木曽川文庫

運営母体 国土交通省 地方整備局
住 所 〒496-0947 愛知県愛西市立田町福原
電話番号TEL: 0567-24-6233
FAX: 0567-24-5166
休館日毎週月曜日(祝日の場合は、翌日休館) ・年末年始
開館時間8:30〜16:30
入館料無料
備 考
アクセス東名阪自動車道・長島ICから5〜10分(約3km)
国道1号・尾張大橋から10分(約5km)
名神高速道路・羽島ICから30分(約20km)
名古屋・岐阜・四日市から自動車で約1時間
HP http://www.kisogawa-bunko.cbr.mlit.go.jp/ (公式HP)

展示の内容

概 略 宝暦の治水に関する展示。
デ・レーゲの木曽三川の治水に関する展示。
それらの書籍などのまとまった資料の公開。
愛知県ではここでしか見られない展示宝暦の治水とは江戸時代に行われた木曽三川の洪水を抑えるための土木工事です。
幕府が薩摩藩に大規模な治水工事を命じ、それを受けた薩摩藩は大変な困難と犠牲の上それを成し遂げました。
責任者平田靱負は犠牲に対する責任を取って切腹。
そしてデ・レーケの木曽三川分離工事の展示。
明治時代に行われた木曾川、長良川、揖斐川の完全分離工事など大規模な土木工事。
宝暦治水の工区は主に3つあり、1ケ所(千本松原)は今でも見ることができます。
逆川の堤は最近発掘され、位置が特定できたとのこと。
ひとこと一般向けの展示施設というより研究者の為の資料を集めた施設という印象。
ちょっと入りにくい印象を持つが、宝暦の治水を調べるならここがよいでしょう。。
すぐ隣では稼働中の閘門式運河を見ることができます。
長良川と木曾川を結んでいる水門付きの水路ですが、これも珍しいものです。
備 考


地 図

 地図は 公式HP より

木曽川の堤防の上の道と長良川の堤防の道が合流するところにあります。

正確な場所は ここ です。

外 観



自然豊かな周辺の景観に溶け込んだなかなか素敵な建物です。ちょっと入りづらい雰囲気はあるのですが。

展示物

ここの展示は「宝暦の治水」と「デ・レーケによる三川分離工事」「平頭閘門」の3つに絞られています。

書物、資料の保存公開がメインなのでこれらに関する調査ならここは外せません。

洪水に悩まされた木曽川デルタ地帯

木曽、長良、揖斐川の三川が伊勢湾にそそぐこの地域は、流路が網の目のようになって、新田開発で人が入ってくるようになると、洪水に苦しめられるようになります。
肥沃な土地だったので、人々はあきらめることはなく、大きな資本が投下されました。
デルタ地方における洪水はあたりまえな自然現象ですが、更に次のような原因が重なっています。

尾張側に「御囲い堤」が築かれたこと

おかこいてい
天正14年(1586)の洪水によってできた新木曽川の左岸すなわち尾張側に築かれた犬山から弥冨にいたる延長12里(約47km)に五〜八間の高さで御囲堤を造ったのがこの大堤防です。慶長13年に着工しわずか2ヵ年の間にほぼ完成しました。
徳川家康の家臣であった伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)の指揮により完成したことから、「伊奈備前堤」とも「備前堤」とも呼ばれています。
西国への備えとなる「とりで」の役目も果たす目的も持っていたといわれます。
・美濃側の堤防が3尺(約1m)低く
・尾張藩が修理を終わるまで美濃側は工事を遠慮せよ
というルールがありました。
名古屋側はこれにより洪水は激減したのですが、岐阜県側はたまったものではありません。
それまで洪水がなかった地域まで被害が出るようになりました。

 

▲現在でも通用する立派な堤防。

もともと地形が東高、西低であったこと



▲木曽、長良、揖斐は水位が微妙に異なり数メートルの差がありました。
木曽川から長良川、そして揖斐川に水が流れ込むため、揖斐川が氾濫しやすかったのです。

木曽川の出水時差が大きいこと

濃尾平野では雨域が西から東へ移動することや、木曽、長良、揖斐の三川の流域の大きさの違いから、洪水が下流域に到達するのは 揖斐、長良、木曽川の順で、このことは古くから「四刻、八刻、十二刻」と言われ広く認識されていました。

輪中の発達による河床上昇

堤防を築いて河川を固定化させるということは上流からの泥を堤防内に閉じ込めることとなり河床が上昇し、天井川になります。今でもそうですが木曽川デルタの多くの地域は川の水位よりも低い地域が多くなっています。

