雨音色・番外編









夏時計










それは、夏の暑い日の出来事だった。


明治天皇が崩御され、新しい天皇が即位した。


元号が大正へと変わった。


「おはようございます」


街ゆく人々は、天皇の崩御を悼み、新たな天皇の即位を祝ってはいるが。


「おはよう、藤木君」


しかし、この研究室は相変わらずだった。


研究室の窓辺には、


ついこの前まで牧がいた独逸帝国の土産であるガラス細工の置物が飾られている。


夏の太陽に照らされ、キラキラ輝いているように見えた。


しかし、今の彼らにそれらを楽しむ余裕はない。


左手に扇子を持ち、


右手に持つペンのインクが滴り落ちるのにも気がつかぬまま、


藤木が両手に抱える大量の本を見ながら言う。


「御苦労さん。重かっただろう」


額に光る汗を拭いながら、藤木は答えた。


「いえ、これぐらい何ともありません」


満面の笑みで、彼は言った。


その笑みに、少しも皮肉や嘘が見えない所が、


彼の長所でもある事を、牧は知っていた。


専攻は違えど、旧友の息子であり、学部時代から指導しているのである。


ゼミナールの中でも、性格、学力、共にずば抜けていることを、彼はとっくに見抜いていた。


「しかし、今日は本当に暑いなぁ・・・」


扇子を優雅に仰ぎながらも、


その空気の蒸し暑さは、全く優雅とはほど遠いものであった。


藤木は牧の机の隣に立ちながら、次の彼の指示を待っている。


壊れてはいないものの、ずり落ちて鼻眼鏡のようになった、


古びたそれを彼が手で元になおす。


そして、ぼさぼさの頭に手を載せながら、


彼は牧のこぼしたインクを着ていた着物の裾で拭う。


「・・・そういえば、そろそろ論文の題材は決めたか?」


藤木は研究生になってまだ1年目。


まだまだ論文は一本も書けていないが、そのトピックぐらいはもう決めてある。


「はい。

つい2週間前にあった、

準詐欺罪の構成要件である『心神耗弱』について書こうと思っています」


丁度明治天皇が崩御する前に出された大審院の判例である。


彼にとっての新しいもの、未知なるもの、


というのは父親譲りのおっとりとした性格を持つ彼にとって、


珍しく好奇心を激しく揺さぶるのである。


それ故、刑法という、学問分野として未だ新しい領域に踏み込んだのである。


「そうか。あまり先例がないから、独逸の判例や学説の検討が中心になるだろうなぁ」


気だるそうに牧が言う。


完全に彼の右手は止まっていた。


どうにかしなければならない。


その手を動かさせるために、今日彼はこの研究室に来ているのである。


来月の学会に、牧が発表する論文を出来る限り、


少なくとも下書きぐらいは今日中に仕上げなければならない。


父を失くし、退学を余儀なくされていた自分を救ってくれた恩人に報いる為にも、


何とかしなければ。


「・・・あ、そうだ!」


ふと、彼に妙案が浮かぶ。


「ん?どうした」


「先生、氷菓子食べますか?」


「おぉ!それは良いな。私は抹茶に小豆が乗っているものが良いな」


「分かりました。それじゃ買ってきます」


彼は急いで部屋を出ようとする。


「あ、これ、藤木君!」


ドアを開けると同時に、牧が呼びとめた。


そして着ていたズボンのポケットから財布を取り出す。


「これがなければ買えんだろう」


まだ、なけなしの給料しか出ない藤木の身分も、牧は十分理解している。


「・・・ありがとうございます」


彼は深々と頭を下げ、廊下を掛けて行った。


「まったく、そんなに急がんでも良いものを」


そうほくそ笑みながら、彼は再び机に戻った。










じりじりと頭の上で照りつける太陽の暑さを頭で感じながら、


彼は行きつけの洋食屋「エリーゼ」へと向かう。


常連の彼であれば、女将はきっと喜んで作ってくれるだろう。


本人曰く、藤木が彼女の、戦争で死んだ息子にそっくりで器量良し故に、


彼には色々良くしてくれるのである。


暑さで少し歩く速度は遅いが、師匠の為にも急ぎ足で道を歩いていた。










エリーゼから抹茶味と練乳味の2つの氷菓子を両手に持ちながら小走りで大学へ戻っている所だった。


