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第4回労働映画上映会資料 鉄道、映画、労働運動

 

                 2009年7月11日早稲田大学にて(文責 佐藤洋)

 

<上映作品>

『驀進』            2巻、構成・編集:岩佐氏寿、撮影:日本映画社・朝日映画社他)

                             194611月完成  労働組合映画協議会第一回作品

 

『機関車C57』    (4巻1286米、構成:杉本重臣・演出:今泉善珠・撮影:大小島嘉一)

                            194158日公開  藝術映画社作品

 

1)労働組合映画協議会(労映)を歴史とするために

 これまで3回の上映会で、労働組合映画協議会の存在を知ることはできた。今回、労映第一回作品を上映するにあたって、あらためて考えてみたいのは、労働組合映画協議会とは何であったのか?このナイーブで根本的な問題である。

労映第一回作品である『驀進』は、国鉄労組との提携によって完成した。194610月闘争を製作機会・主題とした作品である。製作されるにあたっての資料は次の通り。

資料:「国鉄総連合会ではわれわれ職員の深刻な生活状態と真摯なる叫びを今次の馘首反対闘争に結び付け、日映朝日ニュースの記録を中心に“国鉄勝利の記録”全2巻を発表することに決定直に製作を開始した.

その具体的内容は

   内容 国鉄内状―職員の生活―馘首発表―争議勃発―経過―共同闘争―ゼネスト中止―争ひは終わらず

   製作 国鉄労組総連合会、労組映画協議会

   撮影 日本映画社、朝日映画社

   後援 産別、総同盟、映画演劇労組

完成予定は十月十五日で十一月から各地で上映する筈である、大いに期待出来るものである」

    〔「国鉄勝利の記録十一月から各地で上映」『驀進』第7号、1946111日〕

 

そもそも労働組合映画協議会は、19466月に労働組合映画委員会として成立。8月改称。

成立に力をもった連合国軍民間情報局からの示唆は、その後の労映活動の目的とも重なる。

 

「(A)労働組合員を啓蒙教育し、労働組合の発展を計る為に映画のもっている機能を最大限に活用すること。(B)その方法として、映画を組合員自らが製作し、また製作された映画をもって、組合員自らが、映画活動を行う必要があること。(C)右の目的を達成する為に、各組合の協調機関をつくっては如何」。

 

第一回作品を見ても、その後の作品系譜を見ても、「労働組合員を啓蒙教育」するという組織目的は一目で見てとれる。〔労映について詳しくは、河西宏祐「「電産十月闘争」記録映画発掘の記」〔『聞書 電産の群像』(平原社、1992)所収〕や、佐藤洋「労働組合映画協議会の位置づけ」『映画学』19号、2006年を参照してください〕

 

2)労映の研究史について:映画運動と“実験”映画:総合的な視線を

 今日の社会状況の中で、労映の「啓蒙教育」スタイルは驚きをあたえ、輝いてさえ見える。だが、その「啓蒙」の目的とスタイルこそが、労働組合映画協議会の活動を歴史から葬ってきたことも忘れてはならない。この事情は、2000年代にいたるまでの映画史・映画研究史を顧みてはじめてわかる。ポイントは松本俊夫による映画界の戦後責任批判[「作家の主体ということ」(195712月発表)]にあり、その松本の批判を基盤とした、1960年代の映画運動の分裂にある〔土本典昭・小川紳介らも加わった「映像芸術の会」と「記録映画作家協会」の分裂〕。

 

 資料:松本俊夫『映像の発見』(1963年、2005年に復刻)「東宝争議以来共産党によって指導されてきた映画運動は、一応55年の6全協までにすでに自己崩壊している」「その運動は50年のコミンフォルム批判を契機とした日共の分裂と抗争、そして5全協、新綱領という経文をかかげたウルトラ火炎瓶主義とその裏返しに捉えられた俗流大衆路線、これら6全協にいたる日本革命史上もっとも大きな誤りを重ねた政治運動のうえに、その文化闘争の一翼としてあった」。

〔この点については松本俊夫への佐藤洋のインタビュー「異質なものへの期待から生れつづける豊かさ」『映画学』21号(2008年発行)を参照〕

 

3)イデオロギーを越えて、映画史研究が労働研究にできること

 だが、労働組合映画協議会やそこにつらなる様々の映画製作は、いまだ検証されてもいない。棄て去るには早すぎる。『驀進』にしても、啓蒙的主題とは別に、日映ニュース等既存の映像を編集して製作した表現は、同時代に亀井文夫と吉見泰が製作した『日本の悲劇』(日映、1946年)と似た表現スタイル〔コンピレーションフィルム〕である。それは、労映の作品が真空状態の中から生れた規範的な作品ではなく、映画史のある時点で製作された作品であることを思い起こさせてくれる。

 

 映像表現の歴史性は、同じ国鉄・労映製作の『号笛鳴りやまず』(1949年完成・公開)により顕著である。一見して気がつくのは、その“実験的”表現スタイルである。意図的に崩した構図を積み重ね、編集のリズムも工夫する。1960年代に流行した“実験”スタイルの前奏がここにはあり、「真の政治性と芸術性とは一致するという事をこの映画が現実に物語っている」と当時の批評もその点を評した。実験的スタイルは偶然ではない。この作品のカメラを担当した仲澤博治は当時、宮嶋義勇らカメラマンを中心とした研究集団「映画前衛集団」の機関紙発行者だった。

 

 さらに、『号笛鳴りやまず』が、戦前の藝術映画社作品『機関車C57』を引用したことも見逃せない(資料参照)。『機関車C57』は戦時中に藝術映画社が目指したソシアルドキュメントの一つの到達点である。1930年代、文化ニュース劇場の確立によって、ドキュメンタリー映画は劇場で定期的に上映・鑑賞される機会を初めて得た。その機会にさらなる力をえた若いドキュメンタリストたちは、戦時下の制約のなかで、ドキュメンタリー映画という新しい表現形式にいどんだ。その一つの潮流が、大村英之助率いる藝術映画社のソシアルドキュメントの伝統である。『雪国』(1939年)では東北に生きる人々を記録、『知られざる人々』(1940年)では、東京市下水課の従業員の労働生活を記録、『ある保母の記録』(1942)は、戦時下に幼児をつつむ保母たちを記録。その表現の一つ一つが議論のまとになって、ドキュメンタリー映像表現を形づくり、戦後に引き継がれた。『驀進』のコンピレーション形式にしても、戦中に亀井文夫が文部省の委託を受けて、当時の内外のニュース映像を編集して製作した『支那事変』(1938)や三木茂撮影のフィルムを編集した『上海』(1938)に一つのメルクマールがある。

 

このような映像表現の継承・変化の視点によって、労働組合映画協議会の作品は、日本ドキュメンタリー映画史の系譜の中にシッカリと位置づけられる。一つには、1950年代以降の労働映画・実験映画、両者の系譜において。もう一つには、戦前からのドキュメンタリー映画の系譜において、である。