃止布達により廃寺にされました。そして明治30年代に真宗大谷派の寺院として再興されました。
十王堂の建立は、正三の弟子恵中がまとめた「反故集」に「三郎九郎(重成)思立候テ、去年ヨリ十王建立致シ、」とあり、重成の発願でした。当初は、十王像が本尊仏として祀られたはずであるが、現在は、「またたき如来」と呼ばれる木造阿弥陀如来像が本尊仏となっており、十王像は本堂内左側面に祀られています。寛永15年(1638)在銘の十王像の中には「施主鈴木伊兵衛(重辰)」と「施主鈴木九太夫(重長)」の2躯があります。

寛永16年(1639年) 61歳
◇普賢院(旭町)を再興する。



普賢院

古代から栄えていた二井寺が、廃絶していたのを悲しんだ正三が、塔頭(たっちゅう:禅宗で、祖師や開祖などの塔のある所)の一つであった普賢院を再建しました。

寛永18年(1641年) 63歳
◇重成、天草の初代代官となる。島原の乱で荒れ果てたの天草の土地と人々の心のたて直しに力をそそぐ。
  ※代官(だいかん:江戸時代、幕府が直接おさめる土地を支配して、その土地の政治を行った役人)

寛永19年(1642年) 64歳
◇正三、重成の誘いを受けて天草に行く。行政・経済政策顧問として幕府から復興資金を調達。
キリスト教にかわり仏教を広めるため32の寺を建てる。当時の仏教界指導者を多数天草に招く
『破吉利支丹』(はきりしたん)を書き、一冊ずつ寺に置く。(行業記)、

正保元年(1644年) 66歳
◇恩真寺、二井寺(にいでら:愛知県東加茂郡旭町押井にある今の普賢院)の鐘を造る。



正三銘の梵鐘
士農工商その業(ぎょう)に励(はげ)む
東加茂郡旭町の普賢院というお寺の鐘(かね)に正三が書いた文章があります。これは、その前文にある文章です。

正保年間に『二人比丘尼』を出す。

慶安元年(1648年) 70歳
◇石平山から江戸(今の東京)に出て仏教の研究に努める。

長泉寺
東京都八王子市
臨済宗。慶安元年(1648)年頃、井上出羽が正三を八王子に招き開いた堅淑庵(けんしゅくあん)にあった正三を安置しています。墓地には正三と弟子の恵中の墓、宝暦8年(1758)建立の「石平道人」があります。



慶安3年(1650年) 72歳
◇森川氏が、四ッ谷に重俊庵を造り、正三をまねいて同居(どうきょ:いっしょに住むこと)する。
◇ここで『三宝徳用』を書く。

慶安4年(1651年) 73歳
◇恵中(えちゅう:慧中とも書く)と雲歩(うんほ)、二人一緒に正三に入門する。ともに24歳。
◇『盲安杖』が世に出る。

承応元年(1652年) 74歳
◇熊谷氏、牛込の天徳院境内に了心庵を造り正三ここに住まわせる。
◇ここで『修行之念願』を書き、前の『三宝之徳用』『四民日用』を合わせて『万民徳用』を完成する。

承応2年(1653年) 75歳
◇重成、この年の春天草を出て、10月15日、江戸駿河台の自宅で切腹する。66歳。

承応3年(1654年) 76歳
◇五月二十四日、大強勇猛精進仏に出会い、嬉しさのあまり涙を流す。(下の八八)

