Home
Shane旅日記
鉄道旅行へのいざない



鹿児島城(鶴丸城)
Kagoshima (Tsurumaru) Castle, Japan


登城日:
2006. 11. 10







鹿児島城(別名、鶴丸城)は1601年(慶長6年)に、
島津家久によって築かれた薩摩藩の本拠地だったお城です。
城山を背後に控えた地に建てられています。

地図はこちらです→ Mapion

それ以前の島津氏は、これよりも北東にあった
清水城(現、清水中学校)や内城(現在は、大龍小学校)に
本拠を構えていました。

関ヶ原の戦いで西軍に付いて敗れた島津氏が
その翌年に築城を始めたというのは、
微妙な時期の築城だったのではないでしょうか?
徳川家に恭順の意を示す一方で、
万が一の場合を考えていたのでしょうか?

現地の案内板によると、鹿児島城は北側に本丸、
その南側に二の丸を配していますが、その規模は小さく、
背後の城山を、籠城戦用の後詰の城として利用したとしても、
石高77万石の薩摩藩のお城とは思えない程です。




本丸を囲う堀も一部分しかなく、
また天守も建てられなかったそうなので、
万が一に備えての築城ではなかったのでしょう。


この鹿児島城へは、まず城山の史跡を巡り、
薩摩義士の碑を訪れた後に本丸を訪れました。

鹿児島市内の旅行記は>こちらです。


薩摩義士の碑は、鹿児島城本丸の
北西の角に位置しています。

その目の前に、石垣と堀が続き、
本丸への土橋も見えていました。



この堀が鹿児島城の北の端に当たります。
道を隔てた北側には、西南の役の
発端になった私学校跡があります。

城山を背にお堀に沿って東に進み、
お城の北東の角に出ました。



この北東、丑寅の方角は鬼門とされています。
そこで、丑寅の石垣の角が欠き取られ、
魔よけとされています。

この角を左に折れると、鹿児島城本丸の正面です。
大手門にあたる御楼門跡への石橋も遠くに見えてきました。



お堀の幅も広くなり、蓮でしょうか葦でしょうか、
一面に冬枯れの植物が茂っていました。

本丸の東西の面の丁度真ん中辺りに
石橋が架かっていて、ここが御楼門跡です。
古写真を見ると、石橋を渡った先の
左右の石垣に御楼門が架かっていました。



その御楼門も1874年(明治7年)に、
焼失してしまったそうです。

御楼門の跡は石垣の立派な枡形が残されています。



石橋を渡り、石垣を間近に見てみると、
石垣の表面にはいくつもの穴が開いています。



鹿児島城の北隣の私学校の石垣には
西南の役の時の弾丸の跡が残っているという事ですが、
鹿児島城の石垣の無数の穴も
この時の弾丸の跡ではないでしょうか。

この虎口を上ると本丸跡です。
今は、鹿児島の歴史を伝える黎明館が建っています。



鹿児島旅行の最終日の朝に黎明館を訪れたのですが、
当時の鹿児島城のジオラマによると、
天守は置かれず?葺きの御殿があったようです。

本丸の南東の角には御角櫓が建っていて、
その跡に礎石の一部が残されていました。



鹿児島城は、本丸と二の丸の周囲の石垣は
ほぼ完全な形で残されていますが、
建物の遺構はないので、この礎石は貴重なものです。

この御角櫓や御楼門は、写真も残されているので、
なんとか復元出来ないものか、と思っていました。


この御角櫓の先に石垣があり、その先が二の丸です。




当時は、この石垣に沿って堀があった筈ですが、
この堀は今では埋められ、桜の木が植えられています。
二の丸は、本丸よりも一段低くなっています。

二の丸跡には県立の図書館が建てられています。
下の写真は、二の丸跡の図書館の入り口です。




当時は、ここの門があったのでしょうか。
紅葉しかかった木が陽に映えて綺麗でした。


こうして、鹿児島城を巡ってみると、やはり大藩だった
薩摩藩の本拠としては小さな規模のお城でした。
武田氏の居城だった躑躅ヶ崎館と同じ様に
中世からの館城の形態だったようです。

躑躅ヶ崎館の様子は>こちらです。


薩摩藩は外城制と呼ばれる、藩内各地に支城網を築いていた様です。
その城の数は92ヶ所にも及び、1615年(元和元年)に発令された
一国一城令後も例外として認められたそうです。
色々な雑誌や本を読むと、その外城制があるが故に、
本拠の鹿児島の城の規模は小さくても良かったとあります。

この外城制は、九州を制覇を狙った薩摩藩が多くの家臣を抱え、
すべての家臣を鹿児島城下に住まわす事が出来なかった為に、
採用されたのですが、元和の一国一城令以前には、
他の藩でも領内の何箇所かに城を構えています。

また関ヶ原の戦い直後には幕府直轄の名古屋城や
大阪城、江戸城だけでなく、加藤清正の熊本城の様に
外様大名も大規模なお城を築いています。

そう考えると、鹿児島城がこの時期に規模の小さな
お城を築いた理由が、外城制に頼って薩摩を守る
為だったというのはちょっと疑問に思えてきます。

尚古集成館で買った『島津家おもしろ歴史館』によると
関ヶ原の戦い以降、島津氏は徳川家康に対し
恭順の意を示し、ひたすら忠誠を尽くしていたそうです。

となると、あえて規模の小さな鹿児島城を築くことで
徳川家康に対し、反抗の意志の無い事を
行動でも示そうとしたとも思えてきます。

鹿児島城址を巡りながら、
そんな素人考えが頭に浮んできました。



"日本全国お城巡りの旅"に戻る

"鹿児島旅行記"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る


Home
Shane旅日記
鉄道旅行へのいざない