越後毒消丸
出典:『弥彦風土記』毎日新聞社新潟支社・著(一九八三年)P192〜P194

 

 ある夜、称名寺の慶順和尚の夢枕に気高き姿が現れて、「万民の疾病を治す霊薬を与える」と告げて去った。夢から和尚が覚めてしばらくすると、一人の旅の僧が一夜の宿を乞うて訪ねてきた。旅の僧が弱っていたので数日間泊めたところ、世話になったお礼にと一包の霊薬を差し出した。それを造って村人たちに与えたところ、優れた薬効があったため、いつしかその薬を「人間の体の毒を消す」として毒消丸と呼ぶ様になった。。

 

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待て橋
出典:『新潟県伝説集成 下越篇』小山直嗣・著(一九九六年)P155

 

 治承四年、後白河法王と共に平家討伐の兵を挙げ、戦いに破れて自害した源頼政は実は生き延びて菖蒲御前と共に越後の地に落ち延びた。訳があって頼政自身は峰岡に住み、菖蒲御前は竹野町に住まわせた。そのため、毎日峰岡から竹野町まで頼政が通い、妻の菖蒲御前は橋の上で夫の来るのを待っていたと言う。それが「待て橋」であり、そのうちに「間手橋」になったのだという。

 間手橋
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角田の長者
出典:『新潟県伝説集成 下越篇』小山直嗣・著(一九九六年)P156

 

  角田山は、別名長者原山と呼ばれる。昔、角田山に「日の出長者」と呼ばれる大地主が住んでいた。その反対側の角田岬には「日の入長者」という大網元が住んでいた。両方とも通人であり様々な歌舞音曲、和歌俳句などを嗜んだがすぐに飽きてしまった。そこでもっと大きな事をして遊ぼうと巨大な明鏡を作り、朝日が出ると朝日を日の入長者へ送り、夕日になると夕日を日の出長者へ送って遊んだと言う。
 角田山の中央に長者塚という塚があり、その中に明鏡をはじめとする金銀財宝が埋められていると言う。また、角田岬には日の入長者が岩の上から漁師達に金銀を投げ与えて夕日に金銀が輝く様を楽しんだと言う「長者の腰掛け岩」が海中に残っている。

 

 長者塚
角田山山頂付近にある長者塚遺跡(クリックすると別窓で拡大した画像を見れます)

 

 長者塚遺跡の説明看板
長者塚遺跡の説明看板(クリックすると別窓で拡大した画像を見れます)

 

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蛇根城の池
出典:『新潟県伝説集成 下越篇』小山直嗣・著(一九九六年)P156

 

 昔、横田切れと言われる大洪水が起きた。このため蛇根城(じゃねぎ)の池も氾濫して溢れ、角田浜の前原一帯が泥の海となってしまった。その時、池の中から小山のような巨亀が現れて濁流に流され、海へと流れ出た。次いで大きな法螺貝が現れ、角田山へと向かったと言う。

 

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浮き題目
出典:『新潟県伝説集成 下越篇』小山直嗣・著(一九九六年)P158〜P159

 

 文永八年十月、日蓮宗の開祖、日蓮が佐渡に流される時に嵐に遭って角田浜に漂着した。その時に美しい童子が二人現れて「この山の洞窟に毒蛇が棲んでおり住民を苦しめています。ぜひ上人の法力で退治して下さい」とお願いをした。日蓮は、この子供の願いを聞いて天子力嶽(てんしりきだけ)に登った。洞窟には毒蛇がおり、口から火を吹き毒を霧のようにまき散らしている。そこで、日蓮は小石を拾い、それに経文を書いて蛇の棲む洞窟に投げ入れた。すると毒蛇は退散し、人々は救われた。この洞窟を「毒蛇教化(どくへびきょうげ)の岩屋)と呼んだ。
 翌日天気が回復したので、角田浜から出発したところ天候が急変し嵐になった。慌てふためく船頭たちをよそに日蓮は船の舳先に立つと海に向かって水棹で「南無妙法蓮華経」と書いた。すると題目が海面に浮かび上がり、天候も回復し無事に佐渡に着いたという。

 日蓮の洞窟
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四ツ郷屋の地名
出典:『新潟歴史双書1「新潟市の伝説」』・発行 新潟市(平成十九年)p114

 

 四ツ郷屋は折戸浜とも言われる。能登半島にある折戸(石川県珠洲市)から移住してきた人たちが住んでいるからである。慶長10(1605)年に、最初に移り住んだのは高杉姓の四軒で、四ツ郷屋の名前の起りになった。船でやってきた訳だが、最初に着岸したのは赤塚の神明社で、そこを氏神にして向いに住んだ。そのため、神明社は四ツ郷屋の地籍になっている。その後、北へと段々移動して現在の地に落ち着いた。現在の鎮守は諏訪神社で、ヤンボシ山の上にある。ヤンボシ山は、与茂七騒動の祟りによって起った暴風によりできた山と言われている。
 与茂七騒動とは、新発田藩領の中之島村(長岡市)の名主与茂七らが大雨の際の御用材の伐採、年貢未納、庄屋の不履行などをめぐって大庄屋と騒動になった事件で、与茂七らは正徳3(1713)年に処刑され、義民と言われた。処刑後に新発田町で大火(与茂七火事)が起き、与茂七の祟りと恐れられた。(『巻町史 資料編六』より)

 

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稲島薬師と鎧潟の大蛇
出典:『新潟歴史双書1「新潟市の伝説」』・発行 新潟市(平成十九年)p128〜p130

 