明暦元年(1655年) 77歳
◇春より病気となり、了心庵を返し、駿河台の重之邸に移る。六月二十五日申時(午後四時頃)、亡くなる。



心月院の古墓
移転前の心月院跡地にあります。文字は風雪にさらされて消えていますが、正三の墓もこの中にあると思われます。

年齢は数え年です。



鈴木氏



戦国時代、西三河山間部では、鈴木氏が勢力を持っていました。
鈴木氏が西三河に移住してきた時期は定かではありませんが、源義経の家来の鈴木重善(善阿弥)が矢並(豊田市)に移住したのが始まりとも伝えられます。しかし、最近の研究では善阿弥は、鎌倉時代の終わりごろから室町時代の人と考えられています。善阿弥の墓は、矢並の医王寺に祀られ、三河鈴木の祖廟とされています。 この善阿弥を祖とする鈴木氏は、矢並、市木、寺部、酒呑、古瀬間(豊田市)、大島、則定、足助(足助町)、大草(小原村)などの各地にあるが、その関係は定かではありません。
鈴木正三の父 中兵衛重次は、酒呑の鈴木氏の流れをくみます。重次は、記念館裏の標高220mの「羅漢山」と呼ばれる椎城を居城とし、山麓の心月院跡地(鈴木正三記念公園)を居館としました。なお、椎城には「當椎城主鈴木重氏墳」と彫られた墓碑がたち、「三河国二葉松」に「椎木ト云所鈴木十内」とありますが、重氏・十内ともに不明です。
正三と重成は、椎城居館の心月院跡地で生まれました。

 椎城縄張図

 居館のあった心月院跡地

エピソード

この手の話には尾鰭が付きやすく、どこまで本当だかわかりません。しかし、それが人格をあらわし、みんなが納得する話だから残るのでしょうから、ご紹介します。

四歳ごろ幼少時、いとこ(一説に友)を亡くし、死とは何かを考えるようになった。
十二歳の時、満天の星空を見、「全てが平等なのに、なぜ人は苦しむのか」と煩悶した。
ずいぶん頭のよい子供だったんでしょうね。

正三が42歳の時に旗本を捨て、武士をやめ出家すると言い出したときの話。
当時の武士が職を辞すというのは容易なことではなく、
将軍に仕える同僚は、正三突然の出家に驚き、職にとどまるよう説得しますが、
正三は、「(将軍には)気が狂ったと申し上げてくれ。」と言って取り合いません。
この話を耳にした秀忠は、笑みを浮かべて、「隠居したまで。」と一言いったと伝わっています。隠居ならば罪に問うことはできません。将軍秀忠の粋な計らいでした。
人のことなどお構いなし、頑固一徹の正三に、何をいってもムダであることを 秀忠はよくわかっていたのです。

正三の出家の動機については、いろいろな見解が出されているが、彼自身の晩年の言葉によると「我四十余ノ時、頻リニ世間イヤニ成ケル間・・・不図剃タリ」と言っている。 直接の動機となる何かがあったのかも知れないが、現在分かっていない。しかし、17歳のとき、「宝物集」を読んで感激し、仏教に帰依するようになったといわれており、以来、寸暇を見つけては名僧知識をたずね、教えを受けていた。
元和5年(1619)、つまり出家の前年、大坂城の藩士を勤めていたとき、朋輩の儒者が「仏道は世法に背く」と主張したのに対して、処世の心情10か条を示し、「仏法によりてこそ、処世の安きを貫きうる」ことを力説し、最初の著作「盲安杖」という書物を著しているほどである。
出家は、正三のなが年の宿願であったのではあるまいか。

幕臣を辞して出家した正三は、ものすごい荒行をこなします。諸国を行脚し、野山で眠り、衣食を詰め、律僧となって身を責めるといった具合です。
そんな荒行で、正三の身体は弱りきってボロボロになっていました。病気になり、さまざまな治療法を試みますが回復せず、一時は死を覚悟しなければならないほどでした。
いよいよ危なくなったとき、親類たちが集まってきましたが、医術の知識のある弟が正三を一目見て、
「薬なんかいらないよ。食養生でよくなるよ。肉を食えばいいんだ。」というと、正三は、「どうしてそれを早く言わないんだ。養生ならば死人でも喰うぞ。」と答えて肉食をはじめ、2年ほどで平癒したといいます。
当時(現在でも)禅宗では肉食を厳しく戒めています。それを平気で破り、生き延びようとする姿は、戦場で死人の肉を食してでも生き残り、戦い抜こうとする戦国武士そのものであり、正三にはそうした考え方が脈々と活きづいていました。
寛永元年(1624)、病を癒した正三は、岡崎城にほど近い石平山に庵を結び、昼は人々に講義し、夜は座禅に打ち込むという生活を送ったといいます。 