宝暦の治水

これを「ほうれきのちすい」と読んでいるところが多いのですが、正確には「ほうりゃくのちすい」です。

おおよそ以下のようなストーリーです。

・宝暦3年12月25日に幕府は江戸の島津家に対し木曽三川工事の御手伝い普請を命じました。
(とんでもないクリスマスプレゼントだったんですね。)

・その手紙は大名飛脚により翌年初に薩摩の島津家に到着します。

・この文章は非常に短い命令だったのですが、続いて宝暦4年1月に詳細の計画、命令が届きました。

・島津家では家臣達によるいろいろな議論があったのですが家老平田靱負(ひらたゆきえ)による鶴の一声の進言でその命令を受けることが決まりました。
曰く「幕命がいかに過酷であっても、これ天子の命令と解し、しかも大君の国土である濃・勢・尾三州に住む住民を洪水から守り、荒地を美田化することを思えば逡巡すべきでない・・・」



▲城内で命令について話し合う薩摩藩

・しかし既に島津家は66万両の借金があり、財政的には破綻が予想された。

・宝暦4年正月29日に平田は鹿児島を出発。
途中大阪で商人より借金7万両を受けました。
それををはじめに、その後何回かの追加の借金で22万300両におよびます。
これにより、大阪で先代以来の借金を加えて、88万両の大借金を背負ってしまいます。
一方国元では、藩債などによる調達が行われ応募に着手しました。応募資金のない土民には献納金を命じました。

・その後いくつかのグループに分かれてあるいは江戸から現地入りが始まりました。
(決断から実行まではわずか半月程度しかたっていませんので、大変早い行動ですね)
薩摩藩から出張した人数は前後947人に達しました。その他、書役、医師などの随員、地元で雇い入れた人々を加算すると総計2000人に及びました。



▲美濃へ出発する薩摩の人々

・2月27日に鍬入れ式があり、工事が本格的に始まった。

・工区は当初は5つあったが、1つは中止され、4つになりました。

・工事が始まってみると 幕府の役人の要求は過酷で、衝突することもしばしばでした。

・薩摩藩士は耐えて工事をしたが、地元の庄屋の力も強く、次々と要求は高まっていきました。

・4月14日に幕府方との衝突で2名が切腹し、初めての犠牲者が出ました。
 (幕府方でも切腹者はいたのでなにかエピソードがあったのでしょうね)

・当初は町人請負は禁止されていたが、5月になり冬の工事用の石集めが町人請負により始まりました。
 (これで素人の工事からプロ集団の工事となりました)

・5月22日に春の工事の終わり。
 (全体でも短い期間だったのですが、農繁期は作業が行われないという工事だったんですね)

・6月に大洪水が発生し、資材が流されたり、工事途中の現場が崩れたりししました。
 薩摩方は普及工事を命じられました

・7月に藩主重年が道を曲げて工事現場を訪れました。幕府の横暴の話や苦労話の報告を受け、それに対するねぎらいの言葉に藩士たちは感無量。勇気百倍。

・7月22日に再び大洪水。薩摩方は普及工事を命じられました

・過酷な要求に切腹者が続出38人にも及びました。

・8月25日薩摩方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていたので、病死者が続出しました。

・9月24日秋の工事が始まり 油島堤防の工事が始まりました。
 また、12月には大榑川洗堰の工事も始まりました。



▲薩摩義士による工事

・3月末には難工事だった大榑川洗堰と油島堤防が完成しました。

・油島堤防には完成後に薩摩から取り寄せた日向松が植えられました。



▲大目付牧野織部以下10名による普請検分

・5月末の幕府の検分では「すばらしい出来」との高い評価でした。
大変な工事だったのですが、その期間はわずか1年3ヶ月。
工事費は総計40万両(160億円〜320億円に相当)に達しました。
これらの借金はその後20年、黒砂糖、陶磁器などの中国との貿易で得た利益で返済しました。

・5月24日国元へ普請の完成を報告し、翌朝未明、責任者平田靱負は大牧の工事役所で多くの犠牲を出したこと、膨大な借金をつくった責任をとって切腹しました。
辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわずらう 美濃の大牧」
しかし死因は「持病により絶命」とされました。これは当時の掟が「割腹はお家断に処す」と定められていたので止む無く病死と記録されたものとされています。

51名の割腹者、33名の病死者を出し、工事は終わりました。今でも残る千本松原に薩摩義士の恩を忘れるものはありませんでした。

 

