黄海の海戦における松島 艦内の状況

 

この文章は、明治29年に東京で出版された、木村大尉の実見録を紹介するものである。木村大尉は、日清戦争当時、連合艦隊旗艦・松島の水雷長であり、黄海の海戦に従軍し、その悲惨な体験を生々しい錦絵と簡潔な文章で公開した。

 この実見録は、大変な話題となり、大阪朝日新聞や毎日新聞・読売新聞・国民之友といったマスメディアにも書評などのかたちで取り上げられ、洛陽の紙価を高めたものである。

戦争の悲惨さをありのままに伝えるルポルタージュは,一見すると、反軍・反戦思想とも言える内容であり、現役の海軍将校が、堂々と公表している事実を考えると、明治時代の軍部が、昭和のそれに比べて、いかに大らかだったかを思わせる。

(黄海海戦当時の連合艦隊司令長官・伊東祐享(すけゆき)中将が巻頭に揮毫している)

 

(原文はカタカナ交じりの文語体ですが,読みやすいようにすべてを口語に改め,一部意訳・一部省略してあります。したがいまして,この文章は、木村浩吉大尉の原文を忠実に訳したものではありません。)

                                     

 

 

日清戦争で黄海に大勝し,敵の制海権を奪い,大御心を安んじ奉ったのは,明治27年9月17日のことであった。この日は払暁より天気晴朗にして,海水は緑色,平滑であった。

 

 

連合艦隊 旗艦 松島 排水量4278トン 長さ99メートル 幅15,6メートル 明治25年 フランスで竣工。速力16ノット 

世界最大の戦艦であった、清国の定遠・鎮遠に対抗するため、32cm砲1門を搭載したが、砲が重いために照準が付けられず、設計ミスから射撃不能であった。魚雷発射管4門を備え、大いに期待されたが、黄海の海戦では魚雷の出る幕はなく、結局、小中口径の速射砲が日本海軍を勝利に導いた。

松島は不運な艦で、明治41430日 遠洋航海の途中、台湾の馬公停泊中に謎の爆沈をしている。

日本海軍は三笠や筑波・陸奥など、謎の爆沈をした艦が多い。下士官兵につらくあたる、海軍の階級制度の過酷さと、無関係ではあるまい?

 

わが艦隊の12隻は,仮根拠地の大同江より大孤山沖に向かって出発した。

先鋒の第1遊撃隊は坪井司令官の旗艦,吉野 以下,高千穂・秋津州・浪速の3艦が続き,本隊は伊東司令長官の旗艦・松島が嚮導となり,千代田・厳島・橋立・比叡・扶桑の5艦がしたがう。また,砲艦・赤城,代用巡洋艦・西京丸が列外に続いた。

(坪井航三・長州藩士 海軍創立時 少佐で採用される。男爵・海軍中将 明治31年歿)

(伊東祐享・薩摩藩士 海軍創立時 中佐で採用される。伯爵・元帥 大正3年歿)

坪井  明治30年 横鎮司令長官 

伊藤  明治28年 軍令部長 明治38年 軍事参議官

 

西京丸には、当時。軍令部長であった樺山が乗っていた。連合艦隊は、黄海の制海権を取る為に、苦しい索敵を続けていたが、なかなか敵の北洋艦隊に遭遇できずに苦しんでいた。それを樺山は、伊藤の敢闘精神の不足と悪意に解釈した。樺山は傲慢な男で、伊藤が若い頃、相撲取りをしていた事を挙げて、「貴様、たかがフンドシかつぎの相撲取りあがりのくせに,命が惜しいのか、卑怯者」などと暴言を吐き、自らは西京丸に乗って、督戦をしていたのである。

伊藤は、樺山から加えられたこの辱めを、生涯忘れなかったとも言われている。

苦しい索敵の航海の途上、水も食料も乏しい中、どうか、良き敵にめぐり合えます様にと、月に祈る水兵。それを見て兵の忠勇に涙ぐむ衛兵伍長。電池の無い時代であるから,石油のカンテラである。

当時は、二等・三等兵曹の軍服はジョンベラであった。衛兵伍長の下げている銃剣は、英国のマルチニー・ヘンリー小銃の銃剣である。海軍では馬式小銃と称して、正式兵器として採用していた。映画・ズール戦争で、英国兵が高性能を賛美していた小銃である。山中鹿之助ではないが、日本人は月を祈る伝統があるようだ。士官室で,浅野主計長と,ビスケットやビールを賭けて囲碁・将棋などを楽しんでいると,「船が見えるぞ」と叫ぶ声がある。煙ばかりで船体が見えない。煙の色から,英国艦隊でないことは確かだ。うまくいけば,定遠・鎮遠にもお目にかかれるかもしれない。

