野坂昭如と自伝小説――「戦災孤児の神話」再々説 
                                         清 水 節 治


 これまで、活字・映像・音声などさまざまな媒体で自分を語ってきた野坂昭如は、最近ではインターネットにまでその場を広げてきた[1]。テロ、天皇制、農業問題から、ごみだし、いじめの対策まで話題も多彩なら、視点もまた巨視・微視、俯瞰・連想と縦横自在で、量こそは最盛期には及ばないものの、「雑文の雄」は古希過ぎてなお衰えを見せていない。
 その一九六〇年代から現在に至る膨大な発言内容には、活字の分野だけでも、エッセイ、自伝、自伝小説――と、多彩・多量の自己表出があって、現代日本でこれだけ自分を語り続ける人物は、他にはまずいないのでは、と思うほどだ。

文学の観点から言えば、中でもっとも注目すべきは自伝小説だろう。自身では「私小説」を自称することが多い[2]が、「作者の身近に起こった事実をそのまま材料とした、現代日本独特の小説」[3]と見なされている「私小説」としては、虚構性が強すぎる。オビに多用される「自伝的……」の語が、野坂小説の特質を一番よく捉えている。「自伝小説」はまだ市民権を得た用語とはなっていない[4]が、作者と主人公の同一性を匂わせながらも、虚構性の強い野坂作品には便利な呼称、といえる。『一九四五・夏・神戸』[5]『同心円』[6]に「私小説」はあてはまらないが、「自伝小説」と言えばぴったりする。『行き暮れて雪』[7]などもそうだし、実験的な手法や大胆な虚構を取り入れた『私の他人たち』[8]『名前のない名刺』[9]なども自伝小説なら収まる。近作の『妄想老人日記』[10]なども含めて構わない。まったく野坂昭如は本質的に自伝小説作家であり、娯楽読物風の作品を別にすれば[11]、そのほとんどが自伝小説といっていいのである。その中のもっとも良質の作品群が、後述するように「戦災孤児」の虚構を核としているのである。文壇デビュー時代を描く最新作『文壇』[12]でさえ、「戦災孤児の虚構」が濃い影を落としている。

  

[1]「旅の果て日記」(http://www.nosakaakiyuki.com/diary/index7.html)「最後の林檎」(http://www.brain-jack.com/saigono_ringo/ringo_008.html)

[2]『わが桎梏の碑』その他

[3]『新明解 国語辞典』

[4]私はかつて自伝小説を、「作者と主人公の同一性に立つが、ある程度の虚構を含むことを認め、ある一定の過去を対象とする物語」と規定したことがある「野坂昭如の自伝小説」(『戦災孤児の神話』所収)

[5]一九七六・八、中央公論社

[6]一九九六・六、講談社

[7]一九八四・四、中央公論社

[8]一九八八・六〜一〇、「すばる」

[9]一九九一・一一、講談社

[10]「新潮45」一九九八・五〜二〇〇〇一・一二、一九九九・一二までを「加筆訂正」して、二〇〇〇・一二新潮社刊

[11]そうした作品の中にもしばしば自伝小説風の描写が入るが。

[12]「文学界」二〇〇一・九〜二〇〇二・三


                     

 野坂昭如の自伝小説は、『赫奕(かくやく)たる逆光』[1]以前と以後ではっきり分かれる。彼は自筆年譜(「小説現代」一九六九・一二)で「空襲で家族を失い」と書き、「あわれな戦災孤児」をさまざまな媒体・行動で演出する一方、戦災死したはずの養母の戦後を、「焦土層」(一九六七・一二)、「わが偽りの時」(一九七二・三)、『人称代名詞』の「彼」(一九七六・一二)、連作『同心円』の中の「三界無縁」(一九八〇・二)等で、さまざまな手法を用いて描いた。

やがて小説作品以外でも「嘘」の存在をほのめかすようになり[2]、『赫奕たる逆光』でついに「嘘」の内容を具体的に「告白」するに至った。

『赫奕たる逆光』は、「オール読物」連載時(一九八七・一、五、六)には、「小説三島由紀夫」と表紙に刷り込まれた号もあったのだが、単行本になる時には「私説・三島由紀夫」のサブタイトルで登場した。当初は小説としてスタートしながら、後にノン-フィクションの装いをもって刊行、という変わった成立[3]の仕方をしている。