▲使った資材と工事の主な道具

余 談
どのストーリーでも薩摩義士の努力をたたえ「薩摩藩士=困難な仕事を耐えて実行し完遂させた【善】、幕府=困難な仕事を押し付け、工事でも意地悪をする【悪】 地元民=これを機会に自分たちの利益をむさぼる【悪】」という構図です。物語としては日本的で分かりやすいし、そのようなことも実際にあったのかもしれませんが、そうとも言い切れない話も残されています。

幕府の工事に対する覚悟も尋常のものではなく、幕府の諸役人の連署血判の誓詞規起請文が残されています。
1.公儀を重んじ、いささかの後ろ暗いこともせず、仕事第一として、一生懸命精を出して仕事に従事する。また多良家の主君はもとより全ての上司に対して、分をわきまえ不遜のないおと専一に心がける。
2.仕事のことなど全て秘密を要することは、親子、兄弟であっても一切漏らしてはならない。
3.工事に係わることは全て心に残さず相談する。万一宜しくないことがあれば隠さずありのままを申しあげる。
4.御手伝い方ならびに、普請にたづさわっている人々、村の人々からは、金銀、米、衣類、諸道具、酒肴にいたるまで、一切受け取らず、また借りることもしない
5.幕府の役人であるということをかさにきて、奢ったようなことは絶対にしない。庄屋、百姓、また人足に対してもよくないことは持ち掛けない。尚、自分はもちろん部下にいたるまで、無作法なことは一切しない。
以上の諸箇条のうち一つでも違反すれば、神罰によって詞を蒙ること梵天帝釈、四大天王をはじめ日本全国の大小神々に誓う。

また村々に対する幕府からの指示として
工事材料費、諸役労務費ならびに人足の賃金について、村方が法外な代金を請求しないように指示を与えました。

宝暦治水の偉業を顕彰した西田喜兵衛芝寿
揖斐川下流沿川の多度は四之手の工区に属し、庄屋であった三代目西田喜兵衛芝寿は平田靱負の良き相談相手として助言をしたと伝えられています。
また自刃した藩士たちの言動や其の顛末を丹念に書きとめ、朝夕多度神社に参拝して藩士たちの加護を祈願することが日課の一つでした。西田喜兵衛芝寿は「薩摩藩の恩を忘れるべからず」と御手伝普請の諸書類を家宝として秘蔵しました。
明治9年に勃発した伊勢暴動によって、西田家も消失し、家宝の諸書類も失いました。
十代目西田喜兵衛芝寿は、この不測の事態を償うため、また先祖の意思を後世に伝えるため、宝暦治水誌の編纂や記念碑建設など5項目に渡る顕彰を決意し、身を粉にして奔走しました。やがてその苦労は実り、明治33年に宝暦治水記念碑が建設され、宝暦治水誌の編纂も完成しました。

もっと詳しく知りたい人は
物語的には杉本苑子の『孤愁の岸』で本になっています。

HPでも詳細な記述があるものがあります。これらのHPがお勧めです。
http://www.mirai.ne.jp/~tuyoshi/
http://www.mirai.ne.jp/~wakita/
http://www.omp-serve.co.jp/~osclub/manga/

何故薩摩藩に困難な仕事を割り当てたのか?
・関が原以来、幕府は薩摩島津家の勇猛さを恐れていた。
・吉宗は島津家を厚遇していたが、吉宗の死後その後ろ盾を失い、それまで冷遇されていた尾張藩が反感を持ったから
だと言われています。

工 事





一ノ手 愛知県祖父江町・神明津輪中〜羽島市桑原町・小薮輪中迄 
 猿尾と呼ばれる突堤のような堤を作るのが主な工事でした。そしてそれは「石田の猿尾」として今に残されています。
水工事のなりゆきを見守っていた庄屋たちは、工事に余裕があ るとみると、村々が連合して、代官や、水奉行と交渉し、自分たちの田んぼの仕事を工 事にくみ入れさせました。現在の羽島市桑原町小薮(田畑掘り・約64ヘクタール)が それです。請卒人夫350名

二ノ手
愛知県海部郡弥富町・森津輪中〜三重県桑名郡木曽岬町・田代輪中
筏川の上流部分を巾90mに切り広げ、河口付近までの長さ1・5kmにわたって、川ざらえ(浚渫)をすることが主な工事でした。請卒人夫300名

三ノ手の大榑川工事(詳細後述)
安八郡墨俣輪中〜海津町・本阿弥新田輪中迄。請卒人夫500名
四ノ手
海津町・金廻輪中〜桑名市地蔵口迄
木曽川と揖斐川の川を油島(あぶらじま)付近で二つに分けるのがメインの工事でした。請卒人夫600名

四ノ手の木曽、揖斐二川の締切堤工事
三ノ手の大榑川工事 が特に難工事でした。

宝暦の治水の設計者は誰?

