愛西市佐織歴史民俗資料室

運営母体 愛西市
住 所 諏訪町郷西456番地1 (佐織公民館内)
電話番号0567-26-1123
休館日月・祝日の翌日
開館時間午前9時から午後5時まで
入館料無料
備 考
アクセス名鉄津島線藤波駅北500m公民館1階
HP 中央公民館展示室のHPは特にないようです。

展示の内容

概 略 考古発掘物、民具、農具、蚕など。木造船の発掘物が大物。佐織の歴史・民俗展示
愛知県では
ここでしか
見られない
展示
江戸時代に発掘された木の船。正確な発掘場所もわからない。(丸木舟の発掘品は南山大学にもある) 風呂桶の上に篭をかぶせる風呂桶。(他に七宝町、祖父江町の博物館で見ることができる)燃料を節約するために蒸しぶろ風に使ったんだそうです。名古屋以西の地域に分布していたんでしょう。
ひとこと展示場所が狭いわりに展示分野が広すぎ雑多な印象となっている。丸木舟という目玉があるのだから、そこから木曾川デルタの水運や古代の船などへ発展させて展示してくれたら愛知県で他にない博物館になるのに・・・・
備 考


地 図



 地図は公民館HPより

正確な場所は ここです

外 観

 

博物館は公民館の1F奥にあります。

 

展示室は一部屋。大きくはない。

考古学資料

縄文時代



▲縄文時代の早期(8500年前)は伊勢湾はもっとずっと小さかったのですが、縄文時代の前期(5500年前)は温暖化で海岸線はずいぶん奥のほうに進みます。佐織町はまだ海の中だったことがわかります。
そして弥生時代に木曽川の土砂堆積により、しだいに今の海岸線に近くなります。

弥生時代



▲おなじみ弥生時代の農業の様子。
 木曽川デルタ地帯のこの地方では、弥生時代から豊かな土地だったのでしょうね。



▲佐織町の南河田の八竜遺跡からは弥生中期の、土器全体に荒い筋を付けた壷型の土器の口の部分の部分が出土しています。米作文化伝播と深い関係のある土器です。



▲円窓付土器(えんそうつき)
「壷型、甕型の土器の胴部に丸い穴をあけた土器です。
その出土地は全国的に見て、愛知県尾張部に多い。窓の持つ意味はわかりませんが、尾張の後期弥生土器を特色づけます。」
(手でもあぶったのか、ネコでも飼ったのか・・・?)

この円窓付土器の出土例はは愛知県のこの地域以外では非常に少なく、珍しいものです。
穴は焼成前に開けられたもので、胴に穴が開いているので壷としては使えなくなってしまいます。
何故穴が開いているのかは不明です。
分布は特徴的で、濃尾平野でも朝日遺跡以外では出土点数は10点以下でほぼ朝日遺跡に集中しています。
もう少し時代が後になると滋賀県、京都府、兵庫県などでも見られます。

 愛知県陶磁資料館展示より

▲愛知県朝日遺跡での出土品

 愛知県陶磁資料館展示より

▲円窓付土器の出土地域分布
 数的には多くは朝日遺跡系統のものです。

古墳時代

「尾張の平野部には今日古墳があまり見られません。
その数少ない古墳は日光川、三宅川、五条川の流域に分布し、ほぼ4世紀〜7世紀代までの300年間に作られました。海部郡では4世紀代の千引奥津社古墳(円墳)と二ッ寺神明社古墳(前方後円墳)が知られています。町内各地からは6〜7世紀の須恵器が出土するので生活はあったものと考えられます。」

 

▲千引奥津社古墳
直径30m、高さ3mの鉛粉で何層にも土をつき固めて築造され、いつのころからか墳頂に社殿が建っています。同社には3面の鏡が保管されています。
三角縁神獣鏡で同じ鋳型で作られた鏡(同笵鏡どうはんきょう)が
@大阪・京都府
A京都府・香川県
B大分県
から出土しており、被葬者の中央政権との関係を示しています。
尾張最古の古墳です。