 さらに注目すべきは、その際にきわめて異例な加筆訂正をしていることだ[4]。大幅な字句・人名の変更・削除にも驚くが、眼を(みは)るのは、加筆・挿入部分の多さだ。それも延々数ページに及ぶ加筆が何箇所もあり、単行本でざっと数えて五○○行、三○ページ分以上もあるのだ。それも三島についての部分はごくわずか、ほとんどが野坂自身にかかわることであり、特に「嘘」についての告白を含む巻末部分などは、まるまる一六ページ分の加筆増補となっているのである。自作は読み返さない、と常々言明している野坂昭如も、実は単行本化する時に手を入れることが少なくないのだが、これほど大量の加筆増補が異例中の異例であるのはいうまでもない。
 『「ぼくは、空襲で、家族すべてを、一時に失った如く、これまで書いてきたが、実は、養母とこと[5]は、しばらく生きていた」、とこれまでの年譜上の「嘘」を具体的に明らかにしたのだった。この「告白」は、その十ヶ月前に野坂昭如の「戦災孤児」を否定する論文を発表した[6]ばかりの私を驚かしたが、マスコミや文壇が、人気作家の秘匿した嘘の「告白」についてまったく反応を示さないのにも驚いたのだった。
 『赫奕たる逆光』は一九九一年に文春文庫に入ったが、その解説を担当したのは著者自身で、これもきわめて異例のことだった。「解説は自分で書くといい出したのは、まぎれもなく自分であって、つまり、他人様の手をわずらわせることが、とても恥かしかったのだ」と言い訳をしているが、説得的ではなく、どこか無理が感じられた。何か避けている、というのが私の印象だった。閲歴の「嘘」を自ら明らかにはしたが、他人の手がそこに触れることは回避している、そんな感じを受けた[7]
    注

[1]一九八七・一二文芸春秋刊

[2]『アドリブ自叙伝』(「現代」一九七三・一〜一二)

[3]作者は連載当時に「できの悪い探偵小説」(「週刊朝日」一九八七・三・一三)、刊行時の「あとがき」に「『好色の魂』以来の試み」と述べ、後にも「小説仕立て」(『妄想老人日記』)と言っているほどだから、作者の意図は小説だったことは明らかだが、書評では小説、評伝、評論とさまざまな受け取られ方をしている。公立図書館ではほとんどが評論の棚だ(「『神話の崩壊――『赫奕たる逆光』の衝撃、『戦災孤児の神話』所収)

[4]語句・文章の修正が五○数箇所、削除が二○数箇所に及んでいる。

[5]養家の祖母

[6]「戦災孤児の神話――『火垂るの墓』とその作者」、「日本文学誌要」一九八七・三

[7]年譜も含めて、野坂昭如について書かれたものは、多くが野坂昭如に近しい者たちだった。彼等は野坂昭如が年譜の「嘘」を告白し出してからも、そのことに触れないのは、やはり野坂昭如が『赫奕たる逆光』文庫版の解説を誰にも頼まなかった心情を知るからではないか、と思う。そこで「戦災孤児」の虚構は、屈折しながらまた生き延びることになる。

         


 『赫奕たる逆光』が文春文庫に入った翌一九九二年、野坂昭如は『わが桎梏(しっこく)の碑』を光文社から書き下ろしで出した[1]オビには「『火垂るの墓』の呪縛を断つ」と大きく刷られていた。自分の体調が悪いのは餓死した妹のたたりかと思う――と書き始められたこの作品の核にあるのは、『火垂るの墓』へのこだわり、負い目である。作者は『火垂るの墓』の背景・舞台を繰り返し反すうしながら、作品と事実とを重ね合わせてゆく。
 空襲当日、養父母を見捨てて逃げた、奇妙な解放感があった、幼い妹にやさしくなかった、満池谷のタニシやホタルは事実だが、妹のことよりも身を寄せた家の少女に夢中だった、けがをした養母は入院し祖母が看病したが、二人の確執を見るのが嫌で福井県春江町に逃げた……。野坂のこだわり、うしろめたさの根源に「戦災孤児」の虚構があり、その一番根っ子に養母の存在があるのだが、作者は、養母死没の「経歴の偽り」をこの『わが桎梏の碑』でも詳しくは語らない。『赫奕たる逆光』で「七年生きていた」と書かれた養母は、ここでは「三十三年から、定期的に送金し、だが、ついに逢わぬまま、養母は四十九年秋、癌で亡くなった、入院を知らされ、費用を出したが、臨終に立ち会わず、葬儀にも参列していない」、となっている。

