第2章・奈良の攻防

陣容
豊臣軍
徳川軍
勝敗
豊臣軍の陣容
徳川軍の陣容

★参考・暗峠を中心にした地図はこちら

[遊撃部隊出撃]

4月26日未明、大野治房は後藤基次の兵を含む筒井家旧臣を主力とした2000の軍を率いて大坂城を発して大和へと侵攻した。徳川軍が河内口に出撃した隙を衝いて、大和から山城に入り、後方撹乱を狙ったものと考えられている。大野勢は暗峠を越えて大和へ侵攻。まず交通の要所・郡山城へ目を付け、家康が配置した1万石の城主・筒井定慶(正次)を「大和一国」で味方に勧誘した。が、遭えなく断られ、正慶は領内総動員の1000の兵を持って城に籠城する。夜間行軍の大野勢は郡山城に押し掛けた。一方の城兵は大野勢の松明の数を見誤り、万余の大軍と錯覚する。逃亡が相次ぎ、残る手勢は36人。多勢に無勢とばかり定慶は城を放棄して13kmあまり東の福住に逃亡してしまう。そして治房は郡山城を落としてしまった。

[竜頭蛇尾]

さらに治房は翌日27日、龍田村(龍田は片桐且元の所領で陣屋)や法隆寺村の幕府の大工頭・中井正清の屋敷など周辺を荒らして残党を掃討し、奈良を目指して進む。一方、徳川方でこれらの迎撃態勢に入っていたのは地元の小大名たち1000人弱であったが、大和の諸将の指揮を任されている水野勝成が午後6時京都より奈良へ到着。敵の迎撃態勢が整いつつあることを知った治房は戦わずして後退したが、なおも遊撃戦を展開すべく郡山の南方16kmの今井郷へ向かう。しかし、地元の者の抵抗が激しいため郡山城に撤退。ついに城を放棄して辺りを放火しつつ、大坂へと撤収した。和泉の商業都市・堺が徳川方に旗幟を鮮明にし、所司代・板倉勝重の催促で紀州浅野家が北上を開始したのである。逃げる大野勢を果敢に追撃したのが松倉重政・奥田忠次・藤堂嘉以。他の者は臆病風に吹かれて参加しなかった。60騎を率いて出撃した重政は逃げ遅れた者3〜4人(または1人)を討ち取り、6人を捕虜とした。徳川方の夏の陣初首はこの時による。豊臣軍の作戦は初戦から挫折し、辛くも奈良焼き討ちを阻止した勝成の功は将軍・秀忠の称賛を受けて黄金50枚を賜った。城を明け渡した定慶は責任で自害している。

  
 

  

大和郡山城(奈良県大和郡山市)

[コメント]

勝成の馬印を見て豊臣方は動揺、退却に至ったともいわれます。動員力そのものが少ないだけに両軍とも大局的には、ほとんど影響がなかったそうです。それだけあって大和郡山城が大坂の陣の戦場になった事自体知名度が低い感があります。が、大野勢が仮に奈良まで進出していたら、奈良の重要文化財が大変消失したのは想像の域を越えます…(幕府の代官も奈良から逃げていたそうです)。結局、徳川方の正規軍とは戦わず大和の村々を荒らしたり煽ったりしただけでこの戦いは終止しました(大野治房の攻防は徳川方の行軍を阻むべく焦土作戦を敢行したという考えもある)。地元の人たちにとっては「人災」そのものです。

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