10月3日(金)

 相性の本、校正をしました。だいたい終わりました。新書ですから、量は多くはないのですが、内容が今までと違うので、少し気を使いました。企画が通ったのが、5月8日ですから、考えてみると、ここまで来るのが随分と早かったように思います。あまり、こういう風にはなりませんね。ただ、本は生き物ですから、スピードも必要です。そのスピードが、おそらくパワーを生んでいくのではないでしょうか。本になるのが楽しみです。
10月1日(水)

 昨日、トランスビューの中嶋廣さんから、森岡正博さんの『無痛文明論』という新刊を送っていただきました。大作で、私の『オウム』と同じく、3800円という定価がついています。これは、すでに休刊してしまった『仏教』という雑誌に連載されていた同名のものを大幅に書き換え、新たに2章を付け加えたものとなっています。著者のことは、個人的にも知っていますが、「あとがき」では、「私はこの本を書くために生まれたきた」と書かれていますから、著者の気概は伝わってきます。

 ただし、タイトルが示しているような文明論を期待すると、その期待は外れてしまうかもしれません。著者は、現代の文明を資本主義を超え、それを包摂した無痛文明、あらゆる痛みや苦難を回避し、ひたすら「身体の欲望」を追求する文明としてとらえてはいますが、その無痛文明について具体的な事例にもとづく詳細な分析が展開されているわけではありません。むしろ、そこで問題になっているのは、無痛文明のなかで、その流れ、著者の言う「無痛奔流」に流されてしまっている個人が、そうした状況のなかで、どのように生きていくかという点にあるように思われます。

 ただ、そうなると、文明を構成する社会や文化というものが視野に入ってこないことになります。少なくとも、著者は、文化的な価値については一切述べていません。無痛文明に抗するために、自己解体をする必要があると言って、身体の欲望ではなく、よりアナーキーで無秩序であり、おそらくはより根底的な「生命の欲望」の発現を促すことの重要性を強調していますが、社会も文化もけっきょくは、否定の対象でしかないように見えます。いったい著者は、何のために、そうした自己解体を押し進めなければならないと考えているのか、途中で、若い頃の自分が、「自分は天才である」という観念に支配されていたときのことが語られてはいますが、私などからすれば、ひたすら解体をめざす生き方というものは、まるで理解出来ないような気がしました。

 おそらく著者は、肥大化した自我というものと格闘を続けてきたことでしょう。そうした格闘は、近代における知識人が抱えてきた重要な問題です。たとえば、夏目漱石などは、高等遊民と言われる若い知識人の自我の問題を、小説という手立てを通して描き出そうとしたのではないでしょうか。その後も、肥大化した自我の問題は、主に文学の世界で扱われてきたような気がします。

 ところが、文学が力を失うことで、肥大化した自我の問題をどういった形で表現していくかが難しくなってきたのかもしれません。そこで、著者は哲学という回路を見いだし、そのなかで観念的な(最後まで具体的な無痛文明を倒すための方策は示されていませんから)自己解体の営みを始めることになったのではないでしょうか。これは、印象ですが、『無痛文明論』を読みながら、中澤新一さんの『チベットのモーツアルト』や『虹の階梯』のことを思い起こしました。中澤さんの場合には、自己解体の道を、チベット密教の世界に求めたと言えるでしょう。彼の場合にも、肥大化した自我の問題にぶつかり、そこから宗教の世界に飛び込んでいったわけです。森岡さんも、一時宗教に近いものに飛び込んでいった時期があるようですが、彼の場合には、そこには安住できず、自ら哲学を築き上げるという方向にいったのでしょう。

 おそらく著者は、私の言っていることなど、何も問題にしないでしょうが、正直、『無痛文明論』での無痛文明との戦いは、痛ましさだけが残ったように感じられました。著者は、自己の死を自覚することで、万物がいとおしいものとして迫ってくるということを述べていますが、その言説には、宗教家が苦闘した末に獲得するおごそかな雰囲気が欠けているように感じられてなりませんでした。明らかに著者は、無理をした上で、そうした言説を作り上げています。もし本当に、周囲のものにいとおしさを感じることが出来るのだとすれば、もう自己解体の必要もないでしょうし、本のなかで描き出すものも、もっと具体性をもち、輝きを帯びてくるのではないかと思うのです。
9月30日(火)

