(しゃ)()神社(じんじゃ)

 

斜里の神社は、斜里に斜里(しゃり)場所(ばしょ)(もう)けられこの地域(ちいき)の中心であった寛政(かんせい)8年(1796年)、このときの斜里場所請負人(うけおいにん)であった村山(むらやま)伝兵衛(でんべえ)弁天社(べんてんしゃ)寄進(きしん)[神社やお寺に寄付(きふ)すること]したのがはじまりです。このときの斜里の神社は、斜里場所の漁場(ぎょば)守護神(しゅごしん)(守り神)として海上神(かいじょうしん)住吉大社(すみよしたいしゃ)(まつ)っていた弁天社でした。場所は今の望洋荘(ぼうようそう)付近(ふきん)高台(たかだい)で、海に()かって()てられていました。また、幕末期(ばくまつき)[江戸時代の終りころ]に斜里をかいた谷口青山(たにぐちせいざん)目賀田(めかた)帯刀(たいとう)の絵、松浦武(まつうらたけ)四郎(しろう)紀行文(きこうぶん)[旅のようすを書いた文章]などには弁天社が記録(きろく)されています。

知床(しれとこ)博物館(はくぶつかん)展示(てんじ)されている旧斜(きゅうしゃ)里神社(りじんじゃ)本殿(ほんでん)はこのときにつくられたもので、小さいけれども斜里にある1番(ふる)建造物(けんぞうぶつ)です。(むら)山家(やまけ)が場所請負人をやめてからも代々(だいだい)の斜里場所請負人に祭られ、今の斜里神社から公民館(こうみんかん)(今の産業(さんぎょう)会館(かいかん))、資料館(しりょうかん)(今の図書館)に()けつがれて知床博物館に展示されています。この間、前浜(まえはま)(すな)にうもれていたときもありました。この旧斜里神社本殿は、昭和51年(1976年)11月8日斜里町指定(してい)文化財(ぶんかざい)になりました。

この他知床博物館には、斜里神社に奉納(ほうのう)[神や仏にさしあげること]された「歌枕(うたまくら)」と「絵馬(えま)」というものが展示されています。「歌枕」は、享和(きょうわ)元年(1801年)江戸幕府の役人が斜里への旅行(りょこう)中に、宗谷(そうや)から止別(やむべつ)までの地名(ちめい)を入れて和歌(わか)にして斜里神社に奉納したものです。このころは、宗谷から斜里まで20日以上かかるとてもけわしい道であったため、無事(ぶじ)に斜里に()くことはとてもよろこばしいことでした。「絵馬」は、文久(ぶんきゅう)2年(1862年)斜里場所請負人藤野家(ふじのけ)支配人(しはいにん)だった三右衛門(さんえもん)という人が奉納したものです。題材(だいざい)は『三国志(さんごくし)』の「桃園(とうえん)(ちぎ)り」の場面(ばめん)をかいたものと思われます。このころの絵馬は、(ふな)絵馬(えま)一般的(いっぱんてき)人物(じんぶつ)をかいた絵馬はあまり多くありませんでした。作者(さくしゃ)はこのころ大阪(おおさか)活躍(かつやく)していた(よし)本善京(もとぜんきょう)という有名(ゆうめい)絵師(えし)で、吉本善京のかいた船絵馬は、北前船(きたまえせん)という船の航路(こうろ)にある港の神社にはたくさん奉納されています。斜里に(のこ)るこの絵馬は、日本で1番北東(ほくとう)にある絵馬の1枚です。この「歌枕」と「絵馬」も昭和51年(1976年)11月8日斜里町指定文化財となりました。

明治時代になってからは内陸(ないりく)開拓(かいたく)の守護神である天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭られ、今の斜里神社にかわりました。また、今の斜里神社は、昭和11年(1936年)に海を()にして建てかえられました。

 

旧斜里神社本殿(昭和51年11月8日斜里町指定文化財)

高さ118cm、巾65.5cm、奥行73.3cmの木造の流造り。(「知床博物館・姉妹町友好都市交流記念館展示解説」より写真引用)

 

歌枕(昭和51年11月8日斜里町指定文化財)

たて54.5cm、よこ154.5cm、厚さ3.2cmの木製。額には「奉献雑題、道祓歌枕」とあり、36首が詠まれています。なお、末尾の署名は北陰政幸・信好・保治、摂陽秀忠となっていますが役職や身分はわかっていません。また、誰が歌を詠んだかもわかっていません。(「知床博物館・姉妹町友好都市交流記念館展示解説」より写真引用)

 

絵馬(昭和51年11月8日斜里町指定文化財)

たて68.2cm、よこ145cm、厚さ1.1cm。材質はケヤキ。題材は『三国志』からとられたもので、中央に劉備玄徳、左に関羽、右に張飛と桃の木がかかれていますので「桃園の契り」の場面をかいたものと思われます。(「知床博物館・姉妹町友好都市交流記念館展示解説」より写真引用)

 

  

石燈籠

 今の斜里神社本殿のまん前に、2つの石燈籠が建っています。この2つの石燈籠は一体のものです。ともに白花崗岩でできていて、高さ160cm、中央の円柱の径20cm、台座は40cm角の高さ20cm、灯袋の受台の巾40cm、灯袋はくり抜かずに田印を刻んで窓を表現し、巾50cmの笠に高さ20cmの重ね飾玉を上げています。そして、正面には「奉納」、外側には「願主 三上伴七・住吉丸清六」、内側には「天保五甲午正月吉日」と刻まれていますので、天保5年(1834年)に三上伴七と住吉丸清六によって斜里神社に奉納されたものと思われます。三上伴七はそのころの斜里場所請負人藤野家の支配人だった人だと考えられています。また、住吉丸清六は藤野家の手船であった住吉丸の船頭だった人だと考えられています。

 左の3枚の写真は斜里神社に向って左側の石燈籠で、左が外側、中が正面、右が内側の写真。

 右の3枚の写真は斜里神社に向って右側の石燈籠で、左が内側、中が正面、右が外側の写真。

 

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