▲S字状口縁 台付甕形土器

諸桑地内から出土。口の部分が受け口状になっており、その断面がS字状に屈曲していることからこの名前がついています。
4〜5世紀のもので、このS字状口縁台付甕形土器は尾張以東の東国地域で多く出土しており、当時のこの地域に展開した文化や交流等がわかります。

寺院

 

▲渕高廃寺

奈良時代の寺院。寺域や遺構は不明。瓦は尾張国分寺(稲沢市)の瓦と同じ型で作られています。
良く似た模様の瓦は一宮市妙興寺、名古屋市内からも出土しますが、その窯跡はわかりません。

 

▲諸桑廃寺

近年発見された寺院の跡だそうです。
寺域や遺構は不明。
平瓦に「堤江寺」の刻印があるものが見つかっています。
高さ1.5mの陶製五重塔の破片が出土しています。(尾張地方で11例目)

これも含め 瓦の出土地は海部郡内に9ヶ所あります。 名称や建てた人の名前は伝わっていません。

中 世

中世のやきもの



▲町内の畑には焼き物の破片をよく見かけるのだそうです。
 行基焼とも言われる山茶碗で知多半島、瀬戸、美濃で焼かれたものです。
 椀と皿の2種類しかないのだそうです。
 粗雑なものであってもけっこう高価だったでしょうから豊かな消費地だったんでしょうね。

中世の佐織

「中世の尾張は武家の台頭後、源平の争乱、承久の変、南北朝、戦国両時代の騒乱を通じ、歴史の変遷が見られるが、佐織町も荘園としての変遷を辿ったものと考えられます。
12世紀には海部郡が海東郡と海西郡に分かれました。
そして13世紀末には海西郡三腰の名が、15世紀末には海東郡見越虚空蔵坊の名が見られますが、両郡の境(おそらく河川によるか)、所属の変遷などについての詳細は知ることができません。
戦国時代、織田氏による勝幡を中心とする支配の進展が見られ「織田信雄分限帳」には勝幡郷、みこしの郷、千引郷などの地名が見られます。織田氏の後、尾張は豊臣の支配下に入り、16世紀末に二度にわたり検地を受けるが、佐織町もおそらくそれを受け、やがて徳川の支配下に入ることとなりました。」

富田荘図



▲「富田荘は現在の名古屋市中川区富田町を中心とした地域で、寛治年間(1087〜1094)に成立し、その後、領家職は近衛家に受け継がれました。地頭は承元5年(1211)地頭請が成立して以来北条氏が占めていましたが、弘安6年(1283)円覚寺に地頭請が寄進されました。
嘉暦2年(1327)再度地頭構が行われ、絵図はこのときに作成されたものと考えられます。
この絵図で特に注目されるのは、耕地の周囲に堤がめぐらされていることで、この荘園が洪水を防ぐことに、たいへん大きな努力をはらっていたことをしめしていまいます。」

*地頭請というのは 鎌倉時代,地頭がその上級領主権者(たとえば荘園領主)に対して年々の豊凶にかかわらず毎年一定額の年貢を請負って進納する制度のこと。
これによって事実上の支配権を得た地頭の領主化が進んだ。

うーん、不勉強で解説が良く理解できない。
なぜ名古屋の荘園図がここにあるのか?
地頭請を寄進するということがどういうことなのか?
この図が何を意味するのか?

近 世

諸桑の銭甕(ぜにがめ)



「明治28年に町内の大字諸桑前野久兵衛氏のかっての畑地で土を取る作業中、古銭の入った2個の瓶と1個の壷が出土しました。
大瓶 高さ53cm、口径37cm、底径16cm、胴径60cm
中瓶 高さ48.5cm、口径21.5cm、底径15cm、胴径48.5cm
小壷 高さ34.5m、口径13.5cm、底径12cm、胴径24.3cm
古銭は宋銭が主で五朱銭などを含み、重さ319キログラムでした。」

319キログラムといえば半端な額ではないと思うのですが、なにか大変なドラマがあったのでしょう。

津田正生(つだまさなり)