宝暦の治水を土木設計したのは薩摩藩ではなく、幕府です。
その設計に基づき費用負担と単純作業をしたのが薩摩藩という構図です。
設計をしたのは幕府の役人「紀州流」の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)です。
御囲堤を設計した伊奈備前守忠次の土木事業の方式は戦国時代から発展してきた「伊奈流」または「関東流」と呼ばれています。
関東を豊かな穀倉地帯にしたのはこの流派の功績と言ってもいいでしょう。
この技術は、その子忠治など伊奈氏一族に受け継がれ約200年間をかけて、現在の関東平野を形作った と言われています。
その設計コンセプトは、毎年のように起こる程度の出水に対しては、堤防によりこれを防ぎ、大洪水はむしろ堤防を越水させ、遊水池により被害を少なく抑えることにありました。この方式は、その後の幕府の基本となりました。
それに対し、享保の改革時代に幕府より招かれた井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)は 連続した強固な堤防により、増水時でも堤防外へ洪水を漏らさない構造とするいわば現代の土木工事の設計に近いコンセプトです。
彼が紀州藩(30年あまり勤めた)より招かれたので「紀州流」といわれます。
彼は8代将軍吉宗の時代に見沼の干拓事業を進めたことでも有名です。
彼の設計が成果を上げてきたことからその後の政府の土木設計の主流となってゆきました。

享保20年(1735)8月21日、美濃群代を命ぜられた為永は、笠松陣屋に着任。以後2年間美濃郡代を兼務しますが、為永が美濃国に滞在したのはわずか5か月。その短い滞在期間の中で、為永は木曽三川をはじめ各河川を精力的に歩きまわり、綿密な三川分流計画を立案し、江戸幕府に建言しています。
1738年に死去しているので三川分流計画は彼の晩年82歳ごろの設計です。
彼の没後18年後に宝暦の治水は始まっています。
したがって彼本人の設計ではなく、その流派のグループによる設計と考えてもよいのかもしれません。

工事は全て幕府の指導のもとに行われました。
その総指揮は勘定奉行一色周防守が命じられました。
直接の工事設計、工法の指図、監督は、美濃の国に在任する水行奉行の高木三家をはじめ、笠松郡代の青木次郎九朗やその部下があたり、また江戸からも幕府の勘定方および目付など多数を派遣してこれに参加させました。
幕府の工事(普請)は次の4つのパターンがありますが、宝暦の治水は「お手伝い普請」です。

・公儀普請
幕府が自らの費用負担と責任において実施するもの。
・御手伝い普請
幕府の命令と要請を受けて大名が、自領とは無関係の地域で工事費用の負担をして実施する工事
・国役普請
幕府が自らの権限と責任において実施する治水工事に大名以下の武士と百姓、町人を動員し、費用負担を強制するもの。
・自普請
大名自普請は、一定規模の領地を有した大藩が、自らの負担と判断で実施する治水工事を指す。
また百姓自普請は彼らの居住する村内における小規模の工事に領主の資金支出、資材供与も得られない場合、村内百姓の自弁による資金と労力をもってあたるもの。

大榑川洗堰



「大榑川(おおぐれがわ)はもともと長良川の水行を良くするために作った人工川でした。 元和元年(1616)の長良川洪水によって堤防が切れ、濁流が輪中に入りました。
高須輪中の人々は長良川の水勢を緩和するため、勝賀付近より今尾に通じる新川を掘る事を願い出て、自普請により元和5年12月完成しました。これが大榑川です。
これに対し、揖斐川筋の各輪中村々では大榑川を通じて長良川の水の一部が流入するため、前にも増して洪水の被害が大きくなりました。開削130年した寛延年間には長良川の水は7割くらいが大榑川に流れていました。
福束輪中および、多芸輪中の住民は、大榑川流頭部に流入を制限するため堰を設けることを笠松郡代、多良水奉行の両役所にたびたび出願しました。
この許可を得て、百姓自普請で食違常水堰を大榑川開削130年後の寛延4年(1751)に設けましたが、水害を根絶することはできず、その2年後、宝暦治水工事となるのです。