正三のことを「石平道人」と呼ぶことがあります。実は、出家の際、親しい禅僧に法名をつけるように依頼しましたが、正三には誰も法名を与えることができなかったので、俗名をそのまま用いていました。そこで、正三を慕う弟子達がこの地の名を取ってそう呼ぶようになったのです。

「邪魔」と言う言葉
現在、妨(さまた)げになっているものを「邪魔(じゃま)」という言い方をしますが、この語はもともと仏教用語で、修行の妨げをする悪魔のことを言いました。現在のように、この言葉を使うようになったのは、正三が広めたからだと言われています。

下佐切の念仏講



足助町下佐切の城山の麓で出没するお化けを退治するため、正三の勧めによって始めたと伝えられる念仏講です。現在も毎月1回行われています。
昔、下佐切の村では、城山の麓の郷蔵付近でお化けが出るといううわさが広まり、大人までも怖がるようになってしまいました。そこで隣の則定村の心月院の正三のところへ、教えを受けに行きました。
これを聞いた正三は「おばけを退治するには、槍や刀では駄目だ。大勢の人が集まって大きな声で念仏を唱えれば怨霊は鎮まるであろう」そして「大勢の人を集めるには、食べ物が必要だ。この枡で、各家から米や雑穀を集め、食べ物をつくるといい」と一合枡を村人に与えました。
正三の教えで村人が寄り集まり、念仏を唱えるようになってからは、お化けを見たという村人はいなくなりました。



正三が念仏講を勧めるために与えた枡だそうです。

 

下佐切の念仏講中の人々が、正三の年忌に建立したもので、現在3基の供養塔が祀られています。150回忌(1798年)と200回忌(1847年)と330回忌(昭和60年)のものです。

思 想

鈴木正三の思想のポイントをあげると以下の要素だと思います。
宗教は特別なものではなく、日常の中にあるもの、自分の中にあるものである。
一所懸命自分の役割を果たすことが信仰そのものである。
使命の達成感が信仰の重要な要素。
したがって宗教は種類を問わない。
達成感が主体であるので、職業自体には貴賎はない。
自分自身に対して正直であることが必要。

それは以下のような記述から読み取ることができます。
「世法、仏法二つにあらず、世法即仏法・・・」
「何の事業も仏業なり、人々の所作の上において成仏したまうべし」
どのような仕事もみな仏の修行である。人々は、自分の仕事によって仏になる。

与えられた枠の中で一所懸命働くこと自体が信仰そのものである。という思想です。

「同じ人間であるのに、商人に生まれたばかりに、常に利益を追いかける気持ちを持ち続けなければならず、菩薩に進むことができないのは、無念のいたりです。どうすればいいのでしょう」
と問いかける商人に向かって、こう諭しています。 
「商人は利益を出すような商売をしなければならないが、それには秘訣がある。それは正直をモットーとした商売に徹することだ。そうすれば仏陀明神のご加護があり、取引相手もお客も、その商人との取引を喜び、商売は繁盛する」 自分の仕事、職業に打ち込みなさい。その仕事の意味を考えて働きなさい。そうすると、心の平安が、安らぎが得られるでしょう。 「身命を天道に投げうって、一筋に正直の道を学ぶべし。正直の人には、諸天の恵み深く仏陀神明の加護ありて災難を除き、自然の福を益し、衆人愛敬浅からずして万事に叶うべし」 「そういう正直な商いをやっておれば、その商人は福徳が充満する人となり、行往坐臥がすなわち日常の生活がそのまま禅定となって、自然に菩提心が成就する」

