閑話・・・

閑話

2006年夏、「尿膜管遺残膿瘍」なる奇妙な病気と闘うはめになりました。


 6月の始め、へそ周辺に違和感を覚えたのですが、膿が少々出るものの特に痛みは無かったため放置しておきました。しかし、8日辺りになり、違和感が増し、ついに痛みを感じるようになったため、病院に行く事にしました。

 夕方に夙川にあるSS病院に駆け込んだものの、単なる「へその炎症」との判断のようで、その日は消毒と投薬のみで終了。ろくな触診も無く、病名も言われませんでした。

 それから木、金、土、月、火と5日間通院するものの、医師は日替わりですし、一向に回復を実感することが出来ず、ついに13日の火曜日にはその病院の診察後に駐車場にある自分の車までも歩行することが困難な状態になってしまいました。駐車場には休み休みどうにか辿りついたものの、車内ではあまりの痛さで意識が朦朧としてきました。

 とにかく病人が痛いと訴えるも、レントゲンなりエコーなりもなく、触診すらしない病院というのもレアな気がします。毎日痛さを訴えるも、どうも解せない対応、処置、投薬が続きこの時点で不信感はピークになりました。

 満身創痍で帰宅したものの、異常な痛みに耐えられるわけもなく、すぐに夙川の外科クリニックに駆け込みました。ドクターに経緯を伝えた刹那、「それは尿膜管遺残かも知れませんね」とすぐに触診、エコーで確認。エコーでは素人でも一目瞭然な異様な画像がモニターに映し出されました。

 へそから体内に管が伸び、数センチ奥に2センチ大の球状の物体が確認出来ました。
要するにこれが溜まった膿であり、その膿が神経を圧迫していたことが一連の激痛の原因だったのです。

 そのまま処置室に移動し、局所麻酔で切開、膿を出す治療をして頂きました。
この処置もかなりの激痛を伴いましたが、その処置で体内の相当量の膿が出た訳ですから、その後全く痛みが無くなりました。

 この時点で終わっていれば万々歳ですが、やはり一筋縄ではいかない辺りは自分らしいと思いました。後から思えばこれまでの現象はその後に苦しまされる病の、それこそ序章に過ぎなかったのです。


 翌々日の15日木曜の昼過ぎ、授業中でした。またへそに違和感が復活。既に学習している同じ痛みの初期段階でした。夕方にかけ、確実に痛みが増したため躊躇なくクリニックに行きました。結局はまた同じ事象の再発でした。

 再び火曜日に受けた処置を繰り返し、膿を出さなければなりません。処置の痛みも学習していますから、哀しい気持ちになりましたが仕方ありません。しかも今度は体内から外に膿を誘導するためにドレーン管を埋め込むとの事。

 素早く処置をしていただき、痛みは取れたものの今回は管を入れられていますから、その違和感と闘う羽目になりました。膿が神経を圧迫するのに比べればましなものの、共存するのも辛いものです。(このドレーン管は7月中旬の全抜糸の日までおよそひと月共存することになります)

 ここから(日曜の処置も含め)毎日通院する事になりました(通院最終日は実に8月7日!)。
一向に症状は回復に向かわず、毎日のようにお腹の管に細くしたガーゼを突っ込んで膿を取り出す処置が続きその痛みには辟易しました。
 結局、早めに手術を行って、尿膜管とへその除去手術を行うのがベストとのことで、7月3日に決行となりました。
 全身麻酔を行い、腹部を少しだけ切開するという1時間程の手術ということです。


 朝に身を清め、ある程度の覚悟の上で手術に臨みました。
全身麻酔の気持ち悪さと術後の壮絶な痛みは生涯忘れないでしょう。というのも、開腹したものの、なんとへその奥に石(結石)があり、また尿膜管も膀胱近くまで除去する方が良いとの判断で、当初の予想の倍に近い2時間強の手術時間と、ざっと11~12センチを切開する事になってしまったのです。
 麻酔から覚めた刹那、あまりの痛さに歯の根も合わずに恥も外聞も捨て、絶叫し続けました。なぜこんな目に~と、とても辛く哀しい気持ちでした。

 その時のショックは相当なものでしたが、語るのはあまり格好の良いものではありませんので省略します。「気丈」なんて気丈な状態でいられるから気丈なのであって・・・。

 回復室と呼ばれる手術室横の何とも殺風景な部屋で朝の九時前まで過ごすことになりました。ひたすら痛みと闘った夜であり、おかれている現実を嫌というほど考える良い機会となりました。天井の模様が動いたりという幻覚的な事象も経験しましたが、ひたすら朝になるのを待っていた気がします。

