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  武田泰淳が語った戦争   伊藤 博子 

 

武田泰淳は昭和12年10月輜重補充兵として中国中部に派遣され、14年10月上等兵として除隊している(古林尚年譜)。この2年間の兵隊生活で「ぼっちゃん性から脱皮した、この変化は目覚ましいものがあった」と は、友人竹内好がしばしば語ったところである。

 武田泰淳には、従軍中に一兵卒として人を殺した若者の戦後の苦悩を描いた「審判」(昭和22年4月)という代表作がある。一読して、深く考えさせられた作品であった。以前、修士論文のテーマにこの作品を取り上げることにしたが、この作品を論じる前に、武田泰淳が体験した戦争とはどのようなものであったのかということを考えたいと、「武田泰淳の戦争体験」としてまとめた。この論文は、発表の機会を得なかった。雑誌に発表するには、資料(引用)が多すぎ、まとまっていなかったからだろう。そこで、そこから得た結論をまとめて、作品論に織り込む、という作業をしたように記憶する。

 しかしながら、武田泰淳の戦争体験の記述は、私が戦争について考える大きなきっかけとなった。現在ではあまり知られていない作品や、対談の中でも、泰淳は戦争について多くを語っている。まさに、一言では表せない戦争の現実を繰り返し伝えていた。その言葉の数々を、紹介し、さらに私なりの言葉で再表現していくことも、彼の文学に関わった者の背負う役割ではないだろうか。古い原稿を読み返して、私は改めてそう思った。

 

 「はだしのゲン」の閲覧制限が問題になったのは、数か月前のことである。残虐だから教えない、という。子どもたちの心の傷(トラウマ)にもなるという教育的な配慮なのだと。しかし、事実を教えない、無知な人間ばかりを作って、危機管理が出来るはずもない。人間の本質的に持つ悪(その極致が、戦争と言う形で現れる)について考える訓練をすることなしに、善を掴みとろうという強い意志は育まれないだろう。覚悟のないひ弱な善人は、おそらく扱いやすいと思う。「不都合なことは教えない」という支配者の発想だと言うべきだろう。書き残された貴重な証言から、私たちは学ぶべきなのだ。

 私はここに「武田泰淳の語った戦争体験」をまとめてみることにした。そして、このページによって、武田泰淳の作品を読み、戦争について、社会について考えて下さる方が一人でも増えることを願っている。

 なお、書き直し等も考えているので、少しずつ更新していきたい。

 

1.日中戦争および関連作品

 

 日中戦争と言えば、その関連文献に目を通すだけで、日本軍の残虐行為に息の詰まる思いをさせられる。南京大虐殺に取材し、発表と同時に発禁となった石川達三の「生きている兵隊」(昭和13・3「中央公論」)、同じく南京戦を中国人の眼を通して描いた堀田善衛の「時間」(昭和30年4月新潮社刊)は、かつての私にとって抽象的だった<残虐行為>からの脱出であった。また、戦後、現地を巡り、中国人の証言や記録、多くの写真資料を丹念に掬い(すくい)上げた本田勝一氏のるポルタージュ『日本の中国軍』(昭和47年7月、創樹社)では、前のいずれの小説作品にも誇張はないこと、いや、それ以上の多くの<事実>が残されているだろうことに気付かされ、今さらのように愕然とした思いであった。

 盗、殺、姦、破壊の数々。

 泰淳は、確かに、そのような現実の中を生きたことを、後に語っている。

 

 赤紙を手にするまでは、まさか自分が(自分だけは)戦場へ行くまい、行かないで済むだろうとぼんやりと考えている。そして、銃をあてがわれて「敵地」へ行く。そうすると、今までとはちがった自分, および人間を発見するようになってしまうのである。            (以上2月16日記)


 死体は至るところに、ころがっていた。水たまりに倒れ、髪の毛を海草のように乱して、ふくれあがっている女の死体もあった。乾いた土の上に、まるで生きているように仰臥している老人の死体もあった。者の焼けるにおい、肉のくさるにおいが、みちひろがっていて、休息しても食事をしても、つきまとっている。

 憲兵のとりしまりもない、裁判も法廷もない前線では、殺人は罰せられない。たった一人の老婆をころすのに、あれほど深刻な緊張をしいられたラスコルニコフの苦悩をぬきにして、罪のない、武器ももたぬ人びとが殺されていく。だれがいつ、どのようにして殺したか、殺されたかという、犯罪の証拠もぼやけたまま、殺すという行為が「勇敢」という美しいことばと結びつけられたりして、むごたらしく、なまなましく実演されていく。

 男はだれでも、卑怯者といわれたくない。それに「国のために命をすてる」という言いわけもあるのだが、この堅固な言いわけが、次第に無意味な殺害と破壊におおわれて、醜悪なあるものに変化してしまう。

(「戦争と私」昭和42815日、全集18巻所収)

 

 「国のために命をすてる」という言いわけが〈無意味な殺害と破壊におおわれて、醜悪なあるものに変化し〉た戦場を、泰淳は生きなければならなかった。

 泰淳自身は、どのように生きたのか。

 

 日本の場合、戦後、戦争からの帰還兵の、<戦争中の>所業を問うことは、タブーだったと思われる記述がある。

 たとえば、奧野健男氏が座談会(『近代文学』「武田泰淳―その仕事と人間」昭和357月〜8月)で、堀田善衛氏から「そういうことは詮索せんほうがいい」と制され、また、布野栄一氏が「下司のかんぐりの域を出ることはあるまい」(「武田泰淳における中国体験」『解釈と鑑賞』昭和477月)と述べている。

 不都合なことには耳をふさぐ、なかったことにする、知らなかったことにする・・・少なくとも、われわれは知りたくない、という姿勢を是とすれば、戦争を描いた作品は、すべて〈フィクション〉として読まれ、戦争の証言にはならない。

このような姿勢は、実は、過去のものではなく現在の問題でもあるだろう。多くの小説があっても、〈証拠がない〉。軍として組織的にやったことではなく、指導者は知らなかった、関与していなかった等々。

 

しかし、泰淳自身は十年の時を経て、自らの戦場を語り始めている。「悪らしきもの」(昭和243月)、「細菌のいる風景」(昭和251月)、「冷笑」(昭和267月)、「勝負」(昭和274月)、「汝の母を」(昭和318月)などである。

 観たものでなければ書けないであろう作品を書き続けた泰淳の覚悟を、私は受け止め、現在を考えたいと思う。

 

(以上2月17日記)


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