 『相性の研究』(仮題)の校閲の入ったゲラが来る。校閲に使った資料が同封されていたのははじめてです。それほど大きな問題はなさそうなので、今週には校正が終わるでしょう。

 谷譲二の『踊る地平線』(岩波文庫)上下を読み終える。これは、1920年代後半のヨーロッパ周遊記ですが、決して貧乏旅行ではなく、若い夫婦の優雅な旅の趣もあり、なかなか楽しく読めました。文体が章ごとに変化していくのも、興味のもてるところです。この谷譲二については、今までほとんど知りませんでしたが、丹下左膳を書いた林不忘でもあり、また別の筆名で探偵物などを書いていた長谷川海太郎とのこと。詩人の長谷川四郎の長兄でもあるようです。室健二さんの伝記も出ているようなので、一度読んでみたいと思っています。
 

9月27日(土)

 やはり自分がそういう体験をしているからでしょうか、組織を辞める、あるいは辞めさせられる人間の動向には興味があります。その点で、巨人軍の原監督の去就について興味を持ってながめてきたのですが、もう一つ、その経緯はわかりにくいように思いました。ただ、誰か野球評論家が、自分から辞める監督なんていない、皆辞めさせられるんだと言っていたことが印象に残りました。原監督も、やはり辞めさせられたとしか考えられませんが、ただ、特別顧問なるなんだかよく分からない地位に就いたことで、不明朗な印象を与えます。渡辺オーナーの、読売グループ内の人事異動だという発言も、その意味を考えた方がいいのかもしれません。

 勝負の世界ですから、成績が悪ければ、監督が責任を取らなければならないというのは、当然のことでしょう。その点では、優勝して辞めさせられる監督というのは、ほとんどいないわけです。しかし、成績の悪いチームならいくらでもあるわけで、今年のセリーグなら、阪神を除くすべての球団が成績としては悪かったとしか考えられません。それでも、横浜の場合のように、1年目で辞めさせてしまうことはありえないようで、問題は2年目のようです。原監督を含め、シーズン途中で辞めることになった監督は、皆、2年目のようです。2年目の成績が悪ければ、たとえ契約が3年でも切るというのが、一つの原則にでもなっているのでしょうか。星野監督は2年目で優勝したことで、それを乗り切ったことになります。

 2年という月日が長いのか、短いのか。昔なら、短いという見解が大勢を占めたでしょうが、大リーグなどでは、それほど猶予は与えられないようで、それに近づいてきたということでしょうか。Jリーグでも監督の交代は実に頻繁です。それだけ、プロ野球においても、監督の地位が下がっていると見ることもできるような気がします。

 ところで、堀内監督。悪役としては他のチームの標的になれそうですが、それも巨人が強いということが前提でしょう。弱い悪役はしまりません。まあ、巨人ファンも耐える時期かもしれませんね。
9月26日(金)

 ちょっと風邪で、体調がよくありません。熱はないみたいですが、咳が出ます。季節の代わり目に、わりとこういう状態になりますから、からだの方が適応しようとしているのでしょう。なにしろ、今年の夏は気候不順もはなはだしかったわけですから。

 北海道ではマグニチュード8という大きな地震があり、巨人の原監督は辞任に追い込まれたりと世の中いろいろなことが起こっていますが、マイクロソフトがTRON陣営と手を組むというニュースも、TRONに関心がある人々の間ではかなりホットな話題になっているようです。ただ、組み込みの世界なので、目には見えない連携なのかもしれませんが、マイクロソフトとしてもTRONを無視できなくなったということでしょう。マイクロソフトがBTRONとか出してくれてもいいのですが。まあ、そうはならないんでしょう。

 コンピュータということでは、TRONの坂村さんのおひざ元東大では共用コンピュータとしてマックの導入を決めたとのこと。1000台にもなるといいますから、かなりの規模です。それが、いったいどんな影響を与えるかはわかりませんが、受験生はWindowsではなくマッキントッシュを買うということにでもなるのでしょうか。

