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長篠城は「長篠・設楽原(したがはら)の戦い」でよく知られるお城です。
長篠城は、愛知県東三河地方の山間部、
寒狭川と宇連川とが合流する地点に築かれています。
多くの街道が集まるこの長篠の地は要衝で、
武田と徳川の間で争奪戦が繰り広げられてきました。
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長篠城は、1508年(永正5年)に今川氏親の
属将・菅沼元成によってが築かれました。
その後、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで
今川義元が織田信長に討ち取られると、
城主・菅沼貞景は今川を見限り、徳川家康に従います。
その後、武田信玄が三河に侵攻するようになり、
1571年(元亀2年)には武田方に攻め落とされるのですが、
1573年(天正元年)に武田信玄が野田城攻めの後、
その生涯を閉じると、家康は長篠城をすぐさま奪還してしまいます。
この時、城主・菅沼正貞は徳川への内応の疑いで捕らえられ、
武田方に付いていた奥平貞能、貞昌(後の信昌)父子は
家康の下に逃れ、その後家康は、奥平貞能を
長篠城の城代としています。
この長篠城を巡る変遷はまさに戦国の
馬の生き目を抜くような凄まじさがあります。
そして、1575年(天正3年)武田勝頼は
武田軍1万5千の兵を率い、徳川家康を
叩くべく長篠城を包囲します。
「長篠・設楽原の戦い」の開戦です。
この長篠城には何度も訪れた事があるのですが、
2007年1月末に、野田城を訪れた後、
設楽が原古戦場と合わせて訪れました。

長篠城は南を流れる寒狭川と西を流れる宇連川は、
50m程の高さの断崖絶壁になっていて
ここからの攻撃はまず不可能です。
しかし北西には平坦地、北東には小高い丘があり
この方面の防御は甘くなっています。
この防御を固める為に3段の土塁と
空堀を短い間隔で並べていたようです。
上の写真は、内堀と本丸の間の土塁です。
ここを過ぎると本丸跡の空き地が広がってるのですが、
左手に大きな土塁跡が残っています。

この土塁は高さも4〜5m程もあり、幅も広く、
物見台か櫓でも載っていた様な感じがします。
この土塁の上に「長篠城址碑」が立っていました。

下の写真は、広々とした本丸跡です。

学校の校庭の様な空き地が広がっているだけですが、
当時は、本丸の東半分は野牛曲輪となっていたようです。
確かな事は判りませんが、長篠城の
東をJR飯田線が走っています。

この線路の向こう側が野牛曲輪なのかも知れません。

1575年(天正3年)5月8日、武田勝頼がこの長篠城を
取り囲んだ時、城内には奥平貞昌をはじめ
僅か500の守備兵しかいなかったそうです。
奥平貞昌、21歳。
武田を裏切って徳川を頼った奥平貞昌は
ここで武田軍と戦うしかありません。
1万5千の武田軍に包囲された長篠城は
野牛曲輪や本丸、そして3重の堀が築かれた
帯曲輪と攻め立てられ、14日には武田軍の
猛攻の前に落城寸前になってしまいます。
その時、奥平貞昌は家康に援軍を請うべく、
鳥居強右衛門という雑兵を岡崎城にいる
家康の下へと向かわせます。
長篠城を取り囲んでいる武田軍の包囲網をかいくぐり、
鳥居強右衛門は岡崎城までの50kmの山道を
一日で駆け抜け、家康に言上します。

鳥居強右衛門が城兵を勇気付け、そして
磔にされたのは、丁度この対岸だったようです。
武田氏の家臣・落合左平次は、
強右衛門の命を賭しての忠義に感動し、
磔にされている強右衛門の姿を旗指物に使ったそうです。

これがその絵です。
現地に行くと、鳥居強右衛門は頭を上に
磔にされているように描かれていますが、
逆さ磔にされたそうなので、この向きが正しいかと思います。
髪の毛が逆立ち、キッと前を向いた鳥居強右衛門。
彼の勇気と忠義溢れる行動で長篠城は持ち堪え、
織田・徳川連合軍接近の知らせを受けた
武田勝頼は長篠城の包囲を解き、
設楽原での合戦に向かったのでした。
長篠城を一通り見終わった後、絶壁の下を流れる
寒狭川の河原まで、降りて行ってみました。

とても深く切れ込んだ崖の下を川が流れています。
鳥居強右衛門が磔にされた
寒狭川の対岸には碑が立っています。
長篠城を訪れた後、そこにも行ってみました。
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