近道をしようと、いつもは通らない人通りの少ない裏道に入った。


そこで、珍しい光景を彼は目にした。


「・・・こんな所で、絵?」


紺色の無地の浴衣に身を包み、目深に麦藁帽子を被った小柄な人が、


座って絵を描いている。


その傍にはその人が描いたものであろう絵が1枚飾られていた。


彼自身、芸術と呼ばれるものにはそれ程興味はない。


いや、むしろ学生時代の成績から言えば、好意すら持てない、


と言った方が適切かも知れなかった。


しかし、「未知なる新しいもの」が、


彼の隠れた好奇心が、足の向かう方向を変えてしまう。


「・・・あの」


思い切って声を掛けてみた。


気のせいか、その人は肩を一瞬びく、と震わせた。


「どうしてこんな所で、絵を描かれているのですか?」


俯いたまま、その人は答えない。


ただ、右手は止まっていたから、恐らく彼の声は届いているのであろう。


しばらく返答を待ってはみたが、返ってくる気配はなかった。


仕方なく、彼はその人の傍に置かれた絵に目を遣った。


「良い絵ですね」


想った通りの事を、彼は口にした。


そこに描かれていたのは、一面向日葵に囲まれた、大きな古時計だった。


鮮やかな黄色や橙色が夏の日差しの様に眩しいが、


その中央に眠るように横たわる時計が、どことなく哀愁を漂わせていた。


すると、その人が顔を上げた。


「本当に、そう思います?」


掠れた、低めの声ではあったが、想像以上に若かった。


「はい。・・・その、芸術とかよく分からないのですが、

僕はこの絵が気に入りました」


父が愛用していた古時計に似ているからなのかもしれなかったが、


彼はその絵に描かれた作者の感情が、どことなく伝わってくる、そう感じていた。


「・・・ありがとうございます」


その声は、少し掠れ、震えていた。


彼はじっとその人を見つめる。


「・・・あの、失礼なことを聞くかもしれませんが・・・。

誰か大切な人を、亡くされましたか?」


「え?」


「僕も、つい1年前、父を失くしましたが、

何となく、この絵から伝わってくる気持ちが、

その時の僕のそれに似てるなって・・・」


蝉の鳴き声が聞こえた。


夏風が、通り抜けていく。


「・・・先日、母を失くしました」


涙を押し殺すように、声を潰しながらその人が呟く。


彼は、ただ何も言わずにその場に立っていた。


悲しみの厚さも、苦しみの重さも、彼には十分すぎるくらいに知っていた。


だから、慰める言葉は、出てこなかった。


「・・・その絵、きっとお母様も喜んでますよ」


「ありがとうございます」


帽子の影に隠れていない口が、ふと緩んだ。


そのしぐさに、思わず彼も嬉しくなる。


「あ、そうだ。この練乳の氷菓子あげます」


「え?良いんですか?」


「はい。これ食べて元気出して、良い絵をたくさん描いてください」


その人が氷菓子を両手で受けとった。


少しの沈黙があったが、その人の口が更に緩んでいった。


そして、差されていた木べらでそれを掬う。


「おいしい」


口が、笑っていた。


「ね?おいしいでしょ?」


夏風が、強く吹きつけてくる。


その瞬間、その人が被っていた麦藁帽子が飛ばされた。


「おっと」


藤木は急いでそれを取りに行く。


そしてそれを手渡そうとした。


「・・・あ、あなた、女性だったのですか?!」


まだあどけなさが残る顔立ちの少女が、気まずそうに目をそらす。


歳は、15、6ぐらい、といった所であろう。


「あの、誰にも言わないでくださいね」


麦藁帽子を受け取ると、再び目深にそれを被った。


そしてその場に彼女は腰かける。


彼は呆気にとられながら、その様子を見ていたが、ふと気になった事を尋ねてみた。


「あの、その絵、何という名前なのですか?」


彼女は少し考えるそぶりを見えながら言った。


「夏時計です」


「夏時計・・・」


相応しい名だと、思った。


その名の持つ余韻を、口の中で噛みしめようとしたその時だった。


「お嬢様!お嬢様!」


遠い所で、誰かの叫び声がした。


「まずいわ」