 今日は、創価学会研究会に行ってきました。発表者は、小野文&T21777B;さんで、日蓮宗における講のあり方について、いろいろと話を聞くことが出来ました。宗外の人間には、用語や概念、固有名詞がわからない部分もあるのですが、日蓮宗において、在家信者が作り上げた講がいかに大きな役割を担い、そのなかで講員たちが、日蓮宗の教義、法門に対してかなりの関心をいだいていたことが理解出来ました。まさに、創価学会の先駆的な形態となるわけで、そうした歴史的な先行現象を考えないと、なぜ創価学会のような巨大教団が生まれてきたのかはわからないことでしょう。
9月24日(水)

 一昨日は叔父・侑の通夜、昨日は葬儀、告別式でした。近親者だけの小規模な葬儀でした。戒名を頼まれましたので、「江覚侑悠居士」というものを考えてみました。葬儀の時は、住職の方に書いていただいた俗名を記した位牌が使われましたが、この戒名で行くことになるのでしょうか。実際に戒名をつけてみて、考えるところもありました。近親者でないと、故人を彷彿とさせる戒名をつけることはやはり難しいのではないでしょうか。
 ←字は私の父によるもの
 昨日の帰り、葬儀場の最寄り駅、南大沢駅で外国人の男性に、新宿までの行き方を聞かれました。スペイン人で、数学の学術大会のために来日し、会場の都立大学に宿泊しているとのこと。その前は、札幌の別の大会に出てきたということで、日本ははじめてのようでした。大学はマドリード大学で、アメリカのシカゴ大学に留学し、そこでアメリカ人の奥さんと知り合ったとのこと。短い間に、パーソナル・ヒストリーをけっこう聞いてしまいました。

 今日は、晶文社の梅村さんと、『人を信じるということ』についての打ち合わせ。一応、最後まで書いたのですが、これをどうしていくか、一応の線が出たように思いました。いろいろと手を入れなければなりません。頑張りましょう。
9月21日(日)

 『武蔵』は、巌流島の決戦でした。撮影はかなり暑かったとのことですが、まるで『マトリックス』です。事前に、三船敏郎と萬屋錦之介が主演した武蔵の映画、巌流島のところだけ見てみたのですが、とくに高倉健が佐々木小次郎を演じた錦之介バージョンは、実にあっけない戦いでした。一撃の下に倒れるという感じです。三船バージョンの方は、小次郎が鶴田浩二で、夜明けという設定でした。武蔵が、朝日を巧みに使って、小次郎を倒すというところで、朝日のなかで二人が波打ち際を走るという感じになっています。こちらの方が、決戦の時間は長かったですね。

 今回の方が、その二つに比べて、決戦に時間をかけているという印象を受けました。そもそも、立ち回りということでは、剣に振り回されている松岡小次郎には勝ち目はないわけですが、新之助の見事な立ち回りというよりも、30台のデジタルカメラを使ったコンピュータ合成の画面が主役で、ちょっと楽しめないところがありました。まあ、新味を出そうとしているのでしょうね。予告編では、今後の展開をやっていまいたが、豊臣秀頼や淀君、真田幸村などが出てきて、一応にぎやかです。勘九郎も再度登場のようですが、いったいこれからどうなるのか。やはり巌流島で終わりにすべきだったということにならないといいのですが。
9月20日(土)

 今日は、地震がありました。ここらあたりは、震度3というところでしょうか。かなり揺れましたが、揺れている最中に、何かが落ちて、割れた音がしたので慌てました。揺れがおさまってから見てみると、本棚に載せて居た額が落ちて、ガラスが割れていました。被害はそれだけですが、今まであまりそういうことがなかったので、かなり揺れたということでしょう。台風も近づいているようですし、要注意です。

