志賀直哉『焚火』――教科書の風景 21


志賀直哉『焚火』
――大自然と人間の「不思議」な交感を描いた絶品
  Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く放った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んでいった。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んでいく。上と下と、同じ弧を描いて水面で結び付くと同時に、ジュッと消えてしまう。そして辺りが暗くなる……舟に乗った。わらび取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を回って、神社の森のほうへ静かに滑っていった。ふくろうの声がだんだん遠くなった。

赤城大沼。大洞から橋の架かる小鳥島を望む

 志賀直哉は大正四年五月、京都から鎌倉に移り、すぐにまた赤城山大洞に移った。父との不和から神経を痛めた妻の健康への配慮だったという。最初は猪谷旅館に泊ったが、夏場は客で混雑すると聞いて、近くに山小屋を建ててもらって、九月半ばまで住んだ。『焚火』はその時の生活を素材にしている。
 主人公夫婦は、旅館の若主人K、画家のSと夜の大沼にボートを漕ぎ出す。静かな晩で星空が湖水に映っていた。小鳥島に焚火が見え、四人も別の岸で焚火を始めた。そこで蛇や山犬、「大入道」などの話がはずんだ後、Kから不思議な話を聞く。前の年の冬、東京の姉の病気を見舞っての帰り、深い雪を踏み分けて鳥居峠を越えたことがあった。体力には自信があり、雪にも慣れていた。月明かりで峠もすぐそこに見えていた。ところが、その手の届きそうな距離が容易でなかった。恐怖は感じなかったが、気持ちが少しぼんやりして来た。ようやく峠を越えた時に、提灯の明かりが見えた。Kの呼ぶ声を寝耳に聴いた母が迎えをよこしたのだった。彼の帰る日は未定だったし、呼んだとしても聞こえる距離ではなかった。「夢のお告げ」を母が聴いたのは、彼が一番弱っている時だった。そんな不思議が生じたのは、K思いの母、母思いのKの関係だからだろう、と主人公は思う。掲出部分はそれに続く作品の結びだ。
 Kは猪谷六合雄がモデル。日本スキー界の草分けの一人。英才教育で息子千春をオリンピック選手に育てた人だ。彼が遭難しかけた鳥居峠には、今は立派な道路が通じている(一時はケーブルカーも通じた)。迎えの提灯に出合った覚満淵近くのビジターセンターには、志賀が滞在した頃の猪谷旅館の写真が掲げてある。二階建ての立派な造りだ。当時は旅館が二軒しかなかった湖畔の大洞にも、国民宿舎や土産物屋を兼ねる宿、ボート屋などが建ち並ぶ。小鳥島にも橋がかかり、赤城神社もそこに越した。その鳥居の側に『焚火』の末尾を刻んだ文学碑が建っている。
 『焚火』は中学でも高校でもよく採録された好教材だが、現在は姿を消したままだ。晩年の芥川が谷崎との論争で、最も純粋で詩的な作品の例に、この作品を挙げた話は有名だが、そうした作品が教材の世界でも不人気なのは寂しいことだ。  (清水節治・法政大学講師)

『月刊国語教育』 1999・12月号


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