完全に締め切り廃川とすべきか、食違洗堰を締切洗堰とするか2つの案がありましたが、当時は尾張藩の方が強く、ここを締め切ると尾張側が危険になるというので許されず、宝暦5年1月締め切り洗堰にすることに決定しました。
この工事は長良川より揖斐川に注ぐ支流大榑川の加工長さ98間(176m)に石堰を盛り、各川の増水した水が他の川へ流れ落ちる水勢を石堰を乗り越すことによって緩慢にする工事で、この工事跡(岐阜県安八郡輪之内町大藪)に明治33年「大榑川洗堰碑」が建立されました。
宝暦治水工事最も難工事として伝えられた油島締切工事と並んで薩摩藩士を苦しめた大榑川の洗堰工事は一名「薩摩堤」と名づけられています。
洗堰の規模は長さ98間、幅5間の水叩き3段15間、全体堰幅23間でその前面を石の蛇籠で被覆しました。 宝暦5年3月28日に完成しました。
明治改修により明治32年締め切り築堤が完成するまで、約150年間長良川に対する制水の役目を果たしました。」

 

▲宝暦治水の2年前に完成した、寛延4年(1751)の食違常水堰。あまり効果はありませんでした。



▲大榑川洗堰碑 岐阜県安八郡輪之内町大藪
 現在の碑は昭和3年に福束(ふくづか)輪中水害予防組合が建設したものです。



▲大榑川洗堰付近の現状。
おそらくこのあたりに「薩摩堤」があったものと思われます。
今では何も残されておらず、静寂の世界です。
地元の人に聞いたら、戦後の成長期に川砂を大量に採取した際に、木の杭や材木、石などが大量に出てきてしばらく放置されていたとのこと。
おそらくそれが「薩摩堤」だったのでしょうが、なんと惜しいことを!

 

▲大榑川洗堰の復元模型。
輪之内町歴史民俗資料館には大榑川洗堰の復元模型が展示されています。
大榑川の川床は長良川の川床よりも2.5mも低かったので、激流は滝のように流れ落ちました。これにより輪中の堤防が破壊されたので、水の勢いを弱めようとしました。長良川の水位が通常よりも1.2m 高くなると水は堰を乗り越えて大榑川に流れ込みます。
その音は周囲にとどろき、地元の人は「雨が3日降り、洗堰の音がしたら、船を下ろして、飲料水を用意しろ」というような意味の唄を代々伝えたそうです。

薩摩堤は薩摩義士たちが築造中にたびたび洪水に遭遇し、工事半ばの堰堤を流出するという涙ぐましい苦悩を繰り返した末に竣工させた洗堰です。
この工事では8名の犠牲者が出て、その霊は江翁寺、心巌寺、円楽寺に葬られています。
こうした尊い義士の死と莫大な費用を支出した洗い堰でしたが、竣工間もない宝暦5年5月の出水で堤元付けの大藪外畑で決壊し、洗堰はその用を成さぬようになり、新たに洗堰を築造することになったのです。
宝暦7年5月、幕府の許可を得て、大榑川洗堰の自普請工事が始められました。
築造場所は薩摩堤の上流110間(約200m)余の地点に長さ78間(142m)の猿尾(突堤のような堤防)を築き、これに接続して長さ108間(約196m)、洗堰の堤幅25間(46m)、馬踏7.2間(約3m)、洗堰の高さ6尺(1.8m)に設計されました。この洗堰はその後数度の改修を行い、明治32年の大榑川締切堤完成の時まで制水の役割を果たしました。



▲宝暦5年、完成直後の薩摩堰は洪水により川岸が侵食され、役に立たなくなってしまいました。

 

▲その後の大榑川洗堰。 薩摩堤が決壊して3年後の宝暦8年に薩摩堰の上流に改めて洗堰が作られ、その後長い間改修を重ねながら使われました。 そして明治32年にデレーゲによる大榑川締切堤(赤で示された線)によってそれまでの洗い堰は川原に取り残されました。

▲この宝暦8年の洗堰は最近になって川原の地下2.2mの深さから発掘されています。薩摩堤ではないのが惜しい。

油島の締切堤



油島の締切堤は、寛延3年に着工以来、宝暦の治水工事を経、明和5年の御手伝い普請によって大綱が完成されました。

油島新田から松之木村までの総延長 1181間 2130m
油島より開口部まで 総延長 955間 1720m
 寛延3年(1750) 延享の御手伝い普請で 70間(130m)が完成
 宝暦5年(1755) 薩摩御手伝い普請で 550間(990m)が完成
          先に完成していた部分の修復も同時に行う
 明和5年(1768) 長州藩、小浜藩、岩国藩の御手伝い普請および公儀普請で 250間(450m)継ぎ足し
          内 176間(320m)を洗堰にする
 同年       85間(153m)を継ぎ足し築造
          内60間(110m)を食違い堰とする