『火垂るの墓』の「呪縛」「桎梏」を強調しながらも、筆者がその焦点を養母の戦後にはっきりとは結ばないものだから、読者は負い目に苦しむ作者の心情は察しても、負い目そのものの実像は依然として漠然たるまま。二、三の週刊誌に載った『わが桎梏の碑』の書評も「『火垂るの墓』に書けなかった『真実』」[2]などとタイトルだけは大袈裟だが、「真実」の焦点はぼけたままだった。一番詳しい書評を載せたのは長部日出雄[3]だが、それも肝心の「桎梏」「呪縛」の問題には触れず[4]、火垂るの墓』の芸術性を強調するだけで終っていた。

この作品のポイントは、『火垂るの墓』によって定着した作家像と事実との落差に苦しむ野坂昭如にあり、その中心にあるのが、「戦災孤児」イメージの負い目である。空襲罹災以後も、昭如少年に保護者は存在したのに、「空襲で養父母を失い」と「嘘」をつき、「戦災孤児」と世間がそれを信じ込むように演出した。その「経歴の偽り」[5]のうしろめたさ、負い目をバネにしながら、これまでも多くの作品を書き、ここでは直接『火垂るの墓』の「桎梏」「呪縛」を解こうとした作品を展開している。しかし野坂作品の紹介・書評で、そこに焦点を絞ったものは、依然として見ることができなかった。

    注

[1]一九九二・九

[2]「週刊新潮」一九九二・一一・五

[3]週刊文春」九二・一一・一ニ

[4]「事実とどう違うかなどときにする人は、よほどの臍曲がりをのぞいて、まずいないだろう」などとも書いている。事実関係に首を突っ込むことをあらかじめ封じるようなもの言いに、近しい作家野坂昭如への擁護を感じる。秋山駿が『人称代名詞』の解説で、養母の描き方に不審を持ちながらも「どうでもいいことじゃないか」と、問題をそらしたことにも同様のものを感じている。

[5]『名前のない名刺』一九九一・一一講談社刊で用いられた語句。

       

 3

「婦人公論」に野坂昭如の「行き暮れる母」連載[1]が始まったのは一九九六年九月。連載第一回のタイトルは「わが養母は焼夷弾に焼けただれ」、第二回も「哀しみの霧に包まれし生母(はは)よ」のタイトルだが、中心は養母の戦後だ。この『行き暮れる母』も『わが桎梏の碑』同様[2]、小説かノン‐フィクションかはあいまいだ。

 登場する人物は作者周辺の実在の人物だし、事柄や日付も年譜その他で知る事実関係そのまま、「ぼく」という語り手、「わが養母は焼夷弾に焼けただれ」のタイトル――すべてノン‐フィクション風に設定されている。しかし、空襲直後の「成徳小学校」で、かつての担任の先生二人と出合い、工作室の遺体を検分する場面、その翌日養母・妹と再会する場面の描写などは、いかにも小説風である。
 作品自体も、娘の結婚式当日、得体の知れない小包みが届き、中から出て来たのは生母ほか七枚の位牌……と、いかにも小説的な展開で始まる一方、人間関係、事実関係は大筋において、主人公と作者が重なることを示している。連載途中からは、「人間関係図」が付けられ、作中人物の実在をさらに強く読者に印象づけるものとなった。
 これまでも野坂昭如は、養母・継母、そして生母にまつわることを、ずいぶん書いて来ている。しかし、それは小説の場合は虚構化された装置においてだったし、ノン‐フィクションの場合は断片的に語るに過ぎなかった。とりわけ養母の戦後の事実に触れることが少なかった。その作家が、はじめて養母・継母に生母もからめての物語を書こうとしている、と受け取れた。あいまいにして来た自分の本当の戦後を物語る意図、のようにも見えた。
 『わが桎梏の碑』の末尾に、「過去にせせら笑われているのだ、『火垂るの墓』以後ぼくは、いわゆる『私小説』風堂々めぐりの文字を連ね、これでせせら笑いに抵抗しようとした。……償えるものじゃない。以後、『私小説』は書かない」、と書いた。その作家が、また改めて「私小説」風の作品を書く気になったのはどうしてだろう。作家の心境に変化が生じたのか、あるいは何らかの新たな事情が生じたのか。野坂年譜の虚構にこだわって来た者としては、そのことにもこだわらざるを得ない。私の直感からいえば、『行き暮れる母』は、拙著上梓[3]があきらかに一つの刺激になったように感じられた[4]