 自民党の総裁選挙では、小泉氏が圧勝したとのことです。まあ、ほかの3人と比べた場合、どうしても小泉氏の方が、信頼に値すると見えてしまうのではないでしょうか。彼は、あまり裏表がないように見えますし、周囲の言うことをあまり聞かずに事を進めていくところが、今までの政治家にはあまりない資質で、それが従来の政治に飽き飽きしている国民に受けるのでしょうか。ただ、小泉氏が首相を続けるということは、歌舞伎座に多数のSPを連れてやってくる可能性があるということで、けっこう観客は迷惑します。小泉内閣メールマガジンに團十郎が特別に寄稿していますが、首相になる前の小泉氏は、一人でふらっと来て、歌舞伎を見て帰っていったとのこと。観劇は首相をお辞めになった後になどと言えば、叱られるでしょうか。
9月18日(木)

 昨日の朝、叔父の一人が亡くなりました。母方の叔父です。正確な年齢はわかりませんが、もう70歳くらいだったのではないでしょうか。同居していた、長兄にあたる叔父から、戒名をつけてくれるよう頼まれました。一日、いろいろ考えて、ファックスしましたが、これで供養になるでしょうか。戒名についての本は書いていますが、実際につけたのははじめてのことです。調べてみると、昔は文人などが戒名をつけています。上田敏の戒名をつけたのは、森鴎外だったのではないでしょうか。寺の墓に葬らないということであれば、むしろ親しい人間がつけた方が、故人を彷彿とさせる戒名をつけられるのではないでしょうか。

 今日は、新宿へ出ましたが、紀伊国屋書店の一階で、偶然、新潮社の元編集者、佐久間氏と会いました。現在、別の出版社にいるのですが、今度は独立を考えているとのこと。やはり独立してやるのがいいと言っていたのが、印象的でした。やはりそんなものなのでしょうか。書き手には伺い知れないものがあるのかもしれません。
9月16日(火)

 久しぶりに友人とテニスをしました。2カ月ぶりでしょうか。はじめたころは、まだ日がさしていて、かなり暑かったですが、しだいに涼しくなり、風が爽やかでした。最近は、ボレーの練習をしていますが、この体の使い方、前に見学したことのある古武道の動きと同じではないかと気づきました。剣もラケットも、最短距離で動いていく必要があるわけで、円を描かずにいかに動かすか、それが課題のようです。

 友人の配偶者の父、母が交代で入院とか。本人の母親も、入院の可能性があるとのこと。この年になると、いろいろと大変なことがもちあがります。まあ、それも仕方がないことですが、健康を祈るばかりです。
9月15日(月)

 阪神タイガースが優勝しました。横浜ファンとしては、阪神優勝に貢献したようで、少々複雑です。しかし、この前横浜が優勝したときには、甲子園で決めていますから、そのお礼ということにしておきましょう。また、前回の優勝のときのように、関西の各局は、祝勝番組を放送するのでしょね。

 すでに、道頓堀には若者たちが飛び込んでいるようです。前回は、カーネル・サンダースなど、人形たちが、川に投げ込まれたようですが、今回は店の方が警戒していて、そういうこともないのでしょうか。人形を投げ込むというのは、宗教学的に言って、犠牲とかと結びついているのでしょうか。勝ったことを、阪神という神に感謝するために、なんらかの供物を必要とするということなのでしょう。汚い川に飛び込むのも、供物と考えれば、納得がいくでしょうか。その意味では、いくら止めろと言っても、かわりの捌け口がないかぎり、止まらないでしょうね。それにしても、道頓堀は汚いです。
9月13日(土)

 なんだかめちゃくちゃに暑いです。残暑というよりも、それは長い梅雨が続いた後に、ようやく夏が来たといった感じがします。いつまで続くのでしょうか。いい加減にしてくれと思います。

 阪神タイガース、優勝に足踏みしています。よほど甲子園で胴上げしたいということでしょうか。阪神優勝を前にして、タイガース・ファンがテレビ番組などで取り上げられることが多くなりましたが。昨日だか、東京の東中野にある「とら」という店のことをやっていました。入り口には、「タイガース・ファン以外お断り」の張り紙があります。もしかして、ここは、亡くなった柳川先生が、出没していたところでしょうか。なにしろ、熱烈なタイガース・ファンでしたから。