「生死ノ大事ヲ説キ、幻化無常ヲ談ズル人ニ親近スベシ」。求道心は無常観からわき起こる。“いま”というひと時より外に人生はない。烈々たる気迫でもって仏道を尋ねよと諭しました。

儲け(もうけ)とか利子というものを認め、評価したこともその当時では画期的なことだとされています。

「欲が強く、仏の教えが守れません」と訴える農夫に伝えています。
極寒炎暑の下、骨身をくだき鋤鍬をふるって農業に従事することが、仏道の修行であり、農業の日々とは別に信仰があるのではない。
私欲を捨てて天道に奉公をするつもりで、一鍬(ひとすき)一鍬に南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏と唱(とな)え、一鍬一鍬に心をこめて余念(よねん)なく農業にいそしめば、田畑は清浄の地となり、五穀(ごこく)も清浄な食料になって、それを食べる人の煩悩(ぼんのう)を消滅させる薬になる。
自分の欲を捨てて、一鍬一鍬「南無阿弥陀仏」と唱えて心を込めて農業を行えば、田畑は清らかになり、そして農作物も清らかになり、それを食べる人の悩みや不安を消す薬になる。

「心(我欲)を滅ぼして、心(正直)を育てよ」
正直の道とは、世間の眼のあるなしにかかわらず、表裏のある生き方をせず、懺悔と回向をして、自他のために 着実な努力をしていくことで、良い結果が自然にもたされるといっている。
宗教とは教義ではなく、自分自身への達成感である。

己(おのれ)に勝つを賢(けん)とし、己が心に負けて悩むを愚(ぐ)とす。  簡単な道を選んだり、悪徳(あくとく)に走ったりした後で後悔(こうかい)し、悩(なや)む人が少なくない。ここではそれを「愚」(ぐ)とし、最初から正しい道を選ぶように自制心(じせいしん)を働かせることを「賢」(けん)としている。

禅と念仏の融合を説いています。
宗教の教義自体は手段だけの問題なので、目的である自分の心の達成感には関係がないとしています。
但し、キリスト教は駄目だったようです。

宗教者は本来はいらない、役立たずの「泥棒」と規定します。
宗教者は、領民を教導して治世を円滑にすることによってのみ、存在が認められるとしています(これを僧侶役人説という)。

「己を顧みて己を知れ」
いかなほど物知りたりとも、己を知らず派は、物知りたるにあらず。
自分のことを反省して、本当の自分自身を知れ。たとえ知識が広く、様々な事をよく知っていても、自分自身が本当にわかっていないなら、物を知っているとはいえない。他人のあらはよく見え、自分の事がまるで見えないのが私たち凡人である。
素直な心でものを見、自分をかえりみる時、本当の自分が見えてくる。自分を知り、世の道理をわきまえた人こそ物知りというのである。

人にはもってうまれた能力というものがあるのだから、低劣で至らぬことをしたからといって、そのひとは、自分の精一杯をしているのかもしれないから、むやみに怒ってはいけない、囲碁が下手だからといってひとは怒らないであろうといって、つぎのように述べている。
 「いづれの人も行ひあしくせんとはあらねども、心たらずして、我身をもほろぼすなり。たとえば、貧人の過分のふるまいかなわざるがごとし。されば、己が分限より上のはたらきなるべからず。とかく心のいたらざる故と心得て、結句憐れむ心あるべし」と。そして、「おのれ すなおなる時は、うき世にあしき人なし。おのれひがごとなる時は、あしき人世に多し」といい、「我よきに人の悪ろきがあらばこそ、人のわろきは、我わろきなり」という歌をあげている(『盲安杖』)。
 亀には亀の「分」があり、にわとりには鶏の「分」があるのであって、亀がのろまだと怒ったり、鶏が天高く飛ばないといって怒るのは、無理難題をいいかけているのであって、怒るものが悪いのである。