 『戦災孤児の神話』上梓から半年後の「婦人公論」連載だ。関連はある、と虚構年譜の問題提起者が考えても無理とはいえないだろう。この『行き暮れる母』には、「戦災孤児」の虚構をあえてした事情さえ、踏み込んだ形で明らかにされている。唐突な感じで「神話」の語も出て来る。

   注

[1]
「婦人公論」一九九六・九〜一二。一九九七・九講談社刊。単行本になる時に『ひとでなし』と解題。

[2]『桎梏の碑』はノン‐フィクションと受け取れる書き方をしながらも、これまで年譜などで「惠子」としてきた養家の妹を「伶子」とするなど、小説風に仕立ててもいる。フィクション、ノン‐フィクションどちらにもとれる微妙な作品だ。

[3]『戦災孤児の神話――野坂昭如+戦後の作家たち』 、教育出版センター刊一九九五・一一

[4]拙著『戦災孤児の神話』は丁重な私信もつけて野坂氏に「謹呈」してあるし、紙・誌に載った書評のなかには、作家の眼に触れたものもあるかも知れない。

      

養母戦災死の虚構こそ、私の「戦災孤児の神話」説の根幹を為すものだったが、『行き暮れる母』はその連載第二回で、次の「告白」がなされる。

四十二年「婦人公論」の「プレイボーイの子守唄」、つづいて同誌 「飢餓地獄からの脱出」。この文章で、ぼくは、神戸の空襲により養家一家は全滅と記した。

……空襲で養父を失い、は事実だが、養母は死んでいない。「養父母を失い」と嘘をついたのは、戦災孤児となった身の、苛酷な明け暮れを誇張して人に語りたかったわけじゃない。いかにも人でなしの所業を、あからさまにできなかった。養母、祖母の身ぐるみはいで棄てたことについて、ごま化してきた。

この「養父母を失い」の「嘘」の記述は、ノン‐フィクションはもとより、小説でも触れることのなかったことだ。しかし、「養父母を失い」の嘘は認めながらも、まだその「嘘」をついた理由・事情は明らかにされていない。

 少年院から出所するにあたって、養母に会った経緯、その後東京に移り住んでからの養母との接触などを、詳しく語った上で、養母とその母かね、養母の妹久子の住いを几帳面に訪ねる父に、直木賞受賞後は月五万円を託したことなどに触れた後、次のように語る。
愛子(養母ー引用者)だけを引き離し、部屋を借りて、のんびり老後を過ごさせたいという気持はあった。育ての親に報いるということよりも、「戦災死」にしてしまった、さらにいえば、本当は生きていると判ったら、ぼくにとってマイナスに違いない、かわいそうな「戦災孤児」がセットになっている、妹と共に、戦争によって被害を受けた弱い者の代表とみなされている。

 「養父母を失い」の嘘の理由をこのようにして語るのだ。それは、まるでため息と一緒に吐き出すようであった。そうだったのか、そうだったろう、と深く納得させるものがここにある。養母の死が「かわいそうな戦災孤児」とセットになって――というのは、私がこの十数年来展開して来た「戦災孤児神話」説の根本にあるものだ。それを野坂昭如自身がはっきり認めたのである。養母が生きていると判れば、「戦災孤児」の虚構は崩壊する。それが「マイナスに違いない」ことまでも認めたのであった。それは、戦後五十年を経た時点で、ようやくのことでもあった。

養母は昭和四十四年、癌で死ぬまで、この空襲の朝についていっさいぼくに語らなかった(『行き暮れる母』連載第一回)。

 めでたく勲三等で、父と継母は宮中に招かれた。昭和四十四年の秋。……この[1]祝宴の四カ月前、ぼくのかつての養母愛子が、肝臓癌のため、慶応病院で死んでいる(同、連載第二回)。

養母死没は昭和四十四年と繰り返し、さらに時期、病名、病院まで明記されたのである。ただ死没年は、『赫奕たる逆光』の「養母は七年生きていた」は、既に否定されたものとしても、『わが桎梏の碑』の「養母は四十九年秋、癌で亡くなった」との食い違いは依然として残る。五年の差は小さいものではない。どれがいったい本当なのか。

