佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)
元亀元年(1570)〜寛永10年(1633)
官位(大坂の陣時点) 右京大夫

[若き大守]

佐竹義重の長男。幼名は徳寿丸。伊達政宗とは母が兄弟で従兄弟にあたる。天正13年(1585)初陣となった壬生氏との戦いで功を立て、翌年家督を譲られる。父の補佐を受けて早くから豊臣秀吉と結び、上杉景勝の援助を得て、北の伊達政宗・南の北条氏直と戦う。劣勢となるが、同18年(1590)小田原征伐に便乗して石田三成指揮下で戦い、常陸国旗頭として所領を安堵(約44万石)。危機を乗り越える。戦後、三成を通じて秀吉の承諾を得、常陸国内の領主・豪族たちを急襲、あるいは謀殺して国内を掌握。常陸水戸54万5千7百石の大大名となる。関東の徳川家康の抑えとしての位置づけもあったと思われる(与力合わせて実質80万石に達するという。一方で、蘆名氏の会津復帰の反故にされたりもした)。逆に伊達家が減封処分を受けたのは会津を手放した義重父子の讒言の意趣返しという。

[政宗のライバル]

豊臣政権下での佐竹家は与力として弟の岩城貞隆と蘆名盛重、多賀谷重経・相馬義胤が付けられていた。その勢力は後世、徳川・上杉・前田・毛利・島津といった面々と並んで「天下六大将(大名)」と評されるものであった。慶長2年(1597)下野の宇都宮国綱(約18万石)が秀吉の不興を買って改易されると、従兄弟である義宣まで改易の危機に立つが、取次役の石田三成の執りなしで難を逃れる。秀吉没後の同4年(1599)三成が福島正則や加藤清正などに襲撃されそうになり、今度は三成が窮地に立たされると、自ら大坂の三成の許に駆けつけて護衛。伏見まで送り届けて、三成の為に家康に釈明。その窮地を救う。親家康の従兄弟の政宗とは立場を異にし、関ヶ原の戦いでも西軍に呼応して上杉家に通じるつもりでいたという。

[どっち着かず]

ところが父の義重の反対を受け、家中の意思統一が果たせず両軍に味方を約束する態度を取る(重鎮の佐竹義久は徳川秀忠に従軍)。そのうちに東軍が勝ってしまうのだが、一向に徳川家との交渉に踏み切らず、翌年大坂に年賀の礼を行わなかった者は上杉・島津と佐竹家くらいであったという(勝利の賀使は送った)。4月に義重が上洛。9月にやっと義宣は国許に凱旋する家康父子を出迎えるに至り、同7年(1602)上洛。出羽秋田20万5千8百石への移封を命じられる(さらに当時は石高不明の状態。与力も改易)。おとなしく秋田に移った義宣は藩財政を立て直すために鉱山の活用・森林資源の開発に着手。簡素な造りながら久保田城を築城して居城とし、城下町の整備に取り組む。土豪勢力が強い土地柄だけに藩政には苦労したようである。

[従順]

大坂の陣には徳川軍として参戦。冬の陣では今福の戦い(前半戦後半戦)で自らが危機に陥る程の苦戦の末に豊臣軍を追い払う功を立てた。次いで鴫野付近に移って城東と対峙した。夏の陣にも従軍したが戦いがすぐ終結したため、戦闘には不参加である。その後も義宣は幕府に忠実に従い、忠勤ぶりを家康に認められた。キリシタン禁教に伴い領内で大規模なキリシタン処刑を行ったという。寛永10年(1633)死去。当時「美」とされていた殉死を黒田如水・徳川家康に次いで禁じる。幕府が殉死禁止令を発布する30年も前のことである。茶・剣・連歌・文芸・兵法・火薬の調整法など文武両道を修めた武将であったと伝えられる。

[コメント]

三成救護の件は後日、古田重勝(伊勢松坂城主)に「内府に速やかに弁明なさったらどうか」と言われたのを「もとより諸将に対して悪意は無いが、公命に背いていない治部少輪を討つのは私怨。危急を見過ごせず救援したまで」と断り、かえって家康は「天下一の律義者」と感服し、その後も悪くは思わなかったとか。関ヶ原で三成を見捨てることにはなったが、石田家所縁の者を引き取ったとも伝えられます。ただ、小田原征伐直後の謀略の数々を見る限り、謀略家でもあったようで、二面性がある武将です(父の補佐があっただけかもしれんけど)。また、戦国の遺風をよく残し、常に全身黒づくめで家臣さえも義宣の顔を知る者は少なく寝ているところもわからず、部屋を出入りする時は手を使わず長刀を使うなど、隙がなかったようです。ついでながら義宣の本拠・秋田はよく石田三成や真田信繁ら反徳川の武将の生存説に広く見受けられています。薩摩の島津家と同様に反徳川の人々を期待させるだけの何かが義宣にはあったんでしょう。中央から離れた辺境の地だったこともあると思うけど。

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