仁王不動禅(におうふどうぜん)
仁王像(におうぞう)や不動様(ふどうさま)のように、厳(きび)しい心を持って座禅(ざぜん)を行い、その気持ちを一日中持ち続けよ。

果たし眼念仏(はたしまなこねんぶつ)
息を引ききり、眼(まなこ)を見すえて、こぶしを握り、胸を張り出して「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏」と念仏をとなえなさい。

本覚真如の一仏は百億に分身して社会に利益(りやく)を与えている。鍛冶、番匠をはじめとする諸々の職人がいなければ社会生活に必要なものが調達できない。武士がいなければ世の中が治まらない。農民がいなければ食物がない。商人がいなければ自由な物流がなりたたない。このほかにもあらゆる事業ができて世のためになる。天地を指した人もあるし、文字を作り出した人もいる。五臓を分けて医術を施す人もいる。その品々、限りなくでて世のためになるが、これはただ一仏の徳用である。」

武士道への影響
正三は、自分が臆病(おくびょう)だから死ぬのがこわくて、生きたまま死んだ体になっていたいから、修行するのだ。死んだ体にならないうちは、永遠に修行しようという気持ちを持っている。(『驢鞍橋(ろあんきょう)』)と述べ、つねに死ぬ気で修行をするように説いています。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と述べた山本神右衛門常朝の『葉隠』という有名な本があります。実は、この考え方は、正三の影響が強いと言われています。との言葉があります。武士は主君のために、忠義のために死ぬことを是としています。正三の仁王禅(におうぜん)の激しさは、この死を見据えた修行の激しさと言えます。

武士道から農民、商人、すべての職業を持つ人へ
 江戸時代の始まりは、それまでの戦いの世の中から戦いのない社会へと大きな時代の転換期でした。武士は、戦うことから世の中を収める役人に、そして、農民、商人、職人は厳しい身分制度のもとに置かれました。そんな中で、すべての職業が一つの仏のもとに貴賤なく平等であること、仕事に真剣に打ち込むとことが修行である、という考えから、武士道の精神を農民、商人、職人にまで発展させ、農民が食物を生産すること、商人が物流を行うに積極的な意味づけを行いました。これが、江戸時代の人々の精神的な支えとなり、商人の世界では実力主義の形成に貢献し、商業が発展する基礎となりました。

鈴木正三の思想は
・薄い宗教観
・「がんばり」そのものの理由付け
・平等観
・利益の肯定
などが現代の我々の心にヒットし、時代を先取りした思想と捉えられるのでしょう。

各地に残る正三像

鈴木正三の木像は心月院、恩真寺、長泉寺、報慈寺、能仁寺の5ヶ所に所在します。近年、国照寺(天草郡)に新しい像が作られ、十王堂から移された一仏二十五菩薩像とともに安置されています。
なお 法福寺(東京都豊島区)にも所在したとの記録がありますが、現存していません。

 心月院



山号を則定山と号し、曹洞宗。

「正三九部の書」には、心月院についての記載はないが、「當院開基鈴木正三尚禅師」と「妙昌七世當院開山法屋祖順大和尚禅師」の位牌があります。

創建当時は「心月庵」と称して、記念館の背後の山を少し登ったところの熊野神社の東に建立されましたが、明治23年に現在地に移転されました。その時観音寺(跡地を「元観音」と呼ぶ)を合併して、寺号は「心月院」を使い、観音寺の本尊仏の木造観世音菩薩立像を本尊仏にしました。なお心月院の本来の本尊物は木造阿弥陀如来像(鎌倉時代末の作)です。曹洞宗寺院では阿弥陀如来像を本尊仏とすることは稀であるが、「禅もよし、念仏もよし」とした正三の考え方をよく示すものであります。現在の建物は昭和53年(1978)に道路拡張工事により再建されたもので境内地は狭くなり、堂宇も小さくなりました。