▲津田正生 尾張の文人なのだそうです。

私はこの方のことを全く知りませんでしたが、いつものように博物館でお会いしたことを一期一会ととらえ、じっくり調べてみました。

江戸時代後期の地誌家
津田義宗・六合庵・六合亭とも称した。
安永5年(1776)根高の酒造家、豪農の家に生れ、通称「神助」といいました。
幼児より好学の念があつく、名古屋藩の恩田仲任や鈴木朖(あきら、1764〜1837)に学び、金に糸目をつけず、和漢の書を求めて勉学に励みました。
地誌、随筆、戯作など多分野にわたる研究をして、多くの著作を残しました。
天保4年58歳にして槍ヶ岳の頂(いただき)に立ったんだそうです。ちなみに槍ヶ岳開山の播隆上人に遅れること数年の踏破です。いったい何の目的で槍ヶ岳に上ったんでしょうか。
彼の著書「尾張國地名考」12巻は刻苦20年心血を注いで著述しました。旧家を訪問し、多くの文献を読み、地元の調査をしながら記述しました。
今でも地名の由来を述べた書にはかならずといっていいほど引用されています。
研究のスタイルは机上の論を嫌い、フィールドワークに徹した人でした。
根高の津島街道沿いに六合庵を建て、旅人に湯茶をふるまうかたわら、人々の話を聞いたといいます。
各地を見分するときに羽織袴を着ていると村人が敬遠するので、知多漫才を学び、その装束は箱に入れて下僕に持たせて、普段はボロをまとい、村に入ると装束を着て漫才を演じました。古老をつかまえては、地理を研究したということです。
「尾張國地名考」を尾張の殿様に献上して、大変賞賛されたということです。
嘉永五年(1852)77歳で没しました。

著書名
●尾張國地名考
 村名の語源、由来などが解説されており、それに関連して寺社、旧家、名所、名産なども合わせて紹介されています。

●尾張国神社考
 神社の由来は権威を得るため結構捏造されることが多いので、実証的に解説してある。  『塩尻』の著者として名高い天野信景(さだかげ、1661〜1733、津田正生の100年前の人)の説を再考したもので、原題は「尾張神名帳集説本之訂考」。
 信景の業績を高く評価しながらも「初考の習ひ、疎漏過失(てもれあやまち)がなきにしもあらず」として、その改訂を思い立ったという。

因みに『塩尻』を研究している人とこのHPを通じて知り合いになりましたが、調べていて知った名前にあたるとちょっとうれしいものですね。

●眼前教近道(まのあたりおしえのちかみち)


「熨斗」「田地」「工匠」「酒林」「化粧」「着物」「元服」「婚礼」「葬祭」「双子」「皇語」「陰陽」「よみ本」の一三項毎に、語意・語源・異名や関連する故事・心得などを記した

●尾本国集説
●古典地名辮(べん)
●尾張方言考
●日本語正字通
●日本郡国名解
●臼挽歌注解
●古学百人一首
●周易周文
●煙草心得草
●婚姻男子訓(良姻心得艸)
●槍ヶ岳日記



▲六合庵

津島街道沿いにあった茶室。 展示には六合庵の写真がありますが、どうも現在はなくなっているようです。

勝幡城(しょばたじょう)
 

▲中島郡勝幡村古城絵図

「現在の佐織町勝幡、平和町六輪にまたがる地域が城跡で「中島郡勝幡村古城絵図」によると、本丸は方形で東西29間、南北43間で、巾3間の土塁がめぐり、その外側を二重堀で囲み、三宅川が外堀の役目をはたしています。出入口は東西に一箇所ずつ描かれています。
弘化4年の「勝幡村絵図」に福応寺付近の字を馬出しと記していることから東に大手門、西に搦め手門があったと考えられます。
築城者は清洲織田家の奉行であった織田信定で、永正年中(1504〜1521)の築城と伝え、織田信秀、信長もこの城で生まれました。」
現在その場所は住宅地の中で、石碑以外なにものこされていません。

