織田 長益(おだ ながます)
天文16年(1547)〜元和7年(1621) 官位(大坂の陣時点) 侍従

[臆病者]

「利休七哲」の一人(数えない説もある)で「有楽流」の開祖。織田信秀の十一男(八男ともいう)で信長の末弟。幼名は源五(郎)。号は有楽斎如庵。キリシタン大名。淀殿の叔父にあたる。天正2年(1574)信長より尾張知多郡で領地を貰い、大草城の城主となった(廃城同然から修築に励んだが、本能寺の変の影響でまた廃れたという)。京都の御馬揃えに参加。翌年の甲州征伐に従軍。津田勝長とともに木曽口の先鋒を務め、高遠城攻めでの功で深志に領地を賜ったという。本能寺の変の際には甥・信忠とともに二条城に籠城。衆寡敵せず「自害する」と言い放ったが、気が変わったのか城を脱出。奇跡的に近江安土へ逃れ、さらに岐阜(堺とも)へ逃れた。この振る舞いは京都の童から「織田の源五は人ではないよ お腹召されておいて われは安土へ逃げる源五 6月2日に大水出て 織田の源なる名を流す」と嘲笑されたという逸話が残る。

[調停役]

その後の有楽は織田信雄に附属したようである。小牧の役で信雄に味方し、榊原康政とともに尾張大野城の山口重政を滝川一益の手から救い、重政も加えて下市場城を攻略した。蟹江城攻めで城将の一益からの降伏の斡旋を受け、城を開城させている。両軍の講和の際には豊臣方に人質を提出した。戦役終結後は土方雄久・滝川雄利とともに信雄の使者として秀吉と家康の調停役を務める。家康を上洛させることに成功し、徳川家の豊臣政権臣従に一役買う(秀吉の征伐を受けた佐々成政の斡旋にも携わった)。信雄が没落すると豊臣秀吉に直臣として仕え、摂津味舌2千石(後に1万5千石に加増)を領する御伽衆となる。秀吉の茶の湯を司り、当時淀城城主だった淀殿の補佐もしていたと思われる。

[初めての武功]

秀吉没後は家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、小西行長と交戦。自ら石田三成家中の勇将・蒲生真令を討ち取る(郎党の助けを得て)。長男の長孝も大谷吉継麾下の大名・戸田重政(勝成)を討ち取った。これを称して「有楽の武辺末の初物」と皮肉られてしまう(有楽も「老の似合わぬ事」と謙遜したという)。戦後、大和国内で3万石に加増(これとは別に長孝は1万石の大名に取り立てられた)。同時に許しを得て大坂天満の川崎の屋敷に住み、二条城の会見では家康の使者として秀頼に会見を求める(ちなみに有楽の茶会には豊臣徳川の両家の人間が加わっていた)。会見にも片桐且元・貞隆・大野治長・七手組の諸将たちとともに秀頼に従った。

[大舞台での逃亡]

慶長19年(1614)東西手切れとなると大坂に入城。秀頼・淀殿の後見人として、大野治長とともに家中を主導した。家康(板倉勝重)の指示での入城で最高機密を家康に連絡していたともいわれるが定かではない。ただし、堺占領で捕らえた今井宗久や徳川に内通した平野郷の年寄5人など徳川方の人物を許す行動を取っている。冬の陣では1万人をもって城外北方の天満を守備するが、城の包囲網が縮まると城内に撤退。家康と連絡をとりつつ、秀頼・淀殿に和議を強く進言し、実現させる。戦いが終わると京都か堺に引き蘢りたいと家康に求めた。夏の陣直前に再戦の機運が高まる中「上意によって未だ大坂に留まっているが、誰も従ってくれず城内にいても無意味」と家康・秀忠の許可を得て城を退去。子・尚長とともに名古屋に赴いて豊臣家の内情を家康に報告。所領を安堵された。

[有楽流]

晩年の有楽は京都東山で茶・芸能に明け暮れ、悠々自適に過ごす。茶人としては一級であったという。元和7年(1621)死去。現在の東京・有楽町は、その地に邸を構えていた有楽の名から名付けられたものである(かつては京都にもあったそうだ)。有楽の茶説・茶法は、甥・貞置にの手によって「貞置集」にまとめられ、有楽を祖とする「有楽流」という流派が完成。尾張徳川家などにも伝えられた。

[コメント]

臆病者と呼ばれつつも、織田から豊臣徳川への時代の奔流を泳ぎきった織田有楽。一説によると最初は無楽と称しており、豊臣秀吉に改められたようです(有楽の性格が伺えますね)。大坂の陣では豊臣方に加わった数少ない意外(?)な大名ですが、本能寺の変に続き、土壇場でトンズラしています。が、それはそれで評価すべきだと思います。戦国武将として最も大事なのは家名を存続させることですから…。ゲームでは完全な無能者扱いらしいですが、個人的に実際はそれなりに政治感覚もあり頭もキレたと思っています。あとあと論点が少しずれますが、戦国最後の合戦「大坂の陣」を織田家の人々はどう見ていたのでしょう?「葵 徳川三代」にあった「その太閤殿下は織田家の家来筋でござった」と淀殿を諌めるシーンが思い浮かぶ。豊臣・徳川の間を織田が取り持つとは時代は皮肉なものです。

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