本堂には、延宝9年(1681)につくられた正三の坐像が安置され、重成の位牌もあります。

 恩真寺

滋賀県 彦根市
曹洞宗。正三の弟子秋山半九朗が、正三7回忌の寛文元年(1661)に建立

 長泉寺

東京都 八王子市

 報慈寺

 能仁寺

大分県 大分市
曹洞宗 弟子の雲歩が建立

もうひとつのストーリー 弟 鈴木重成

鈴木正三の実弟 鈴木重成も天草で天草・島原の乱後の復興に力を注ぎ、善政を行いました。そして今なお神として祭られています。
重成は三河武士であり、天草とは縁もゆかりもない天草の代官が天草の百姓たちのために命をささげたのです。
鈴木一族の天草領民に対する善政が荒廃した天草領の復興にどれだけ貢献したかは、農民たちが正三一族を祀る鈴木神社を各地に建立したことを見れば一目瞭然でしょう。


彼も則定の生まれですが、家康の関東移封に従い、下総の塩子村(現在の千葉県佐倉市、八街市にまたがるあたり)に移住しました。

次第に徳川将軍家に重んぜられて三十九歳で将軍家の出納を司る御納戸頭に、四十一歳のとき大坂(今の大阪)の上方代官に任ぜられました。三代将軍徳川家光の時代です。

寛永5年(1628)の大坂洪水。 日夜その復旧に追われますが、その時の努力や判断、手際のよさが光ったのでしょう、次の年には摂津・河内両国の堤奉行を兼任することになりました。

寛永8年(1631)大坂で隠田事件が起こります。(下記)

一方天草では 天草五人衆の時代、キリシタン大名小西行長の時代を経て、関ヶ原の合戦後、唐津の寺沢広高、堅高支配となりました。
重税と飢饉、キリシタン迫害により、人々は反乱ののろしを上げました。
寛永十四年(1637)十月、天草一揆の始まりです。一揆勢と唐津藩の武士とは各地で激しくせめぎあい、特に本渡の町山口川は激戦地でした。両軍はこの川を血に染め、累々たる屍体はその流れをせきとめたといいます。

鈴木重成は天草島原の乱の時には、幕府方の参じ、砲術隊長として、また鉄砲奉行として武器全般をとりしきっていたようです。一揆方を攻撃しました。

乱ののち、幕府は天草領を唐津藩から没収し、山崎甲斐守家治に与えましたが、それとは別に、重成公にはなお現地にとどまって島原および天草の乱後処理に当たるとともに、両地の復興プランを練るように命じます。
重成は天草の代官となって、乱の後の天草復興に尽力した。

鈴木重成公は寛永十八年(1641)十一月十七日に、熊本を経由して富岡へ着任し、下船津に設けられた代官所(陣屋)に入りました。

代官所は全国どこも意外なほど小規模ですが、天草の場合、新井・水原・倉橋という三人の元締が富岡の陣屋/江戸の役宅に詰めた他、手付・手代・書役・侍・勝手賄・足軽・中間などと呼ばれる人が、それぞれ一人から数人いたと思われます。
なお、代官所と城とはまったく別の存在で、山崎氏が去った後の富岡城は、細川藩士が詰めて警護しました。ただ、鈴木代官と熊本の細川藩主とは絶えず交流し、天草統治のため協力関係を密にしていたことがうかがわれます。

重成公は着任早々数々の具体的な政策をうっていきました(下記)