 1985年の2月頃だったでしょうか。私が勤めていた放送教育開発センターの仕事で、先生と奈良の東生駒に行ったことがありました。ケーブルテレビを使っての双方向授業番組の実験のためでした。その番組が終わった後、二人でホテルに戻り、先生の部屋でビールなどを飲んだのですが、そのとき、体調を崩されていたこともあって、「もうタイガースには興味がなくなった」と語っていました。

 ところが、タイガースが優勝したのは、その年のことです。先生は、自分の言ったこともなんのその、しっかり優勝街道をばく進するタイガースを応援していました。これぞ、タイガース根性とでも言うのでしょうか。今日はそんなことを思い出しました。
9月12日(金)

 朝、新潮新書『相性の研究』の校正刷りが来ました。もっとも、まだ校閲を通っていないので、本格的に手を入れるのは、その後になります。校正刷りが来るというのは、なかなか楽しいものです。自分が書き上げたものが、一応形になるわけで、しかも、まだ販売される前ということで、その結果も気にしなくていいぶん、嬉しさを感じることが出来ます。さて、どうなるのでしょうか。

 今回は、迷うことなく、「ですます体」を使いました。最初から、それで行き、「である体」を試したこともなかったのです。これは、私の本としてははじめてのことではないでしょうか。である体と、ですます体では、その中身が随分と違う気がします。それに味をしめたというわけでもないのですが、『人を信じるということ』の方も、ですます体を使っています。これからは、難しい本はである体、やさしい本はですます体ということにしましょうか。なんか、そういったかたちで区別した方がいいように感じています。

 『相性の研究』は、兄弟姉妹のなかでどこに生まれたかで、お互いの相性が決まるという仮説にもとづいています。一応、第一子、末っ子、真ん中っ子、一人っ子という4つのタイプに分けて論じていますが、それぞれのタイプで、性格や人間関係の持ち方が大きく変わってくるのではないでしょうか。たとえば、自民党の元幹事長、野中氏が突然、引退を宣言し、大きな波紋を呼んでいますが、だれにも相談せず、自分のなかだけで考えていて、それを急に言い出すというのは、まさに第一子の特徴です。野中氏は、第一子としての特徴を遺憾なく発揮したということでしょうか。これが、末っ子なら、最後まで黙っているということは出来ないはずです。

 そうした角度から考えたらどうなるのかを、『相性の研究』で展開しています。それが、宗教や宗教学とどう関係するのかと言われそうですが、その点については「あとがき」を読んで下さい。理解していただけると思います。
 9月11日(木)

 9.11から2年の歳月が流れました。その間、アメリカやイギリスは、テロの防止などを名目に、アフガニスタンやイラクに侵攻しましたが、果たしてその目的が果たされたのかどうか。最近では、イラクにおいて、アメリカ軍の被害も増え、国連も規模を縮小するなど、治安は悪化する方向にむかっています。テロと呼ばれる出来事も、決して消えることなく、イスラエルでも連続して起こり、パレスチナとの和平も暗礁に乗り上げています。どこかで戦略を誤ったとしか思えない状況ではないでしょうか。こうした事態によって、アメリカ自体も何かの利益を得ているのでしょうか。軍事費を増額しなければならない状態では、経済的な効果もマイナスかもしれません。どこかで、冷静な判断が成されていなかったのではないか。そんな思いにかられます。

 9.11から2年ということで、新聞では特集などが組まれていますが、今日の朝日新聞では、アラブ人ジャーナリストであるアントワヌ・スフェール氏が、インタビューに答えています。氏は、ベイルートの出身ということですが、原理主義に対して、徹底した批判を繰り広げているようです。

 そのインタビューのなかで、非常に興味深いと思ったのは、穏健派対策について語った部分です。穏健派が原理主義過激派の温床になっていると指摘した上で、フランスの学校では政教分離が定着していて、十字架をこれ見よがしにつけるのは、一種の布教活動と見なされ、禁じられていると述べています。その上で、最近、イスラム教の女性が、学校でスカーフを着用する運動が、穏健派によってなされていますが、それについても、「こうした動きには、断固たる態度を取るべきだ」としています。

 スフェール氏によれば、何を信じようと、宗教は個人のものであって、社会のものではないというのです。フランスは成熟した世俗の市民社会で、その社会への同化をめざすべきで、イスラム教徒だけが集まって別の社会を作ろうとする動きについては、もっと警戒しなければならないとも述べています。