 翌朝の9時前にベテランの看護師の方が、回復室から病室に移るから歩いて下さい、と・・・。
片方で点滴を持ち、しかも傷が開く!といけないので片方でお腹を持ち、という状態。時間はかかったものの、やれば出来るものと思いました。歩数にすれば15歩位の位置に数分かけて移動。もちろんとても痛いのです。

 病室で横たわるものの、とにかくリハビリしなくては良くならないでしょうから、何度もベッド上で寝転んだり起き上がったりを繰り返しました。
 回復力というものは凄いもので、確実に1時間前よりも身体の動きは軽くなっていくのが実感出来ました。

 どうしても退院したいのでドクターを説得し、夜に退院を強行しました。病室にいると病気になりそうですから何としてでも家に帰ろうと、横になったり起き上がったりと出来る限りのリハビリに励みました。朝には大変だった歩行も夜には杖をついて自力で歩行出来るまでになり、何とか帰宅しました。

その2

~ 退院の後 ~

 とにかく早く復帰しなければと必死でした。
私がメンバーになっているリコーダーカルテットのコンサートが7月の15日(大阪)、17日(東京)に決まっていたためです。本来はこの公演の後に手術を、と希望していましたが、上記の通り、絶え続けられる痛みではなかったことと、ドクター的にもどうも解せない症状が続いたために早めの手術を~と判断した結果、7月3日の決行になったのでした。

 退院して帰宅したものの、起き上がることもままならないわけですから、生活には難儀な事がたくさんありました。また、家の中で杖をつきながら歩行している自分の姿は情けなく思ったものです。

 そして人はいかに「腹筋」を使って生活をしているか、を痛感しました。
 例えば、寝る、起きる、座る、立つ、咳、くしゃみに至るまで、全て健康な腹筋に頼るところがいかに多いか!

 リハビリは身体だけではなく、演奏に対しても当然必要で、来るべきコンサートの暗譜している楽曲を小鳥のさえずりの如く力のないピヨピヨした音で吹きながら、正常へと戻していくように試みました。

 お腹を切ったわりには、ブレスなどの演奏には支障がなかったのは幸いだったと思います。
どちらかと言えばタンギングと指の動きへの影響が少々あったかもしれません。杖を突いて自分の手で身体全体を支える体勢が続くのですから、食いしばる口と、力をいれてしまう腕や手には影響したと思います。

 退院翌日から通院しての処置生活?がスタートしました。
 とにかく毎日毎日手術の処置をしなければならないわけです。これにも辟易させられました。
鬱々しても仕方がありませんから、何かしらの目標をもって治療に専念することとし、規則的な生活を心がけました。

 その次なる目標は「抜糸」でした。
結果的には7月の10日に半抜糸、13日に抜糸となりました。
因みに大阪のコンサート本番が15日、東京が17日です・・・。

 半抜糸と全抜糸の間に、またややこしい事象が起こりました。
何と、抜こうとしたドレーンが体内の糸に引っかかって抜けないのです!
ドレーンを抜こうと引き上げると、腹まで持ち上がるわけです。
よくもまぁ次から次へと・・・。

 結果としては翌日の処置で全抜糸の際にそのひっかかりが取れ、問題は解決しました。
全抜糸が済み、とても楽になりました。ただやはり痛みは持続していますし、傷が開かないように、またヘルニアにならないようにコルセットをした状態でいなければなりません。

 この時期、気温は34度など高温ですからこのコルセットの違和感がまた何とも言えません。


その3

~ 抜糸の後 ~
 13日の午前に抜糸が済みました。
抜糸自体はさほど苦痛も無く、気持ちも楽になりました。

 抜糸は済んだものの、しばらくの間は傷の消毒とガーゼ交換が必要です。
相変わらず毎日通院し、その処置作業をして頂くことになります。

 13日の午後からコンサートのリハーサルが始まりました。
とにかく音楽に集中することで自分が病後であることを忘れるように努めました。
 逆に言えば、リハーサル、コンサートがあったからこそ、しばらく自分の現状を忘れることが出来た気もします。