諸桑(もろくわ)の古船

この博物館のメイン展示。江戸時代に古墳時代の船が掘り出されたというのです。



▲以下のような意味のことが尾張名所図会に絵とともに記載されています。
諸桑村で古い船を掘り当てた時の図
天保9年4月 諸桑村で川ざらえをした際に、満成寺という寺の裏で古木のような物を掘り当てました。
人々が不思議なことだと思って、更に深く掘っていくと非常に大きな船でした。
この船は古い時代のものでクスノキ製の丸木舟でしたが、三ヶ所を継いで、カンヌキを用いて一つにしていました。
また船内より、大網の錘、古い瓦、古銭、その他珍しいものがたくさん出てきました。
その船の周辺を掘ってみると、木製の仏像の半分朽ちたものが出てきました。
諸桑村は式内諸桑の神社もあり1000年の歴史があるといわれた地域ですが、それ以前は海であったので、沈んだ船だったのかもしれません。
また隣村の古川村はもと川筋の地だったことから、埋め立てて今の村としたので、そのあたりは元の川筋であり、そこにあった川船がいつの日にか埋もれたのかもしれません。








 

すっかり乾燥してしまっているので、バラバラです。絵図を見ると掘り出した当時は巨大で船の形になっていたようです。



天保9年(1838)に諸桑満成寺裏より出土した古船

複材くり船といわれるタイプのものです。 時代は古墳時代(三〜四世紀)。三〜四本の原木を縦に継いだ丸木舟で 太平洋岸の各地で出土例があります。材料には楠(くすのき)が用いられました。



複材くり船と一緒に掘り出された「土錘」:漁具のおもりです。
漁船だったようですね。

江戸時代で発掘の技術が完成していないので、記録や保存が不十分だったのが惜しまれますが、いやはやすごいものが出てくるものですね。
これからもこの地域ではこのようなものがどんどん出てくるのでしょう。

鼬(いたち)川の「くり船」



▲大阪 鼬(いたち)川でも くり船が発掘されました。
 5〜8世紀のものと推定される、刳船部材を接合した大型の船でした。
 残念ながら戦災でほとんどが焼失してしまいました。

富山県 鞍川遺跡の丸木船

平成15年に富山県氷見市の鞍川バイパス建設工事で井戸枠に丸木船を転用したものが発見されました。
丸木船の船首と船尾を切り落としたものを向かい合わせに組んで筒状にしたものでした。
集落の共同の井戸場のような役割を持っていたようです。

丸木船は一艘の船を切断したものです。
かなりの部分が失われています。
丸底で狭く深い方が船首部、平底で広く浅いほうが船尾部と推測されます。
船の大きさは7.5〜8mと推測されます。 材質はスギで、船首部のカーブはスギの根曲がりの部分を利用して削りだされています。

丸木船には製作されたときの工具の跡や、使用の際についた磨耗痕、割れた船体をカスガイでつなぎ合わせて補修した痕跡などが残っていました。
また船底の外側にはフナクイムシによる食害痕が多数見られ、開いた穴を埋木でふさいで補修した跡もありました。
これから、この船が海水で長期間使用されたことを物語っています。
丸木船は耐用年数が長く100年近くしようされるものもあります。
この丸木船は13世紀前半に井戸枠に転用されるまで 補修を加えながら長期間使われてきたと考えられ、
最初に作られたのは12世紀代平安時代から鎌倉時代にさかのぼる可能性があります。

 

▲丸木船船首部
 手前が船首側。



▲丸木船模式図

民家

住まい




▲民家の間取り
「佐屋町内の伝統定名農家の形式は「四ツ建て」と呼ばれる合掌造りで、この形式は尾張地方に広く見られるものです。
母屋はニワ(土間)と居間からなり、古くは居間が土座(地面に直接籾や藁を敷いた居室)でした。
居間は一室型(一間取り)から分化して、現在ではダイドコロ、オカッテ(キタデ)、ザシキ、ナンドの四室型(四間取り)が一般的となっています。
屋敷内には便所、井戸、タマヤ(はきだめ)、コウエ、離れなどがありました。」

「四ツ建て」という様式はおそらく尾張地方に分布している「鳥居建て」という大黒柱を持たない様式のはずなのですが、間取り図には大黒柱があって・・・と ちょっとよくわかりません。

民家の様式の分布に興味を持たれた方はこちらをごらんください。



▲籠風呂

「湯量を少なくして上に籠をのせる方式が多かった。
風呂場の場所はオトグチの脇にあり、それは尾張、三河地方の標準的な位置です。」

上にかぶる籠は風呂籠と呼ばれていました。現在のスチーム風呂ですね。
この籠風呂は木曽川デルタ周辺でしかみることができない(と思う)。
私はその理由は木曽川デルタは近くに山が無いため、たきぎが高価で風呂の湯を十分に沸かすことができなかった。そこで湯量を少なくし、保温のために、籠をかぶった と考えていますがいかがでしょうか?