開口部から松之木村までの総延長 226間 400m
 寛延3年(1750) 延享の御手伝い普請で 30間(54m)が完成
 宝暦5年(1755) 薩摩御手伝い普請で 200間(360m)が完成
          先に完成していた部分の修復も同時に行う
 明和5年(1768) 御手伝い普請で 改造
          内60間(110m)を食違い堰とする
          お互いの食違い堰60間の内、50間を通船のため川幅12間としました。

明治改修では、土堤の前に新堤を築き、旧土堤はその小段とし、千本松は旧観を残しました。





ところが



▲これは洪水の回数をカウントしたものです。
物語としては
『薩摩の義士が多大な犠牲と費用を費やして苦労して作った治水施設は、その後長い間地元の人を洪水から守り、村の人も感謝し尾張、美濃と薩摩を強く結びつけるきっかけになりました。』といけばたいへんビューティフルです。

しかし、事実はずっと冷酷で、薩摩義士の作った大榑川洗堰は1年もたたずに破壊されてしまい、その後長く役立った洗堰は200mも上流に地元が作った堤でした。
それどころか宝暦の治水工事のあとも一向に洪水は減少しませんでした。宝暦の治水はまったく無駄な工事だったわけです。本当に洪水が減ったのは明治のデレーゲの三川分流工事によってです。
グラフを見ると洪水が増えたのは幕府の御囲い堤が完成された以降で、それは毎50年間に40回前後の洪水で推移し、宝暦の治水後もそれは減少せず、明治の三川分流工事後は50年間で数回にまで急減していることがわかります。

デ・レーケ

日本各地の博物館を回っていると彼の名前をよく見ます。
九頭竜川、養老山地、立山、京都、筑後川。
彼の日本に残した業績は非常に多く、それは現在にもつながっています。
彼のことをちょっと調べてみました。



▲ヨハネス・デ・レーケ 31才頃

ヨハネス・デ・レーケ(Johannes De Rijke)(1842-1913)
デレーケは1842年オランダのゼーランド州コリンスプラートの海岸港湾建設業の息子として生まれました。
大学へは行かず、青年時代に家業に従事しながら土木工学について学びました。
その後、アムステルダムの運河組合に雇われ、スヘリングワーデのオランエ閘門の主任工事監督になりました。
その当時のオランダは不況で生活が苦しかったので上司に誘われて日本に来ることを決意したようです。



▲デ・レーケの生家付近

明治初期の日本に国土開発の指導のため、多数のお雇い外国人がやてきました。
これらのお雇い外国人で鉄道関係、工部省の電信局、灯台局、工部大学校はイギリス人、工作局はフランス人、北海道開拓関係はアメリカ人が担当しました。
土木寮(現在の建設省)が河川、港湾事業の推進のため、オランダ人技師を招きました。
それが、明治5年からドールンを頭としてエッセル、ムルデル、リンドウ、チッセン、デ・レーケの6人の技師と4人の工手からなるオランダ人技師団でした。

デ・レーケが来日したのは明治6年(1873)9月25日。彼が31才の時でした。
給料は毎月300円、期間は3年間という契約になっています。



▲お雇い外人として赴任した時の契約書

オランダ人技師団6人のうち、ドールンらはいずれも工科大学出のエリート技術者であったのに対してデ・レーケは、工事現場たたき上げの工事監督でした。
それが、誠心誠意ことにあたり、服装も粗野で、彼自身も飾らず、勤勉そのものという彼の気質のバックグラウンドだったのです。
彼の実務遂行能力の高さは評価されていたため、日本人とも相性がよかったのだと思います。



▲土木寮 雇用オランダ人技術者一覧

結局彼は日本に30年間にわたって滞在しました。
明治13年にはドールンが帰国し、一等工師に引き上げられ、全国の土木工事を監督する立場となりました。
途中明治14年、来日より12年ぶりに一時帰国しました。
翌15年には再来日し、オランダで浚渫船を手配してくるという仕事人間でした。

当初は外国人居留地に住んだようですが、やがて純日本風の食住ですごしたようです。
7人(?)の子供をもうけましたが、子供一人と妻を日本で失っています。
子供のうち3人はオランダに帰し、オランダで教育を受けています。
日本人女性との関係も多くうわさされていますが、明治14年(33歳の時)の一時帰国の時にに25歳のオランダ人と再婚しています。

