加藤 嘉明(かとう よしあき)
永禄6年(1563)〜寛永10年(1633) 官位(大坂の陣時点) 左馬助

[子飼いの将]

「賤ヶ岳七本槍」の一人。加藤教明の子。幼名は孫六。初名は茂勝。徳川家康家臣の父・教明が、三河一向一揆の際に主君と敵対して浪人。近江に移って羽柴秀勝(織田信長の四男)に仕えると嘉明もそれに伴って秀勝に仕えた。が、豊臣秀吉が播磨遠征に赴くと、嘉明は秀勝に無断で従軍。逆に秀吉にこの行いを称賛され、晴れて秀吉の直臣となった。賤ヶ岳の戦いで浅井則政を討ち取る戦功で3千石を拝領。天正13年(1585)には淡路志知1万5千石に加増された。以降は主に豊臣家の水軍の指揮官となり、四国征伐・九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵には水軍を率いて活躍。その間にも逐一加増され、慶長3年(1598)には伊予松前10万石の大名となっている。

[疑惑の目]

秀吉没後は家康に従い、嫡男・明成と家康の養女(保科正直の娘)を婚姻させ、関ヶ原の戦いで東軍に属した。本戦においては石田三成の隊と戦う他、崩れかかった福島正則を援護。さらに敗走する西軍を追撃する味方の中で嘉明の部隊だけが陣形を整えていた。その様は家康をして「何事にもつけ巧者である」と感心させたという。戦後、伊予松前20万石に加増。大坂の陣には徳川方に属すことを決めるが福島家に次いで豊臣家への内通を疑われ、彼等らとともに江戸留守居を命じられる。おとなしく観念し、代理として明成を従軍させる(冬の陣)。夏の陣では参陣を許され、将軍の周囲を護衛した。

[政宗の監視役]

大坂の陣では豊臣恩顧の大名として幕府から警戒された嘉明だが、晩年は信頼を得たようである。福島家改易の際には万一の挙兵に備えて備後に出陣。徳川家光の鎧着の介添役も務める。寛永4年(1627)会津転封を固辞した藤堂高虎が代わりに奥州の要所・陸奥会津40万石の大守に嘉明を推挙(この時の美談は戦前、教科書に載っていたらしい)。長年築城に取りかかっていた松山城の完成目前の嘉明は老齢と武勇の士が絶えたことを理由に固辞したが受け入れられず、やむなく会津へ移る。伊達政宗の抑えであるが、かねて不仲の政宗は恐怖と感じず大言を吐いたという。嘉明は鉱山開発・交通網の整備などを行い若松の発展に大きく寄与した。同10年(1631)死去。遺言として会津返上を願い出たが、聞き入れられなかった(結局は子の明成が返上するが)。加藤(嘉明)家は豊臣恩顧の大名ながら、福島家・加藤(清正)家等と違い、明成が御家騒動を起こした際にも大名(近江水口2万石)としての存続を許されている。

大坂の陣人物列伝トップ