民具

食べる
「米は農家の食生活において主食物でありましたが、年貢を支払ったり、生活費を得るために売らなければならなかったので、倹約すべきものとされていました。
そのため、米の仲に大麦や野菜類を混ぜて炊き、かさ増しにしていました。
副食物は家でとれた野菜や川魚など自給自足でした。食事はそれぞれ所有者が決まっている箱膳でとりました。
祭りや祝ごとには、ボタモチ、まんじゅう、うどん、すし、赤飯などを作って食べました。」

 

▲押し寿司を作るための道具です。この地方でも押し寿司は一般的だったようで、川魚を発酵させた古い様式の寿司から発展したのかもしれません。右は重箱。

着る
「仕事着(トンモイキ)は紺の筒袖襦袢、股引(ももひき)(男)、腰巻(女)、ハバキ、草履ばきでした。 男は頭に手拭鉢巻(寒い時は頬被り)女は菅笠をかぶりました。
ズボンやモンペをはくようになったのは太平洋戦争後のことです。
木綿の新しい長着物をヨソイキ(外出着)といい、古くなったものを普段着にしました。
手織り(内織り)の絹もので紋のないものをヨソイキといい、祭り、法事などには紋付を、婚礼などには羽織袴を着用しました。」

 

▲左:羽織袴と仕事着 右:婚礼時の「つのかくし」

よく博物館で羽織袴を展示しており、羽織袴=江戸時代の武士の公式衣類 と思っていました。 こうして見ると 農民の婚礼などの最上級礼服 というのもあったんですね。
高級な衣料は残りやすいのですが、仕事着は意外と残っていないのでしょうね。

つどう −社会−
「ムラは多くの地縁・血縁集団を組み込み、セコ・キリ、クミ、トナリなどを組み分けしていました。 ムラの代表格(統括責任者)は江戸時代には庄屋といい、その後は 戸長→村長→区長→駐在員といいました。
かってはカシラブンと呼ばれる大地主が中心になってムラ自治がきりもりされ、盆と暮れにはムラ費の決算が行われました。これをゲヨウワリ(下用割り)と言いました。
年番(祭りなどの行事の世話方)や水番(用水の管理者)は重要な役であったし、若い衆組、子供組もムラ行事に参与していました。」

 

▲神輿。佐織町には山車はないようです。
▲佐織にも「飾り馬」の祭礼があったようです。

あそぶ −娯楽−
「祭りや祝いごとの折には青年(若い衆)が中心となって、芝居・手踊り・嫁獅子・浪花節を興行したり、角力(すもう)・闘鶏を楽しみました。
近郷一円が集い、凧上げ大会をすることもありました。
社寺の境内、森、川、用水、池、空地などは子供たちの楽しい遊び場になりました。
子供の遊びには、凧上げ、こま廻し、竹馬乗り、杉鉄砲、かくれんぼ、とんぼ獲り、魚釣り、タンポポやスモトリ草の切り合い、笹や葦舟流し、羽根突き、テンマリ、縄飛び、綾取り、オテンチョ(お手玉)、イラミコ(おはじき)などがありました。」



▲この地域に多く見られるタイプの凧

そめる・おる
佐織縞
「佐織縞は江戸時代の中期に農家で織り始められたものでしょう。 その織物には縞物と無地とがあり、品質はやや粗雑であるが、染が堅牢でたびたびの洗濯にも耐えるので農村で愛用されました。縞は白縞か茶縞が普通であったが無地のものは足袋、股引、衣類の裏地として用いられました。
明治維新前後までは、佐織、中島、津島を中心に盛んに織りだされ、遠くは東北地方の農漁村にまで販路を持っていました。」