 角田山の稲島(とうじま)登山道の横に欅谷という谷があり、虚空蔵様が祀られている。昔、鎧潟に大蛇が住んでいたが、角田山に移り住みたいと思い、欅谷の虚空蔵様にお伺いをたてた。虚空蔵様が「角田山に沢が100あったら住んでも良い」と言ったので、大蛇は沢を数えた。しかし何度数えても99までしか沢はない。実は、虚空蔵様が沢を一つ手で隠していたのであった。大蛇は諦めて鎧潟へ帰ったが、四月八日と十月九日の稲島薬師のお祭りだけは登山を許したので、その日は雨になるという。虚空蔵様の所にある大欅を「龍灯」と呼び、みだりに切ると怪我をすると言う。木の皮を煎じて飲むと神経痛などに効くと言う。(『巻町史 資料編六』『巻町双書第一六集 村・家・人』より)

 

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赤池
出典:『新潟歴史双書1「新潟市の伝説」』・発行 新潟市(平成十九年)p130〜p131

 

 昔、漆山に赤池という池があった。黒鳥兵衛と加茂次郎義綱が戦っていた頃、兵衛は漆山に陣を構え最後の決戦に備えていた。鎧潟と漆山に掛けて三日三晩戦い、兵衛は義綱との一騎討ちで死んだ。義綱は赤池まで来ると兵衛を切った刀を池の水で洗った。すると藍色のきれいな池の水が血を流したような赤い色に変わってしまった。そのためにこの池は赤池と呼ばれるようになったという。また、日によって色が変わるとも言われた。
 ある日、黒雲が村全体を包み、雷鳴が轟き豪雨が続いた。赤池の水が溢れだし、周囲の人が恐れおののいていると黒雲に乗った一匹の竜がやって来て池の中に姿を消した。この竜が赤池の主になったという。
 漆山では、毎年六月二十五日に寺で講が行なわれる。その時に美しい女が必ず参詣し、何故か女のいた場所は濡れていたという。しかもその日はどんなに晴れていても雨が降るので、人々は「あの女は赤池の主ではないか」と噂した。
 赤池には橋が架かっており、橋を挟んで北側に大蛇、南側に亀が住んでいて、両者とも自分が赤池の主だと思っていた。時々、自分の領地を増やそうと争い池の土手が崩れるので、人々は相談して小さな祠を作り参拝するようにした。それ以来、大蛇と亀の争いは無くなったという。(『巻町史 資料編六』より)

 

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平沢の景清寺
出典:『新潟歴史双書1「新潟市の伝説」』・発行 新潟市(平成十九年)p134〜p135

 

 源平合戦に敗れた平景清は、形見として観音像と愛馬を故郷の奥州平沢へ送ろうと家臣に託した。しかし、馬は角田山の麓にある平沢で倒れて死んでしまった。家臣は奥州平沢と同じ名前の地で死んだのも何かの因縁だろうと馬を埋め、庵を作って観音像を祀った。
 景清寺にあった大欅は、馬の墓に植えたものと言われるが、平成5年に枯れてしまった。本尊の観音像は、一寸八分(約5.5センチメートル)の金銅仏で、四月十八日に開帳される。景清寺の期限は馬であるため、馬の守神として農家で馬が財産として扱われてた時代には多くの参詣客があったという。(『巻町史 資料編六』より) 

 

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カッパと五香
出典:『新潟歴史双書1「新潟市の伝説」』・発行 新潟市(平成十九年)P136〜p137

 

 舟戸(現、巻舟戸)の村に流れる舟戸川にカッパが住んでいて人々を困らせていた。ある人が川へ馬を洗いに連れて行くとカッパが川に引きずり込もうとして足にしがみついた。びっくりした馬は川から飛び出して馬屋まで逃げ帰った。カッパは足にしがみついていたが、馬屋に着くと飼葉桶の中に隠れた。家の人に見つかると、カッパはその家に五香(ごこう:薬)と良い井戸水を授けて命を助けてもらった。それからその家は五香家、井戸は五香井戸と呼ばれるようになった。五香井戸は日照りでも枯れる事がないという。

 

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幽霊船
出典:『新潟歴史双書1「新潟市の伝説」』・発行 新潟市(平成十九年)p138〜p140

 

 宝暦年間(1751〜64)のある秋、五ヶ浜の船頭孫助の船が松前(北海道)を出発した。船に乗っているのは孫助の他に六人だった。もうすぐ新潟の港、というところで急に風が変わり船が転覆しそうになった。手を尽したが船は波でひっくり返り、孫助以外の乗員は浮かんでこなかった。孫助は船の壊れた板に捕まりながら金比羅様や弥彦の神様に祈り、夜の海を漂っていた。すると大勢の人が騒ぐ音がして船が近寄って来たので救助の船と思うと、乗っているいるのは死人で船もたちまち消えてしまう事が何度もあった。それは幽霊船だった。孫助は更に二日二晩漂い、いよいよ空腹で死んでしまうかと思った。その時、藁苞(わらつと)が流れて来たので拾うと、中には唐辛子が詰まっていた。それを食べて命をつなぎ、さらに三日ほど漂った。
 翌朝、佐渡の方からやってくる帆船が見えた。孫助は船に向かって泳いだが近付くことが出来ず、大声で叫ぼうとしたが声がでなかった。咄嗟に持っていた藁苞を振ると船の方で気付いたらしく、孫助は助けられた。介抱されてようやく声が出るようになった孫助が今までの事を語ると、船の人たちは「何と命強い人だろう」と驚き、新潟の港まで送ってくれた。後に孫助は、「話をするのは簡単だが、その度に身の毛がよだつ」とあまり語りたがらなかったという。(『北越奇談』より)

 

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