 これはおそらく、フランスにおける一般的な宗教のとらえ方で、スフェール氏も、フランスの社会に同化することで、そうした考え方を自分のものとしてきたのでしょう。それにしても、この厳格さというものは、やはりフランスの特徴ではないでしょうか。フランスは、宗教とカルトとを厳格に区別して、カルト対策を実践できる希有な国です。そこには、フランス革命以来の、徹底した世俗主義の流れがあると思うのですが、果たして穏健派に対する厳しい姿勢が、かえって過激派を増殖させないのか。そこに不安を感じざるを得ません。
9月10日(水)

 今日はよりいっそう暑かったですね。さすがに冷房を入れました。まだ、残暑は続くのでしょうか。

 今日は、日本文明研究所の奈良さんが近くまでこられ、いろいろと話をさせていただきました。奈良さんは、東京キッドブラザーズで制作をしていた変わり種ですが、現在は、神主をしておられます。神社は単立の宗教法人で、神社本庁のあり方には批判的なようですが、今日は、神道における「穢れ」の観念のことが話題になりました。神道では、穢れを忌み嫌うということになっているわけですが、そうなると、障害者などはどうなるのか。神社は障害者に対して冷たいところがあり、奈良さんは、障害者が神道式の儀礼を営めるよう、たすけになっているとのことです。

 また、話のなかで、現在の神社では、神が神社に常駐していると考えるのが、神社本庁の基本的な姿勢ということを聞きました。これは、けっこうゆゆしき問題で、日本の神祭りの伝統からすれば、神は、呼ぶための儀礼を行わなければ、その場に降臨することがないというのが、まっとうな考え方ではないでしょうか。今でも、地鎮祭などは、そうした形式で営まれています。果たして、神は神社に常駐するものなのか。そんな宗教は、ほかには存在しないのではないでしょうか。神社本庁は、いったい何を考えているのでしょう。これでは、神道離れが進んでも仕方がないと思います。
9月9日(火)

 先週の奈良、京都も暑かったですが、今週の東京は厳しい残暑です。最近の天気予報は当たらなくなったということですが、先月の予報の通りになったようです。夏がずれ込んだ。そんな感じもします。

 今日は、月と火星が接近ということで(もっとも見かけ上のことで、実際にはそうではないわけですよね)、晴れている分、それがよく見えました。大きな月に、小さな火星の組み合わせですが、赤みがかった火星が存在感を示していました。人類が、火星に行くことはあるのでしょうか。SFが現実になるのは、まだ遠い先のことかもしれません。

 先日、吉祥寺のジャズ喫茶「メグ」に行った話を書きましたが、マスターの寺島靖国氏(時節柄、興味深いお名前です)が新しいスピーカーを導入する顛末を、朝日新聞のHPに書いています。→こちら 綺麗な音でジャズを聞くという方向に変化したとのことです。たしかに、新しいアバンギャルドのスピーカーは、音が綺麗で、ジャズの曲が違うものとして響いてきます。英断に感謝。
9月8日(月)

 昨日の夜、何気なくチャンネルを回していたら、小沢征爾が指揮するベルリン・フィルの野外コンサート(ワルトビューネ・コンサート2003)の模様を放送していましたが、いきなりマーカス・ロバーツのトリオが出てきたのには驚きました。野外コンサートという気楽さからでしょうか、オーケストラとジャズのピアノ・トリオとの共演は興味深いものでした。

 とくに、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」が良かったように思いました。この曲は、最初からジャズとクラシックの融合をめざしたものですから、こうした共演には格好の曲と言えるのでしょう。トリオもオーケストラも、生き生きと演奏していました。けっきょく、最後まで見てしまいました。

 マーカス・ロバーツについては、これまでほとんど聞いたことがなかった気がします。彼は目が不自由で、楽しげな演奏をしているときにも、あまり楽しそうにやっているようには見えませんでしたが、ジャズの伝統的なイディオムにしたがった演奏は、なかなか見事でした。ドラムスは、マルサリス兄弟の末弟でしたが、長身の彼は、いかにも楽しそうにドラムスを叩いていて、それも演奏に花を添えていたように思います。
9月7日(日)