佐織町の名前の由来ともなっている「佐織縞」は江戸末期から生産されていました。
農家の副業として織られてきました。

 

▲養蚕の道具。佐織縞は木綿ですが、養蚕をしなかった農家は無かったのではないでしょうか。

 

「かせくり」は糸を巻きかえるための道具ですが、新しいものとの差がおもしろいですね。



▲綿を染める藍染めは佐織縞には必須です。
 この藍染の品質が一時落ちたことで三河の木綿のシェアを拡大させました。



▲佐織縞は多くは農家の副業で生産されました。
 小規模な工場で専業的なマニュファクチュアリングが行われたようです。



▲木綿の原料となる木綿の実。

つくる −職人−
「鍛冶屋はおもに農具の製作とその修理を行い、街道沿いやその近くにあって、佐織町内5、6ヶ所に散在し、近在の農家を得意先にしていることがわかります。
屋根葺師は新田地区に多く、近くの農夫が組を作り、農閑期の仕事にしていた。瓦葺師は材料をおろす湊の小津、勝幡に関係が深かった。大工職は親方に親方に弟子入りをする関係上、特定の地区に集中することはなく、昨今では土木と建築を統合した業種に変わってきています。酒造所は近くに川のある根高、草平新田、鷹場新田で営まれています。」



▲鍛冶屋のふいご。
佐織町には「カナクソ」という地名も残されており、製鉄の工房を連想させる地名が残されています。農業生産をベースにした豊かな生活が行われていたのでしょう。

うおとり −魚獲−
「佐織町内では日光川、領内川、三宅川、目比川をはじめ、そのから取水(とりみず)する用水路はすべて川魚などの宝庫でありました。こい、ふな、もろこ、なまず、うなぎ、どじょう、えび、しじみなどがとれ、漁の方法もいろいろありました。これらは農村地帯の食生活において、ゆいいつの蛋白源となっていました。
鷹場皮(旧領内川)、諸桑、南河田、北河田の用水路、勝幡の天王池や用水路、古瀬、千引の川や用水路では運上金(漁業の権利金)をムラに納めて、うおとりを副業にする人もいました。」

 



▲非常に分かりやすい表。雑然となりがちが漁具の展示も系統的に工夫されています。
小魚を獲るためのガラス製の罠はここでは「チャワンブセ」と呼ばれています。
この名前の地域差を見るだけでもけっこうおもしろい。

たがやす −農業−
「佐織町は尾張平野中部の氾濫源と三角州が接するあたりに位置し、河川の氾濫によって形成された自然堤防は宅地や畑として、その周りの広大な低い湿地は水田として利用されてきました。
水田の裏作ではクネタ(田面を稲刈り後、一定期間で畝上げした畑)を作って、麦や菜種などを作り、常畑やシバマタ(他の仲の孤立した畑)では麦、野菜のほか、綿や藍も盛んに作られました。
昭和34年の伊勢湾台風を境に、耕地の整理が進み、機械力を導入して、各種の農産物生産や畜産などがあらたに始まり、農家の生活も一変するに至りました。」

 

木曽川デルタの中にある佐織町の田は湿田だったのでしょう。そのような場所には田船は必須です。
「マンガ」と呼ばれる鍬(くわ)も刃の部分が長く湿田の深さを表現しています。

 

▲土臼と一升枡



▲センバコキ

あるく・はこぶ・あきない −交通・運搬・交易−
「佐織町を通る主要街道には上街道といった津島街道、下街道といった佐屋街道がありました。ほかにも清洲街道、高須街道、赤目街道、巡見街道、七街道、三本柿街道、が地域内を縦横に走り、江戸時代には人の往来や物資の運搬が盛んでした。
日光川は江戸時代後期かrあ舟運に利用されるようになりました。
小津や勝幡の湊は商業地として栄え、農産物などが積み出されました。
領内川、三宅川、新堀川には「せどり舟(小船)」が物資をさらに上流へ運び、船の行き来が盛んでした。 道や川は人や物資の移動に役立ち、文化の交流にも重要な役割を果たしていました。」