 竹内清己は「養母の生死が『戦災孤児』の虚構を解く鍵であるなら、論者がその死亡時期の確定に乗り出すべきだろう」(「解釈と鑑賞」一九九六・一二)と、拙著を評した。それはまったくそのとおりでもあるが、読者や研究者は、作家の戸籍上の事実関係を確認する手段を通常はもっていない。井上光晴の履歴虚構を扱った『全身小説家』[2]の場合にしても、戸籍調査を可能にしたのは、井上光晴の妹の協力あればこそ、だったのである。
 読者・研究者としては、やはり作家が(おおやけ)にしたものに依拠し、その矛盾・撞着、差異や変化から事実を感じ取るしかない。現在のところ、養母の死は一応昭和四十四年、と受け取る他にはないだろう。それに私としては、年譜の虚構そのものよりも、むしろ「経歴の偽り」を背負う作家の内実にこそ興味がある。養母死没年の揺れも含めて、事実と虚構の間に揺れる作家をこそ凝視したい、と思っているのである。

 生母・祖母、養父については、死没年で大きく食い違うことはない。自伝小説でも、ノン‐フィクションでもそうだ。養母の場合にだけ死没年がこれほど食い違うということは、作家のある種の「真」を逆に示しているのではないか、と思う。養母の戦災死を否定し、戦後の生存を認めはしたが、いまだに死没の年は確かでない。そこに、本当のことを書くことを躊躇させる何かが、まだあるのではないかとも想像する。

   注

[1]「この」は単行本『ひとでなし』では「父の」となっている。

[2]一九九四年公開のドキュメンタリー映画、原一男監督。制作ノート、シナリオを採録した『全身小説家――もうひとつの井上光晴像――』キネマ旬報社刊、一九九四・一〇.

       

 『行き暮れる母』(単行本で『ひとでなし』と改題[1])は、これまで自伝系の作品で触れるこのなかったことを、新たにいろいろと語っている。空襲下を裏山に逃げた時の様子、戸籍謄本にまつわること、養父の死亡届を提出するいきさつなども詳しく描かれた。養母・祖母と一緒に身を寄せた大阪守口の家は、これまでは単に「親戚」だったが、この連載ではじめて「南川家」と記され、「人物関系図」で養家との関係が明示されたし、空襲罹災後妹と身を寄せた満池谷の家も「井上家」明記された。 『火垂るの墓』以来、「遠い親戚」とぼかされていたこの満池谷の家に、初めて固有の名が与えられたのである。この家に妹恵子と身を寄せ、ここを連絡場所として灘の仮区役所に届け出、養父の戦災弔慰金の通知もこの井上家に届いた――とある。満池谷と養家の関係、「ぼく」の身を寄せるに至る事情などもかなりすっきりしたものになった。

ただ、この井上家は連載第二回からは、なぜか「加藤家」に変更[2]される。「井上家」と明記したことに差し障りを感じて仮名の「加藤家」としたものか、「井上家」は仮の名で、本当の名を記す気になったものなのか。あるいは、どちらでもないのか、もちろん本当のことは第三者にはわからない。また、それはさして問題ではない。この満池谷の家での二カ月が『火垂るの墓』その他の作品の重要な舞台となり、しかも『アドリブ自叙伝』以来この家での本当のことにこだわり続けながら、その家も家族も特定することなく避けて来た、という事実を確認し、五十年後の現在もまだその実名を記すに当たって「揺れ」を見せた、という事実に注意すればいいのである。

   注

[1]一九九七・九中央公論社

[2]「人物関係図」にも(加藤家)として示された。

       