日本に30年住み、しかも働き盛りのほとんどを費やし、日本人の尊敬を集めながらも、日本には同化しませんでした。人生と仕事とをはっきり分けていたのでしょう。
デ・レーケの功績に対し、日本政府から明治36年に勲二等瑞宝章、オランダ政府からはオランエナソウ勲章、オランダ獅子勲章がさずけられました。
デ・レーケは明治36年(1903)60歳の時に日本を離れましたが、最後に領事団に招かれ上海にて黄浦江航路改良工事をしました。
最終的に明治43年(1910)オランダに帰国し、わずか3年後の大正2年(1913)年1月20日アムステルダムで死去しました。
内容



▲晩年デ・レーケが愛用した眼鏡

彼の業績は
・淀川河川改修 淀川筋天満橋以下の改修計画
・淀川上流山地における砂防工事
・大阪築港計画
・庄内川
・吉野川改修(徳島県)
・多摩川
・利根運河計画改訂
・江戸川の改修工事
・神田に施工した分流式下水道
・常願寺川改修(富山県)
・長崎港の改修計画
・博多港
・宇品港(広島県)
・東京港
・横浜港(比較案)
・不動川の砂防堰堤
・羽根谷の砂防堰堤
・白川流域治山砂防(群馬県)
・木曽川流域砂防工事(岐阜県)
・八幡川砂防(群馬県)
・琵琶湖疏水計画に参画
・筑後川デ・レーケ導流堤
・岐阜県松尾池と岩舟渓谷
・九頭竜川河川改修と三国港整備
・上海の黄浦江航路改良工事従事
・また各地で砂防工事にたずさわり、「デ・レーケ堰堤」と呼ばれる砂防ダムはあちこちに残されています。

日本の川を見て「川ではない滝である」という言葉も残していますが、
彼の河川改修の基本的な考えは
・河川をまっすぐにし、浚渫を行い流路確保。丈夫な堤防を築き、水を一気に海に流す。沈砂の余裕を与えない。
・堤防のために船の交通ができなくなれば閘門をつくる。
・上流からの土砂流出を減らすため、砂防、植林工事を重点的に行う。
という現代にも通用する設計コンセプトです。

デ・レーケによる明治の改修。三川分流工事

宝暦の治水を取り上げたHPや資料は多いのですが、驚いたことに明治の改修を取り上げたものは少ないのです。
宝暦の治水の何倍も大きな工事で、明治といえども、機械化は十分されておらず、多くは人力に頼った工事だったはずなのですが、その当時の写真やデータが広く知られていません。今後もう少し深く調べたい項目です。
基本設計や、工程設計がしっかりしていたので作業は順調に進み、エピソードは少なく物語りにならなかったのかもしれません。

土木は素人の私が木曽川の堤防から広大な木曽川、反対側には同じように巨大な長良川を眺めると、圧倒されてしまい「自分たちの手で変えることができる」とはとても発想できないのですが、新たな川を作ってしまおうと考えたデレイケはすごいと思います。
ライン川の河口に位置し、干拓地を作り上げ、国土の1/4は自ら作り出した土地という自然に立ち向かってゆく故国オランダの精神はここにも生きているのでしょう。

デレイケがはじめて木曽三川を訪れたのは明治11年(1878)の息吹おろしのふく2月から3月のことでした。地元から強く招かれての調査でした。
政府は岐阜県羽島郡八神(はっしん)に土木局出張所を設け、デ・レーケが中心になって木曽川下流の改修計画に着手しました。
デレイケは、まず木曽川を中心に、揖斐川の養老渓谷、大垣輪中など現地を検分し、「木曽川概況」という報告書を書き、内務省に提出しました。



▲木曽川下流の概説書

それによれば、
・木曽川上流から流れてくる土砂が長良川や揖斐川のものよりも多いため、年々木曽川の河床が上がって、洪水のたびにそれより低いところを流れる長良川や揖斐川へ氾濫する。
・したがって、木曽川に堤防をつくりまっすぐにすれば、土砂が木曽川の河床に堆積することなく海に流れ出す。
・それぞれの川が分流すれば、洪水の際も水位が従来より低くなり氾濫しにくくなる
・木曽流域の樹木の乱伐で山が荒れて土砂の流出が多くなっているので砂防、植林の必要がある
というものでした。