 

▲ちょっと不思議な背負子。何を運ぶためのものなんでしょう。

 

映画でヨーロッパの金持ちが船旅をするときにこのような大きなトランクを使っていましたね。
トランクに貼られた古いホテルのステッカーもすごい。
このトランクも船賃もずいぶん高いものだったでしょうね。
いったいどのような人がこれを持っていたんでしょうか。



▲明治後期〜昭和初期の小津、勝幡湊
日光川と領家川の合流する小津、勝幡地域は川湊として栄えていました。

「この地域の近代化の動きは明治4年(1871)4月戸籍法の制定、8月廃藩置県の詔が出された頃から始まります。翌年5月には名古屋県が愛知県と改められます。さらに戸籍法により庄屋、名主、年寄が廃されて、戸長(のちの区長)がおかれることとなりました。
またこの9月に学制が制定され、村々に文盲のものをなくそうとしました。徴兵制もしかれました。
明治22年大日本帝国憲法が発布されると共に、地方では町村合併が推し進められました。
これに伴い、同年10月に諸古村、藤浪村、勝幡村、草場村、川淵村ができあがりました。
明治39年7月にこの4件が合併して佐織村となりました。
ついで昭和14年(1939)11月、町制施行により佐織町となりました。」

いのる −信仰−
「旱魃と水害に悩まされてきた尾張平野の農村では、いつも安定した生活が保障されているわけではありませんでした。
佐織町でもお鍬(くわ)祭り、農上り、天王祭り、雨乞い、虫送りなど農作物の方策を祈願する行事が多くあります。
御講組、女人講、などとムラ内にいくつかの講集団がある一方、御獄講、秋葉講、熱田講などではムラを超えた広域講集団の団参もありました。
神社や寺院とのかかわり(氏子、檀家)もムラ内外にまたがっています。
大社名刹参詣、お伊勢参り、谷汲参りも行われました。これらの多くは病気平癒、家内安全、五穀豊穣の切なる祈りでした。」

えんじる −芸能−
「佐織町では祭りや祝い事があると神楽太鼓や嫁獅子が奉納されました。
神楽太鼓は大太鼓、小太鼓、笛によって演奏され、これには神楽と道行きの別がありました。
この地方の嫁獅子は諸桑の龍助(芸名、市川柳助)が近世末に三河から習った嫁獅子に工夫をこらし、各地に伝えたものと言われます。
明治34年に数多くの門弟によって、佐織街道のかたわらに顕彰碑が建立されました。
神楽太鼓や嫁獅子はかつては若い衆によって奉納されていました。」



▲市川柳助の碑(諸桑)…嫁獅子などの普及に努めた。

嫁獅子とは
現在正月のテレビ番組などで見られる獅子舞をこの地方では「男獅子」とよび、もうひとつ、獅子舞の獅子が、女形(おやま)となって狂言を演じる獅子芝居または嫁獅子ともいいます。
これは愛知・岐阜・静岡・長野・山梨・千葉など広範囲に分布していることから、三河において祭礼時に農民が氏神へ奉納するため、獅子頭をかぶって演じた歌舞伎芝居すなわち祈祷獅子舞の余興として伝えたものが中山道を通って伝播したもののようです。
歌舞伎は、江戸時代のはじめのころ(1629)「風紀をみだす」として女性が舞うことを禁止されてしまいました。
そのためすべて男性が舞うようになり、女形芸(おやま)が発達しました。
それを手本に嫁獅子は歌舞伎の女形(おやま)を真似、女性の着物を着て女性のような立ち振る舞いをするようになったようです。
私はこの嫁獅子をみたことはありませんが、獅子の顔で女性の所作と衣装のアンバランスは現代の「かぶりもの」を連想させます。

参考資料
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H334L100.HTM
http://www.mytown-nagoya.com/booklist/shosai/kyodoshi2/owarikokuchimei.html
http://library.u-gakugei.ac.jp/lbhome/mochi/mochi.html
http://www.east-mikawa.jp/communication/th13/page03a.html
http://www10.plala.or.jp/ushikase/index.html


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