 日本宗教学会の学術大会に参加するために、天理大学まで行ってきました。今回は、「天理教研究の問題点」と題して、発表もしました。内容は、次のようなものです。→要旨 今まで、20年くらい天理教については研究をしてきたのですが、学会で発表したのは初めてのことです。おいおい、まとめていこうと考えています。

 天理の街を訪れるのは、これで、6回目か、7回目でしょうか。最初に訪れたのは、宗教学科に進学したての大学3年生のときで、宗教学科同士の対抗野球の試合のために出かけました。甲子園でも有名な天理高校のグラウンドで野球をしましたが、それ以上に、宗教都市天理の偉容に圧倒されたことを覚えています。天理教について研究しようと考えたのも、その体験があったからかもしれません。
 天理教の神殿
 そのときは、柳川啓一先生も健在で、夜は、天理教の教団から接待を受けました。そのときに、食べきれないほどの量の肉が用意されたすき焼きをご馳走になったのですが、今回の学会の懇親会でも、同じようにすき焼きが振る舞われました。29年ぶりに天理で食べたすき焼きということになりますが、やはり肉は食べきれないほどありました。関係者の夫人や娘さん方が接待をしてくれましたが、懇親会が座敷でというのは、天理ならではのことではないかと思います。
 すき焼き
 翌日発表が終わってからは、京都へ出て、竜安寺と金閣寺を訪れました。その途中に、娘の通っている立命館大学があり、バスからその光景を眺めたりしました。いかにも大学らしいという感じのキャンパスでした。
9月3日(水)

 今日は、汐留にはじめて出かけました。六本木ヒルや丸ビルなど、どんどんと新しいビル群が建てられているようですが、そんなところにようやく出かけていきました。汐留シティーセンターの41階にある「フィッシュ・バンク」という店で食事をしたのですが、眼下には東京湾やレインボーブリッジが臨めるようになっていて、東京のフロンティアが続々と開発されている様子がよくわかりました。
 浜離宮公園を眼下に
 なかには、新橋駅のホームが再現されていたり、亀の噴水などというユニークなものもありました。ただ、食事をするなり、ショッピングをするなりという目的がなければ、それほど私などには用事のないところかもしれません。それにしても、東京には巨大なビルが多く建ったことでしょうか。昔は、高層ビルなど、都内に点在するだけでしたが、見ても名前のわからないビルがいつくもありました。なんだかいつのまにか、お上りさんになってしまったような気がします。
 旧新橋駅ホーム
 明日からは、日本宗教学会に参加するため、奈良の方へ出かけます。よって、日曜日まで、日記は書けません。あしからず。

9月1日(月)

 わけのわからなかった8月も終わり、9月に入りました。少し蒸し暑いですが、秋の気配で涼しいです。

 昨日は、吉祥寺へ行き、ジャズ喫茶のMEGに立ち寄りました。ここに通うようになってから、もう30年以上の月日が流れていますが、入り口のところは変わっていないのに、なかに入るとびっくり。席が、それまでの古いぼろぼろのソファーから、木の椅子などに変わっていました。

 しかし、一番驚いたのは、新しいスピーカーが入っていたことでした。大きなラッパ型で、しかも、色が真っ赤なのです。店にいたあいだに、ロイ・ハーグローブのライブ、カーメン・マクレイのアメリカ名曲集、そしてキース・ジャレットのバイバイ・ブラックバードなどがかかりましたが、カーメン・マクレイの歌が一番新しいスピーカーにあっている感じがしました。なんだか聞きほれてしまって、それまでのスピーカーよりも、断然よい感じがしました。調べてみると、22日に入ったばかりということですから、変えたてだったんですね。

 そのスピーカーは知りませんでしたが、「アバンギャルドDUOここを見てください」というドイツのメーカーのものでした。色も5色あるようで、ペアで280万円。かなり大きいので、普通の家に置くのは難しいかもしれませんが、なんだかとても欲しくなるスピーカーです。また、聴きに行こうっと。