そして物理的な対策だけでなく、兄の正三を天草に招き、仏教を民間に再布教しました。
これが天草復興の精神的バックボーンをなしました。
正三、64歳で現地に赴き、天草にいたのは3年間です。
島民の暮らしを物心両面から豊かにするという重成公の天草再建計画は着々と進んでいきました。人口が増え、収穫も次第に上がり、人々も徐々に心の落ち着きを取り戻しつつありました。
そして根本的な対策として民衆の生活の経済的基盤を安定させようとしました。
天草はもともと貧しい地域であった。寺沢藩の領地になってから、検地が行われ、4万2千石となっていました。
しかし調査の結果、、その実勢は異なり、天草の実高はその半分以下でした。
しかし、一度決定された石高は幕藩体制の基盤であり、石高が変更されることはありえなかったのです。
重成は天草の石高を少なくとも半減しなければ、天草の百姓の安定はないと考えていました。

承応二年(1653)春、重成公はある決意を胸に江戸へのぼります。老中に直接島民の実情を訴え、嘆願するためです。しかしあの松平信綱でさえ耳を貸そうとはしませんでした。

そしてとうとう、将軍への上表文を書き残し、その年の十月十五日、老いの皺腹かききって果てたのでした。享年66歳であった。

実は病死説と嘆願切腹説と2つあり、病死説が有力なようです。

重成公には法名「異中院殿不白英峯居士」が贈られました。遺骨は江戸小日向の天徳院に葬られましたが、故郷の菩提寺・妙昌寺の墓地にも一族に混じって「異中院殿不白英峯居士」と刻んだ墓があります。鈴木神社本殿裏は重成公の「御遺髪埋葬之地」であり、富岡瑞林寺墓地には没後わずか二ヶ月余に建立された供養碑があります。

次の天草代官は重成公の甥であり養子でもあった鈴木重辰公(四十七歳)が天領天草の二代目代官に任命されました。重辰公が富岡の陣屋に入ったのは、重成公の自死から一年半、明暦元年(1655)六月二十一日のことでした。
その四日後に実の父、正三和尚が亡くなりました。

 二代目代官重辰公は正三・重成という偉大な二人の父の後を受け、二人がやろうとしたこと、やり残したことの実現のために渾身の力をふるいました。

万治二年(1659)六月、松平伊豆守、阿部豊後守の証文をもって天草の石高を以後二万一千石に改正すると通知してきたのです。重辰公はさっそく村々の庄屋に知らせました。村の人々も、代官所の役人も、天草じゅうがどよめき、喜びに沸き立ちました。そして同時に「重成公の命を賭けた悲願がとうとう実ったのだ!」と、しみじみ思ったことでしょう。

それは奇しくも先代の死から六年目、すなわち七回忌法要の年に当たっていました。重辰公は寛文四年(1664)京都代官を命ぜられ、天草を去りました。

政 策

村の編成
122の村々を一町10組86村に再編成し、村組織を確立しました。
各組には大庄屋を置き世襲としました。
それにより上下両方向の情報の流れを改善したもので、それによって施政の方針を周知徹底するとともに、住民の状況を正確に把握したものです。
移民受け入れの奨励
天草・島原の乱で激減した人口を、移民により増加させた。幕府は重成公の求めに応じ、天草・島原への移住者をつの募りました。周辺の各藩には一万石につき一戸の移住家族を出すよう割当てまで行っています。移民には、税の控除と、種籾配布、農具提供、家の確保などが行われた。
寺社の復興
荒廃した人心の安定のために正三を天草に招き、社寺の創建・再興をおこなった。幕府から特別に資金を投入してもらい、神社を復旧し、寺院を新たに建てたりしました。東向寺、国照寺、崇円寺、円性寺の「四カ本寺」を中心に創建や再興した寺社は20か所に及ぶ。そして、正三の著した「破切支丹」を天草全島の寺院に配布した。なお、寺社領300石をそれぞれの寺院に配分し、島民の負担を軽減した。
検地の実施
田畑の検地を行った。石高が3万7000石から2万1000石となった万治2年(1659)には石高が軽減された村と増加された村があり、公平な税負担を求めた。
医師の配置
3つの村に医師をおき、疱瘡流行に対処した。また、医学書を各村々に配った。
遠見番所と狼煙場設置
天草は四方を海に面し、異国船の来航が頻繁な地域である。そのため、遠見番所と狼煙場を設置し、長崎との連絡体制を強化した。遠見番として採用された地役人は八人です。有事の際は番所に併置された烽火場から「のろし」を上げて知らせました。福連木の御林には山方役人が配置されました。
定浦制度
島内の七浦を指定し、漁業を許可した。これにより、漁業の補償と漁民の管理体制が強化された。