士官室では、シャンパン(当時は三鞭酒といった)を抜いて、敵の発見に欣喜雀躍である。士官全員が軍刀を下げているのは、敵兵の斬り込みに備えるためである。事実、北洋艦隊の平遠は、ラム(衝角)と呼ばれる艦首前方の突起物を振りかざして、松島の側舷を突き破ろうと突進している。佩剣の外見は洋式のサーベルだが、中身は先祖伝来の日本刀であった。士官室内部は可燃物で満ちている。

 

艦橋に登ってみれば,煤煙はますます黒く,敵艦隊に相違ないと思われる。

昼食が用意され,食卓に着くと,みんなは嬉々として談笑している。あたかも,年頃のお嬢さんが芝居見物に出かける前のようなはしゃぎようだ。

 

下士卒にあっても,ようやく敵にめぐり合う喜びに,各自が新品の事業服に着替えている。わたしは,負傷の用意に,白木綿のハンカチと、望遠鏡・双眼鏡を携え,戦闘用意のラッパを心待ちにしていた。本日の服装は,司令長官以下,士官・准士官は紺の通常軍服で,長剣を帯びていた。下士は上下紺の通常軍服,卒は白木綿・小倉の事業服であった。

 

冷蔵庫の無い時代である。食用の牛が甲板で飼われている。当時の艦には屠殺夫も乗っていた。後方中央に見えるのは、錨鎖を巻き上げるためのキャプスタン。驚いたことにキャプスタンは人力である。下士卒の肩に見える線は、右舷直・左舷直を示す。この時代の事業服はセーラーカラーではない。日露戦争の時にはセーラーカラーとなる。
おもしろいことに,事業服が半袖である。海軍には半袖の服は存在しなかった。これは,官給品の袖を裂いて,各兵が作ったのであろうか? そんなことは,とても考えられないが?

思えば,乗組員は,7月23日に佐世保を出港してより,昼夜の警戒勤務に疲れ,飲料水の不足に悩まされてきた。勤務が終わっても,汗を清水で拭くこともできない。それどころか,米のとぎ汁が下士卒の飲料水になっているほどであった。しかも朝鮮海は降雨も少なく,たまたま雨にあっても雨水は一カ所に集められ,番兵が厳重に管理する有様だった。これから弾丸雨中の戦場に臨むにあたり,垢面を恥じて,みなは海水で手や顔を洗い,髪をとかし,見違えるほどの好男子に変身した。

正午・松島は北緯38度32分5秒,東経123度35分の地点に達した。10ノットの速力で敵艦に向かっていた。

正午から3分後,戦闘のラッパが鳴り,真新しい大軍艦旗がマストに翻った。

松島のブリッジの様子。ブリッジは、1850年代、外輪船の時代に登場した。

もともとは、左右の外輪が調子よく回っているか、確認するために、左右の舷側に橋をかけたものであった。当時のブリッジには司令塔も無い。

 

 

尾本艦長の経歴

(尾本知道 神奈川出身 海軍創立時に大尉で採用される。中将 大正14年歿)幕臣 27年 佐世保鎮守府参謀長  明治31年 竹敷要港部司令官

明治36年 馬公要港部司令官で待命

 

尾本艦長の号令で,士官以下はそれぞれの部署についた。向山副長は艦橋で,戦闘準備完了の報告を受ける。(向山慎吉 兵学校5期 明治11年卒 男爵・海軍中将 明治43年歿 軍歌・勇敢なる水兵の唄に出てくる副長である。

同期生に出羽重遠・赤城艦長で戦死した坂元八郎太、伊東義五郎などがいる。)

幕臣 明治28年 大和艦長 明治32年 浅間艦長  明治三十三年,敷島艦長 明治36年 舞鶴工廠長   明治41年 竹敷要港部司令官 待命

 

 

零時22分,はじめて敵の船体を認める。敵は旗艦・定遠・鎮遠を中央に置いた,後翼単梯陣のごとき不規則な形をしている。わが艦隊の,正々堂々たる陣形とはくらべものにならない。しかれども,敵の艦首は,ことごとくわが艦隊の舷側に向かって突き進んでくる。零時50分,いまだ6000メートルの遠距離にもかかわらず,定遠は吉野に向かって発砲した。続いて敵艦隊のすべてが発砲し,たちまち遊撃隊の周辺は噴き上がる水柱に囲まれた。敵の砲員の技量は,決して侮れないものがあった。松島の周辺にも敵弾は集中したが,わが艦隊はいまだ発砲せず,敵艦隊の右翼に向かった。