 私は野坂年譜の不透明部分として、養母の死没年の他に春江町に疎開した事情、少年院入所の真相を『戦災孤児の神話』の中で指摘したのだったが、その春江町疎開の事情はこの『行き暮れる母』(『ひとでなし』)で、次のように描かれた。
二十年七月三十一日、ぼくと妹は福井県 春江町へ、戦火を避けて逃げた。回生病院を退院した養母と祖母は守口町の南川家をたより、一年三カ月の赤ん坊を、十四歳のぼくに託すのは無茶だが、養母はまだ歩くのがやっと、そして西宮の食糧事情は極端に悪化、……混雑をきわめる列車に手負いの養母は乗れない。とりあえずぼくと妹が出かけ、様子をみて、守口の二人も来る、あるいは 逆に、ぼくと妹が合流する、まさか戦争が半月後に終るとは考えなかった……養母、祖母の危ぶむのを、たって北陸本線に乗った。
 これで、養母祖母を残して、赤ん坊の妹を連れての北陸行きの事情がよくわかった。これまでも、農村地帯の友人を頼って疎開した事情は書かれたが、養母・祖母と離れる経緯はあいまいだった。祖母と養母は、昭如の妹を連れての北陸行きを危ぶんだという。「とりあえず」という形で出かけたのだともいう。大黒柱を空襲で失った張満谷(はりまや)[1]の「揺れ」が見えるようである。
 少年院入所の真相はどうか。祖母のかねが昭如の盗みを知って警察に連絡、「現行犯逮捕」させたことは、この作品に描かれたとおりとしても、その程度の微罪で少年院入所となった事情の説明はやはり十分ではない。祖母と養母は昭如上京の件で連絡をとりあっていたこと、祖母の家にやって来た実父と昭如がすれ違ったことも書かれている。昭如少年の保護者になれる人は複数存在していたのだ。にもかかわらず少年院に収容された事情は、この作品でも十分には描かれていない[2]。「戦災孤児神話」成立に重要な役割を果たしたと思われる少年院入所には、まだ霧がかかっている。
   

[1]
昭如の旧姓、養家の姓

[2]出所の事情もこの作品ではじめて、生母、養母の末の妹(つまり叔母)久子の「旦那」の弁護士が事情を知って実の父相如に連絡、と書かれた。自分から実父の名を出して、実父からの連絡で、などさまざまな書き方がされてきた少年院出所のいきさつに、また新たな経緯が加わった。
           

 自伝作家としての野坂昭如[1]は、語り難い事柄、秘匿した事実へのこだわりをモチーフとする所に特徴がある。もうこれで語り尽したか、と読者に思わせながら、しばらく経つと、また新た事実を加えながら物語を紡ぐ――そういう創作スタイルをとって来た。何重にも重なる自分語りの同心円は、それぞれ大事な所で円環が切れていて、それを埋めるエネルギーでまた新たな作品が用意される――そのような創作過程から生まれた力作、傑作が『俺はNOSAKAだ』『人称代名詞』『同心円』だったし、『アドリブ自叙伝』『赫奕たる逆光』『わが桎梏の碑』だった。未刊のままの実験的短編連作『私の他人たち』[2]も、その一つと言っていいだろう。
 秘匿した「嘘」を明らかにするにつれて、同心円の亀裂も切れ目も小さくなり作品の緊張度は弱まったが、『行き暮れる母』の連載でもまだ自分語りの円環に切れ目のあることは、これまで見てきたとおりだ。その連載の五年後、また新たに野坂昭如の自伝小説『文壇』の連載が始まった[3]
 短期集中連載と銘打ったその第一回は、新人賞の授賞式が舞台、昭和三十六年秋、と時間も特定される。例によって視点はあちこちに飛び、過去も滑り込むが、「いつか見ていろ小説家になってやる」とはっきり気持の定まったのが、この授賞パーティの夜――とあって、文壇デビュー物語という主題が見えてくる。番組終了と同時に屑篭行きの放送台本作者に見切りをつけて活字の世界に軸足を移し、雑文家として売れっ子になりはしたが、所詮は根無し草、不満もあり不安も募る。そこで、「文壇」や酒場を遊泳しながら、小説家への転身を求めて紆余曲折――という道行きは、これまでも「マスコミ漂流記」[4]や『新宿海溝』[5]で描いてきたところだが、今回は舞台が純文学の「文学界」、タイトルもずばり『文壇』だ[6]。連載開始後すぐに揶揄するような匿名評[7]も現れたが、注目されている証拠でもあろう。野坂の「経歴の偽り」にこだわってきた論者としては、「戦災孤児」演出をどう描くか、どう自己批評するかに関心がある。連載第四回[8]、で、「プレイボーイの子守唄」執筆事情を次のように描く。
飢死にした妹と、現在の娘を文字とするとなって、はっきり偽りを記した。……空襲で大火傷を負った養母、戦後、転倒してほぼ寝たきりとなった祖母を、養父同様戦災死とし、……十六歳で[9]生家へもどったぼくは、育ててくれた養母に、稼ぎ始めて以後、わずかな金銭的援助の他、逢わなかった。現在、キャバレーチェーン店に勤め、ツケの回収を行うらしい、……養母は死んだことにした。必然的にぼくは、あわれな戦災孤児となった。

