松尾芭蕉『奥の細道』――教科書の風景 N


松尾芭蕉『奥の細道』
ーー風狂・求道の旅から結晶した紀行の名作
心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。いかで都へとたより求めしも理なり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、もみぢをおもかげにして、青葉のこずゑなほあはれなり。卯の花の白妙に、いばらの花の咲きそひて、雪にも越ゆるここちぞする。古人冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。 
 卯の花をかざしに関の晴れ着かな  曾良

白河の関跡の「おくのほそ道」碑

 芭蕉が『奥の細道』の旅に上ったのは、元禄二年(一六八九)「弥生も末の七日」で、日光、黒羽、那須を経てこの白河の関に着いたのは四月二十日、現在の暦でいえば六月七日にあたる。「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」とあるのは、当時はここからがまさに 「陸奥」(みちのく)で、異郷に足踏み入れる思いを旅人に抱かせる土地だったからである。
 この関にかかった感慨を詩歌に託す旅人も多く、白河の関は有名な歌枕の地ともなっていた。掲出文も、「いかで都へと…」が平兼盛の「たよりあらばいかで都へ告げやらむ」の古歌を下敷きにしているのをはじめ、能因法師や源頼政の歌、さらに古歌への敬意から「冠を正し…」て関を通った人の故事などが踏まえられている。つまり古人の「風騒」の思いに寄り添い、古歌のイメージに実景を重ねるようにして叙した文章だ。
 白河の関は勿来、念珠ととともに奥州三関の一つで、奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で設けられたといわれるが、芭蕉のころには既に廃れていた。那須湯本を立った芭蕉と曾良は、蘆野の遊行柳に立ち寄った後、関明神の所から奥州に入り、「古関を尋て…旗宿へ行」(『曾良旅日記』)き、そこで一泊、翌日古関跡を訪れている。 
 現在、白河神社を中心とした古関跡は、鳥居の前に松平定信の手になる「古関蹟」の碑が建ち、老木「従二位の杉」を含むうっそうとした木立ちの中に、後鳥羽天皇の歌碑や、兼盛・能因法師・梶原景季の「古歌碑」、白河の関の本文を銅板にしてはめ込んだ『おくのほそ道』の碑などが点在している。社殿の奥には空堀の跡なども残っている。
  『奥の細道』は戦前戦後を通じて最もよく採られている教材の一つだ。『奥の細道』をたどる者の絶えないのは(近世以来の芭蕉の足跡追慕の伝統もあり)、観光ブームということもあろうが、学校教育で誰もが芭蕉を通過していることの影響も大きいだろう。私も特に意識したわけではないが、この白河の関を含めてゆかりの地の多くを訪ねている。黒羽、象潟、市振など、その名にひかれてつい立ち寄りたくなるのは、『奥の細道』学習の遠い後遺症のようなものかも知れない。 {清水節治 法政大学講師)

『月刊国語教育』 1999・6月号


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