隠田事件



現在、天草郡苓北町の国照寺に安置されている一仏二十五菩薩は、大阪で起きた隠田事件で死罪となった者を弔うために作られ、足助町十王堂に祭られていました。それを、正三が天草へ赴くときに持参し、重成が天草、島原の乱後の荒廃した天草の復興への願いを込めて円通寺(苓北町)に移したものであります。

因みにその隠田事件とは
寛永8(1631)年(「国照寺記録」では同11年)、大坂で隠田が発覚し、伏見奉行がその関係者の男女を全員処刑したい旨を重成に伝えてきました。
隠田とは幕府の土地台帳である検地帳に載らない田のことで、脱税を目的に役人に見つからないようにしてあるものでありました。
したがって隠田を作ることは幕府を欺くことであり、反逆と見做されたので重罪に処すことになっていた。しかし重成は兄の鈴木正三と相談しました。 正三和尚は弟に対し「女まで処刑するとは言語道断。永遠に禍根を残すことになろう。命がけ助け出さなければ」と助言しました。

そこで大坂から京まで一町ごとに人を立て、伏見奉行への助命嘆願状をリレーで急送し、問答を繰り返すこと三度。助命を乞い、ついに女性のみ赦されることになりました。

当時不正な蓄財は闕所といって幕府に没収されることになっていたため、隠田による財産は重成の管理するところとなりました。
重成は兄の正三と相談し、この財産で阿弥陀如来と二十五菩薩の像を造り、郷里の三河国足助郷宮の平に十王堂を建て (天草苓北町瑞林寺)て 安置し、刑死者の供養をし続けた。という話だそうです。

天草の「鈴木さま」



天草には鈴木神社という神社がある。本渡市に祭られているが、天草全土30余ヶ所に分祇され、「鈴木さま」として天草の人々に今でも親しまれている。もちろん、祀られているのは鈴木重成、正三(重三)、重辰の「鈴木三神」です。
江戸に在住していた東向寺(本渡市本町)住職 中華珪法が重成の遺髪をもらいうけて持ち帰り、丘陵に埋めて供養したのが鈴木神社発祥の機縁です。
そして天明7年(1778)、正三と重辰が合祀されました。






天草には各地に「鈴木さま」と呼ばれる塚や碑が残されています。



参考資料
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei107.htm
http://smallbiz.nikkeibp.co.jp/free/RASHINBAN/20040819/105248/
http://www.toyotajc.jp/2005toyotajc/katudouhoukoku/syosan/syosan-pr.html
http://www1.ocn.ne.jp/~sho1948y/sigenari001.htm
http://www.osaka-c.ed.jp/hannan/hannankyouiku/terasawa/terasawajtd.htm
http://www.kosei-shuppan.co.jp/buddhaworld/09/10.html
http://www.butsugu.co.jp/jakuandayorikotoba.html
http://www.farmmc.jp/page106.html
http://www.consultant.gr.jp/proeyes/heisei2.html
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/abesonnou1.htm
http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200406280900000000092420000
http://www2.town.asuke.aichi.jp/school/norisada/
http://www.osaka-c.ed.jp/hannan/hannankyouiku/terasawa/terasawajtd.htm
http://www.rkk.co.jp/start/shigenari/history/index.html
木原佳奈子/熊本県広報誌「彩り」No147
博物館パンフレット

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