そう一言彼女が呟くと、持っていた画材や絵を片付け始める。


「・・・あの」


突然の出来事に、彼はただ唖然としているだけであった。


いそいそと片付け終わると、彼女は立ち上がった。


そして、軽く充血した目を細め、彼に言う。


「ここで貴方に逢えたのは、悲しんでばかりいる私の為の、母の贈り物かもしれない」


彼女の言葉が終わらぬ間に、遠かった叫び声が近付いているように思えた。


「それじゃあ、またいつか、逢える日まで」


「あ・・・」


「きっと、私、今日貴方と出逢えたこと、忘れないわ」


そう言い残して、彼女は足早に立ち去った。


その後ろ姿を、その場で彼は太陽を見るかのように目を細め見つめいた。


そして、脳裏に残る彼女の描いた「夏時計」を思い出す。


どことなく、眩しいと感じていた。


それが太陽の光だけではない、という事だけを、彼は分かっていた。


「僕もきっと忘れません」


そう小さく彼は呟いた。


心が、軽く穏やかだった。


思わず零れてしまいそうになった笑みを我慢しながら、彼は大学への道を急いだ。










「・・・藤木君、僕は抹茶水を頼んだっけ?」


「申し訳ありません」


帰った後、彼は再びエリーゼへ走ったというのは言うまでも無い。


しかし、その足取りは来る時より軽快だった。


もちろん、あの裏道は通ったが、彼女の姿はなかった。


「名前、聞いておけばよかったな」


しかし、その後悔とは裏腹に何となくであったが、


いつかそう遠くない未来に、再び逢えるのではないか、と彼は思った。


根拠などなかったが、


でも何故かそれに確信を持って良いと、そう誰かに言われている気がしてならなかった。










「タマ、幸花の様子は?」


大きな屋敷の一角で、暑いながらも洋装に身を包んだ紳士が心配そうに尋ねた。


「はい。それが帰ってきてから様子が変わりまして、

元気を取り戻したようでございます」


日本で屈指の財閥である山内家の末娘が行方不明という事で、


大々的な捜索が行われていたが、


何とか先ほど無事に見つかった。


急いで部屋に連れ戻し、姉達が泣きながら彼女を抱きしめていた。


「・・・そうか。幸花は特に甘えん坊だったからな・・・」


家出の理由は明らかだった。


数日前に、彼女の母親が亡くなったのである。


「・・・そういえば旦那様」


「何だ?」


「先ほど、幸花お譲様が旦那様にお見せしたい絵があると仰っていました」


その言葉に、彼は驚いた表情を見せたが、直ぐに笑顔に変わっていった。


「そうか。それでは直ぐに幸花の部屋に行くとしよう」


「かしこまりました」


タマ、と呼ばれた着物を着た女性が頭を下げ、部屋を後にした。


彼はしばらくその場に立ち、窓辺に飾られた一枚の写真楯を手にした。


「由希子。どうか私たちを見守っていてくれ。特に幸花は、まだまだ幼い」


そっとその顔に手を添えた。


感じる筈の無いぬくもりを、その指先に彼は感じていた。


そしてその隣に置かれていた、止まった古時計に目を遣る。


生前、由紀子が大事に使っていたものだった。


時間は、正午を指している。


夏の日差しに照らされたそれが、少しだけ歪んで見えた。


彼は右手で両目を覆い、そして写真を元の場所に戻した。


窓から見える庭に元気良く咲く向日葵の花が、視界に飛び込んできた。


鮮やかな色を放つそれらは、昨年彼女が娘たちと種を植えていた。


彼はしばらくそれを見つめ、部屋を後にした。


午後の太陽が、そっとその部屋を光で照らしていた。


かち、と針が動く音がした。


長い針が、彼の声に応えたかのように。



























あとがき






読んでくださってありがとうございます。


雨音色番外編です。


一応本編が大正6年ぐらいを設定としていまして、


ですのでこの話は大体5年前ぐらい、と思っていただけると嬉しいです。


当時の学校のシステムだと、藤木先生は未だ大学卒業したぐらいの筈です。


何か感想・批評等いただけると(誤字脱字などでも何でも構いません)


非常にうれしいです。


では、ありがとうございました!!




感動をどうぞ♪