その後も計画はすすめ、明治16年(1883)測量完了。
報告書提出から6年後の明治17年にやっと政府より、木曽川改修工事の目論見を命じられました。
それを受けて、良く明治18年11月に木曽川改修設計を完成させました。



▲三川分流工事の図面が残されています。きれいな図面です。

その概念は
1.木曽三川を完全に分離する
2.佐屋川を廃川する
3.立田輪中に木曽川新川を開削する
4.長良川の派川、大榑川、中村川、中須川を締切る
5.高洲輪中に長良川新川を開削する
6.油島洗堰は、完全に締切る
7.船頭平に閘門を設ける
8.木曽川、揖斐川の河口に導流堤を設ける
9.水門川、牧田川、津屋川の揖斐川への合流点を引き下げる




しかし改修工事は、工費の問題や多くの農地の買収問題もあって、なかなか着工に至りませんでした。
新たに流路を作るために 堤防を築き掘削します。多くの家が立ち退かなければなりませんでした。
祖先から受け継いできた土地で農業を営んできた人々にとっては移住は大変な決断を要することでしたが、公共のために自分の土地を提供し、他の土地に移ってゆきました。

そして、2年後の明治20年(1887)、第1期工事が始まることになりました。
明治20年(1887)第一期工事はじまる。木曽川すじの海津町成戸(なりと)から日原(ひわら)まで、木曽川と長良川を中堤で分流する。
明治39年(1896)第二期工事がはじまる。第一期より南の三川の中堤や新堤をつくる。
明治33年(1900)20世紀を目前に、第三期工事はじまる。松の木より上流の揖斐川すじをまっすぐにして、新堤をつくる。
明治36年(1903)デ・レーケはオランダに帰る。
明治45年(1912)彼の帰国後9年を経過し、明治改修竣工で全部の工事でき上がる。

総工費は974万6千余円を費やしました。現在の金額に換算して315億円です。

その工事域は、木曾・長良・揖斐川中流域より下流の災害に甚だしい部分に限られ、上流部は経費と調査の関係から大正年間に施工に入ることにしました。



▲木曽川河口導水堤石堤部

船頭平閘門

 

現在の姿。なかなかいい味を出しています。



▲制御板 昔は手でバルブや扉を開閉していたのでしょうが、今はボタンひとつ。

木曽川下流改修前の舟運
木曽川下流改修以前、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川は多くの派川でつながり、物資は船により川づたいに運ばれていました。川沿いには、犬山、笠松、岐阜、大垣、対馬、桑名など多くの市場が控えていて名古屋や四日市と結ばれていました。
特に桑名は舟運の要所で米穀市場や宮内庁御料局貯木場があることもあり、尾張、美濃、伊勢の米、信濃、飛騨、美濃の木材、その他の物資が集められ、その市場を経由して全国各地に送られていました。

鰻江川、青鷺川の水路は明治改修が始まり、三川が締め切られるまで大いに利用されていました。
明治1〜2年にかけて明治天皇は三回にわたって鰻江川を通船しています。
明治改修によってこれらの川が閉塞されると、桑名を中心とした舟運による経済活動に大きな影響が出ると判断し、三重県では三川を連絡する閘門の建設を明治26年に要請しました。
明治35年の完成後大正年間までは年間2万隻以上が利用していましたが、昭和8年尾張大橋、昭和9年には伊勢大橋が開通したため、船、筏の数は減少し、現在ではレジャー船の利用がほとんどを占めています。

明治31年に調査を開始し、翌明治32年から2年7ヶ月を費やしました。
浸透水が非常に多く、排水作業が大変だったため、工事は思いのほか難工事でした。
工事費は15万4836円で今日の費用に換算すると約5億円です。

 

▲水を抜いた時の水門の全景

現在国指定重要文化財になっています。



▲明治に作られた閘門ゲートを開け閉めする開閉器です。
取替え工事により取り外されたものです。加工機械も発達していない時代にこのような精巧な開閉機構がつくられていたのには驚かされます。

参考資料
http://tab.cside5.jp/01_library/jidou/j.sa.html http://www.cbr.mlit.go.jp/kisojyo/production/ryuuiki/suigai/main2.html#1608
http://www.town.shiraoka.saitama.jp/key/i.html
http://www.pref.saitama.lg.jp/A06/BI00/nouson/suirityousei/2-2.htm
http://www.mirai.ne.jp/~tuyoshi/
http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/s11334/hanakiko2004/gifubara/20.html
http://homepage1.nifty.com/fuufuyuuyuu/sub20/tisui.htm




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