 敵艦隊まで3000メートルの距離になったとき,わが艦隊は発砲した。重砲は定遠・鎮遠を狙い,中型砲以下は超勇・揚威を狙い,たちまち敵艦の上部構造物を破壊した。

 

砲煙は敵味方の艦隊を覆い,巨砲の発射に艦は激動し,間断のない発射音・破裂音に,号令など聞こえない。わが砲員は,そのなかにあって,教練射撃のように,所定の位置を乱すことなく一発ずつ,確実に発射する。撃ち殻薬莢も確実に鎮守府に返納するために,数を数えて、きちんと舷側に並べていた。

零時58分,松島の32センチ砲が第1弾を放つ。定遠の五彩の提督旗に飾られた大マストは打ち倒され,敵艦隊は信号旗をあげることもできず,たちまちにして陣形が崩れた。

わが艦隊の整々とした単縦形に比べると,敵艦隊の敗色はあきらかである。

特に超勇・揚威は盛んに黒煙をあげ、それを見るとわたしは,なんともいえず愉快であった。わたしは水雷長の職にあったので,水雷方位盤のそばに立ち,水雷発射の時機を窺っていたが,いかんせん、距離が遠すぎて,その機会がなかったのは残念至極であった。

左舷砲台は,砲術長である志摩大尉(志摩清直・兵学校八期・明治14年卒業)が指揮し,右舷砲台は一番分隊士の伊藤少尉(伊藤満嘉記・兵学校15期・明治22年卒 同期生に岡田啓介・財部彪・竹下勇など 松島にて戦死) が号令をくだしていた。おりしも超勇は沈み,敵の乗員は裸体となって泳いでいる。志摩大尉は別の目標を指示するために左舷砲台に立ち返ったが,それが志摩大尉の最後の姿となった。

2時30分、戦闘列外にいた平遠が,松島に追突しようと,猛然と向かってきた。わたしはただちに魚雷の発射用意を命令する。そのとき,松島の追撃砲が猛烈な砲撃を加え,平遠は右に転じて逃げようとした。わが艦は距離1500メートルで,平遠の左舷をとらえ,速射砲で猛射した。敵艦は火災に包まれ,その惨状を見て,心痛むほどであった。

しかしそのとき,平遠の26センチ砲が松島の左舷に命中した。弾丸は下甲板治療所を斜めに貫き,32センチ砲塔のところで爆発した。

 

 猛烈な激動とともに硝煙が立ち込め,水雷発射室内は,一寸先も見えない。窒息寸前の状況の中で,発射管員4名は,むごたらしい戦死を遂げた。そのうちの一人は,血肉が少量付着した衣服だけを残して四散した。続いて,平遠の47ミリ弾が中央水雷室に命中し,再び,発射管員2名を倒した。かくして中央水雷室はことごとく破壊され,上下四辺は砕けたる骨肉が付着して,荒壁のごとくなり,甲板は血肉があい交じり,滑って歩けない有様であった。中央発射管員を指揮する井手少尉は,(井手篤行・兵学校17期 明治23年卒 同期生に秋山真之がいる。大佐で予備役 昭和14年歿)わたしの側に来て,水雷発射の不能と部下の戦死を告げた。少尉の胸部を見ると,一面血液に染まり,背面には生肉が厚くこびりついている。わたしは,何度も,優秀な部下を失ったことを悲しみ,涙が止まらなかった。実に生と死は紙一重であり,一発の水雷を撃つことなく戦死した部下が哀れであった。

 

超勇・致遠が沈没し,揚威が火災を起こすと,敵艦隊は西方に遁走をはじめた。われわれ本隊は,定遠・鎮遠に砲撃を集中したが,3時30分,鎮遠の30サンチ砲弾が二発,松島左舷下甲板に命中した。一弾は4番砲身にあたり,上甲板を破り右舷に落ちた。もう一弾は4番砲内部で爆発して周囲の薬莢に誘爆したため,舷側は長さ3間 幅1間にわたって破砕され,下甲板は左右舷ともに3〜4坪もの広さの穴があき,被害は水罐にまで達した。電線・伝声管・蒸気菅はことごとく破壊され,さながら草のつるが垂れ下がっているようであった。丈夫な階段も粉微塵となり,志摩大尉以下,28名は,あるいは四散し,あるいは胴より上がちぎれ,あるいは下半身のみが残り重傷者も30余名を数えた。

この惨状に続いて,火災と火薬ガスが充満し,まわりは暗夜のごとく暗かった。防火隊も窒息の危険のために近づくことすらできなかったが,あまりに大きな舷側の穴であったため、かえって新鮮な空気が入り,30分で消し止めることができた。