「女蕩しを売物の男の過去に、かくも悲惨な空襲被災体験があった」と、この「プレイボーイの子守唄」は好評だったが、「小説ならともかく、実話めかしているだけに、許されない大嘘が根本にある。賞められるほど、首うなだれる気持が募り、ただ養母の目に触れないことを願うばかり」――とも、作中の「ぼく」をとおして作者は語るのだ。

 そして連載の5回目[10]、作者のペンは『火垂るの墓』執筆の経緯に触れていく。「受胎旅行」[11]が直木賞候補になったが落ちた。テレビ出演なども止め、『エロ事師たち』以来の作風も軌道修正、「アメリカひじき」で[12]自信も少しついたがまだ心もとない。編集者や作家仲間からは、直木賞にふさわしいのは「しっとりしんみりした内容」と言われる。「プレイボーイの子守唄」の題材を小説仕立てにとも思うが、「文壇」に通用しはじめた戦災孤児のレッテルによりかかって、「一種私小説めかすのは、卑しい」と逡巡、しかし、結局は「ことさらかわいそうな戦災孤児」の物語を書く――、そんな主人公が描かれる。
   注

[1]「野坂昭如の自伝」(『戦災孤児の神話』所収)

[2]「すばる」一九八八・六〜一〇

[3]「文学界」二〇〇一・九〜

[4]「小説現代」一九七二・一〜七三・四

[5]文芸春秋刊一九七九・五、

[6]東京新聞「大波小波」(二〇〇一・10・九)は、「小説にしては物語性に欠け、ノンフィションにしては実証性に乏しく」と揶揄しているが、まだ始まったばかりの連載の評にしては、即断が過ぎよう。従来、野坂昭如の純文学作品が不当に扱われる傾向があり、そこにも問題がある。

[7]東京新聞夕刊「大波小波」二〇〇一・

[8]「文学界」二〇〇二・一

9]従来書かれたものや年譜では十七歳。

[10]「文学界」二〇〇二・二

[11]「オール読物」一九六七・五

[12]「別冊文芸春秋」一九六七・九

      

「マスコミの寵児、「雑文界の雄」から作家への転身をはかろうとしていた当時の野坂昭如にとって、「婦人公論」掲載のエッセイ「プレイボーイの子守唄」の好評は絶好の手がかりとなり、『火垂るの墓』の直木賞受賞がさらにそれを確かなものにしたのではないか。以来、まとい続けたのが、「あわれな戦災孤児」の衣裳というわけだが、この衣装は身につくと同時に重くもなったようだ――、と論じてから十五年[1]、今、当の作家がそれを認めるような作品を書いていることに、私としては感慨なきをえない。

 著名人の年譜に空白・不明や脱落部分のあるのは少しも珍しいことではない[2]。近・現代の作家でも石川淳年譜は芥川賞受賞以前に空白が多いし、岩野泡鳴の「学歴詐称」が問題になったこともある[3]。立原正秋や井上光晴の経歴の「嘘」が問題になったのはまだ記憶に新しい。「『全身小説家』の痛み」[4]を書く際に、井上光晴年譜を調べていて、『文芸年鑑』掲載の出身校が、「國学院大中退」から「電波技術養成所」まで、四度にも及ぶ変更・修正[5]がなされていて仰天したこともある。最後の学校は存在も確認できなかった。
 ともかく立原も井上も、年譜の「嘘」を守ろうとしつつ他界した。現存現役の作家が、自らの手で自身の「経歴の偽り」を正すなど、稀有の事に違いない。しかも、その稀有な作家野坂の『火垂るの墓』以後の創作活動は、「経歴の偽り」と深く結びついているのである。彼のの自伝[6]も自伝小説も「戦災孤児」の虚構抜きには論じられないし、エッセイも含めて野坂の良質な作品は、みなその虚構とかかわっている、と言ってもよいほどなのである。「戦災孤児」の虚構は、告白するときよりもむしろ秘匿する時に、より上質の作品を生み出した[7]ともいえるのである。
 野坂昭如は自筆年譜[8]で「空襲により家族を失い」と書き、熊谷幸吉編の年譜[9]以降「養父母戦災死」と記述されるのを黙認した。野坂自身「養父母戦災死」の年譜を補強・助長するような言動もした。実父を始めその虚構を知っている者も、虚構を守った。「戦災孤児野坂昭如」の作家像はこうして成立し、『火垂るの墓』の好評とともに作家野坂昭如に少なからぬプラスをもたらした。同時に負い目、うしろめたさも増えていく。