 メンバーに気遣われる状態も自分にとっては何とも居心地の悪いものでした。
情けないやらかっこ悪いことこの上ないわけです。

 上記のように、幸いブレスなど一連の管楽器に関与する部分でネガティブな事象は感じることなく、順調にリハーサルが進んだことには救われました。

 翌日14日も午前に通院、午後にリハーサルという充実した?一日が続きます。

 そしてついに15日の本番の日となりました。
大阪梅田のフェニックスホールにてリハーサル~本番と長丁場です。

 コルセットをしたまま本番の衣装を着用しなければならないわけですから、昨日不本意なウエストサイズの黒いズボンを購入・・・。勿体ない話です。

 メンバーは元気な方々ばかりですので、そでから舞台に歩くスピードの早さには閉口しましたが、ごく冷静に無事に本番を終えました。

 ( 因みに「絶賛」され、「好評」のうちに~かどうかは知りません・・・。)

 私の身内はいつ私が倒れるか~と、かなりの緊張感があったそうです。
 家では「痛いっ!何とかしてくれい!」という文言の連続でしたし、本番はほとんど立奏でしたし・・・。アンコールも四曲・・・。

 私もこのような身体での舞台は初めての経験でしたが、不思議なことにいつにもまして音楽に集中出来たような気がします。それと、舞台上では痛みをあまり感じない状態だったのです。
 脳内から何かの物質が出ていたのかしらん・・。

 大阪公演は無事に終えたものの、翌日は移動して明後日の東京公演に備えなければなりませんでした。コンサートの翌日、午前に通院して処置、そしてしばらくは移動先ですから、自分で消毒とガーゼ交換をしなければならないため、簡単な講習を受けました。

 昼過ぎのJALで移動。幸いプラス千円で広いシートのクラスJというカテゴリーが存在するた
め、助かります。元気な時は贅沢なシートと考えますが、なるほど病人にも良いのですね。

 浜松町近辺のホテルにチェックインして、早速ガーゼ交換。さすがに疲労は否めません。

 このガーゼ交換ですが、自分のへそを自分で消毒するわけですが、寝た状態で(腹筋を使わずに)首を上げ、自分のへそを見て、ピンセットでポンポンと消毒し、ガーゼを張替るという一連の作業が結構難儀なことなのです。変な日課が出来たものです。

 夕食を調達の後、ひたすら横になっていました。
 明日は昼からリハーサル、夜は本番です。

 17日東京文化会館に向かいました。
 移動する交通機関、この地方はなぜこんなに人が多い!

 リハーサル~本番と無事に終了しました。
 終了後、私はホテルに直行し、シャワーを浴びて処置をして就寝。

 そのシャワーですが、初めて切開の処置をされた6月13日以降、傷を濡らすわけにはいきませんから、風呂に浸かるということが出来ませんので、シャワーを浴びる日々が続きました。
 薬局で傷をガードするフィルムを購入し、へその周りに貼るわけです。これがまた結構面倒な作業でした。この作業は結局8月いっぱい続いたでしょうか。病中、病後と変な汗をかきますし、絶対に身体を洗いたいわけですから、一日たりとも欠いたことはありませんでした。

 とにかく何かとえらい面倒な病気ですね。

 さて、一連のコンサートを終え、ホッとしたというのは正直なところです。

 翌日の18日、妹のファミリーと夕食というプランで、それまでの時間、秋葉原で少しブラブラしていたのですが、緊張感が取れたせいか、傷がひどく疼き始めました。
 こういう事態は自分でコントロール出来ない部分なのでしょうか。結局歩く事は出来なくなり、コーヒーショップに座り込みました。
 考えてみればブラブラしようという考え自体が間違いでした。後悔しながらも薬を飲んで、治まるのを待ちました。

 落ち着いた後、総武線で千葉方面に向かうのですが、痛みがぶり返した後ですし、どうも怖くて乗車することが出来ませんでした。ここまで人が多いと傷を庇い切れない不安というのでしょうか。数本の電車を見送り、車輌を選び抜いてどうにか乗車しました。


~以降は、また記載致します~

除去した石の写真・・・

これが石です
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↓の除去した「へそ」「尿膜管」
の写真はご考慮のうえご覧下さい
少しインパクトがあります

除去した「へそ」、「尿膜管」 (注)インパクトあり

クリックすると拡大します・・ご注意を!
除去した「へそ」「尿膜管」
の写真はご考慮のうえご覧下さい
少しインパクトがあります 






「へそ」そのものと裏にあった石です
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尿膜管を含む全体像
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