このように,下甲板の砲員・弾庫員は,ことごとく死傷し,火薬ガスのために蒸し焼きにされ,毛織製の服を着ていたものは服が焼けて裸体となり,頭髪は灰になり,皮膚は墨のように黒焼けとなった。また,破片で腹を割かれ,手足を失い,あちこちから悲鳴が上がった。わたしは,被弾のときには司令塔の外にいたが,下から上がる白煙と水蒸気に,いまにも艦が沈むかと思ったほど

 

重傷者を助けて,士官公室に入ると,黒焼になった重傷者が机の上下,ソファーの上に横たわり,室内は足の踏み場も無い。水をくれという声と,呻吟する声に交じり,2〜3の重傷者は,わたしの姿を見て,「水雷長」と呼び,水をもとめる。

土瓶に水を汲んで,つぎつぎにこれを飲ませ,定遠・鎮遠の状況を問うものには,「敵は,戦闘力を失った,安心せよ」と励ます。わたしを「水雷長!」と呼ぶ者は多いが,すっかり容貌が変わっているので,どこの誰ともわからない。

そのなかの一人が、「わたしは大石候補生です」と名乗りをあげた。重傷者のあいだを,踏みつけないように抜き足で進み,そばに寄ると,大石候補生は黒焼になり,乳下からの出血が著しい。水を与えた所,彼は丁寧に礼をいい,その様子は普段と少しも変わらない。「残念ながらやられました。」と言うので,「なにか,言い残すことは無いか」と聞くと,「なにもない」と答え,そのまま息を引き取った。

(大石馨 兵学校20期・明治26年卒 同期に斎藤七五郎がいる。)

あちこちから,水を求める声があり,また,苦しいから上着を裂いてくれという声がある。もともと,水兵の事業服は上下ともすこぶる,寛大にできているのだが,蒸し焼きされたために,全身が膨張し,衣服は破れんばかり張りつめている。水兵は,事業服の胸に入っている,折りメスを示しながら,衣服を切ってくれと頼む。そこでわたしは,上着やズボンを切り裂こうとしたのだが,服とともに,皮膚がズルズルと剥ぎ取られるために,止めてしまった。そのうちに重傷者六七名は,はや落命し,室内は次第に静になった。

 

机の上にいた重傷者は,もはや最後の覚悟をしたのか,急に端座し,合掌して,南無阿弥陀仏と唱え出した。机の下の重傷者がこれを聞き,大喝し,この場に及んで,何を言うか,と激怒したが,この人もほどなくして落命した。そのうちに看護兵が来たので,
わたしは自分の持ち場に帰った。

 

そのころ,孤立した定遠・鎮遠は,水雷艇をしたがえて,さながら負傷者に看護人が寄り添うようなかっこうで,南を目指して逃避していた。

松島の損傷は甚大であったため,佐世保への帰到が命じられ,午後7時半,司令長官は幕僚を率いて,松島から橋立に移乗した。

松島の損害は,実に死者57名,重軽傷者56名にのぼった。

 

この海戦の下士卒の勇敢さは,比類なきもので,向山副長や士官たちとも話し合ったが,無残な同輩の死体を見ても,すこしもするまず任務を果たした。

農工商から徴募された下士卒が,封建時代の武士をしのぐほどに勇敢であった事実を特記したい。これも万世一系の陛下を仰ぐゆえかとも思われる。

明治28年 佐世保海軍病院慰問に来た皇后を出迎える、病院長以下看護婦・傷病兵。よく見ると、看護婦は島田髷を結っている。病院長は将校相当官であるから、袖章に半円(日の丸環と称した)は付いていない。階級は軍医大監(大佐相当官)この時代の海軍の下士卒は,長髪で,多くは美髯をたくわえている。

 

松島の戦死者

 

士官は 志摩大尉・伊東少尉・大石候補生

下士は,一等兵曹2名  二等兵曹3名  三等兵曹5名 三等軍楽手2名

    三等主帳1名

卒は  一等水兵8名  二等水兵16名 二等軍楽生2名

    二等火夫1名  三等水兵9名  四等水兵5名

そのなかに,「まだ沈まずや定遠は」で有名になった、三浦虎次郎という18歳の三等水兵がいた。 

明治28年の松島艦上に於ける勲章授与式。善行章二本の三等兵曹や、三本の二等兵曹がいる。士官はネルソン時代さながらの、大時代な服装をしている。こんな服装を、昭和10年代までしていたかと思うと、めまいを覚えるほどである。

近衛兵に守られ,靖国神社を参拝する明治天皇。この先,どのように社会情勢が変ろうとも,天皇陛下が靖国神社を参拝できる環境は二度と来ないであろう。日本人として,寂しく残念の限りではある。

戦捷を祝う盃か? あるいは戦死者を悼む盃か? かれらは全員が下士である。

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