「戦災孤児」の衣装は借り着だったが、野坂昭如はその借り賃を十分支払ったように思う。自分から仕組んだその虚構年譜の責任を、十分取った人だと思う。『赫奕たる逆光』や『わが桎梏の碑』に見られる「嘘」の告白を言うのではない。「経歴の偽り」と直面する一連の作品を書き続けたことが、それだ。失敗作もあるが、『人称代名詞』や『私の他人たち』のような佳品も生んだ。関連して『同心円』のような重厚な作品も生まれた。

 小説家は作り話が本業だが、その虚構をとおして人間の「真」を描くことを求められている。野坂昭如も結果として、その社会的要請に応え、責任を果たした人だと思う。
 さて、これで私の酔狂な野坂年譜の謎解きも終点に来た。発端は教科書だった。当時編集に関わっていた高校国語教科書[10]に『火垂るの墓』を採録、「教師用指導書」を執筆で野坂作品を改めて通読・熟読したが、「養父母戦災死」の年譜記述と、戦後を生きる養母を描く作品群に不審を抱いた。小説のリアリティに比べて、年譜記述の方がだんだん「嘘」に見えてきた。 
 「戦災孤児」の謎はやがて解けた。当の作家自身、『赫奕たる逆光』以後、「戦災孤児の虚構」を払拭・修正する作品を書き、文章を公表してきた。作家の自分の年譜に対する誠実さは、予想以上だった。以前のままの文学事典や年譜もあるが、修正は徐々に進んでいる[11]
 しかし、楽観はできない。まだまだ野坂昭如=「戦災孤児」が一部には通用している[12]。私の「戦災孤児神話」の問題提起はともかく、野坂昭如自身による閲歴修正そのものが注目されず、まともに評価もされない[13]のは大いに問題だろう。王様自身が自分は裸だ、と言っているのに誰も耳を傾けようとしないようなものだ。いったん定着した作家像は、容易なことでは崩れないのである。
   注

[1]「日本文学誌要」一九八七・三

[2]最近の『小田切秀雄全集』(菁柿堂)年譜にも、晩年の入院年月に誤りがあるし、教科書関係事項に遺漏もある。

[3]「学芸」一九五六・一一

[4]「文学時標」一九九五・一

[5]「『全身小説家』の痛み――井上光晴の学歴のこと」、一九九五・一「文学時標」

[6]『アドリブ自叙伝』の他にも、『自伝・野坂昭如物語』(一九六六)、「作家フオト自叙伝」(一九四九・一二)などがある。

[7]『わが桎梏の碑』より『人称代名詞』がはるかにすぐれているのはその一例だ。

[8]「小説現代」一九六九・一二

[9]講談社文庫『とむらい師たち』一九七三・三

[10]小田切秀雄編『現代文』教育出版発行。初版発行は一九八三年一月.。その後改訂を重ね新版二冊も加え、現在は『精選現代文』『新選現代文』『新現代文』の三種が発行・使用されている。小田切秀雄『現代文』教科書については、筆者の「小田切秀雄と文学教育」にくわしい(『小田切秀雄研究』菁柿堂刊)

[11]「文学事典に見る野坂昭如像」(『戦災孤児の神話』所収)

[12]「朝日新聞」二〇〇〇・一・一七、野坂昭如寄稿文に付けた筆者紹介。『ひとでなし』その他野坂作品の中公文庫版カバー見返しの「著者紹介」。『新研究資料現代日本文学 第二巻 小説U』(明治書院、二〇〇〇年一月刊)の野坂昭如の項。

[13]『赫奕たる逆光』、『わが桎梏の碑』、『ひとでなし』の書評その他、野坂昭如の秘匿した履歴(養母戦災死の「嘘」)に触れたものを見ることができなかった。

        

  法政大学国文学会 「日本文学誌要」 第65号 2002年3月24日発行