第10章・天王寺口・岡山口の戦い

慶長20年(1615)5月7日
陣容 豊臣軍 徳川軍
勝敗  負  勝

豊臣軍の陣容
天王寺口 真田信繁
3500
55000
大谷吉久
2000
渡辺糺
伊木遠雄
江原高次  
細川興秋
槙島重利
本郷晴賢
早川長政
福富平三郎
毛利勝永
4000
山本公雄
樫井昌孝
福島正守
2500
福島正鎮
吉田好是
篠原忠照
石川康勝
結城朝勝
浅井長房
竹田永翁
木村宗明  
湯残正寿
小倉行春
樋口雅兼
内藤忠春
織田信次
三浦義世
稲木教量
津田信純
大野治長
岡山口
大野治房
4000
大野治胤
内藤長宗
布施伝右衛門
新宮行朝
岡部則綱
岡田正繁
中瀬定純
二宮長範
正徳院の僧兵
御宿政友
山川賢信
北川宣勝
遊軍
堀田盛高
3000
14200
野々村吉安
1200
中島氏種
2000
速水守久
3000
伊東長次
3000
真野頼包
1000
青木信重
1000
船場
明石全登
300
300
大坂城
長宗我部盛親
仙石秀範
3000
津田主水
大場土佐
浅香長門
武光式部
幾田茂庵
豊臣秀頼
3000
郡良列
津川親行
大野治長の兵
徳川軍の陣容
天王寺口(先鋒)
本多忠朝
1000
182586
真田信吉
1900
浅野長重
1000
秋田実季
1000
松下重綱
200
六郷政乗
200
植村泰勝
天王寺口(二番手)
松平忠直
15000
21080
榊原康勝
2100
小笠原秀政
1600
成田氏忠
740
諏訪忠澄
540
保科正光
600
藤田重信
300
丹羽長重
200
天王寺口(三番手)
酒井家次
1000
松平忠良
800
松平信吉
800
牧野忠成
400
山内一唯
松平成重
200
松平康長
600
水谷勝隆
500
六郷政乗
200
稲垣重綱
200
内藤忠興
600
仙石忠政
1000
天王寺口(四番手)
水野勝成
3800
34420
本多忠政
5000
松平忠明
3800
伊達政宗 10000
松平忠輝
12000
天王寺口(本営)
徳川家康
15500
15500
天王寺口(後衛)
浅野長晟
10000
10000
岡山口(先鋒)
前田利常
15000
本多康俊
400
本多康紀
1000
遠藤慶隆
540
片桐且元
800
片桐貞隆
宮木豊盛
岡山口(二番手)
黒田長政
加藤嘉明
岡山口(三番手)
藤堂高虎
4700
井伊直孝
3100
細川忠興
岡山口(本営)
徳川秀忠
20000
20000
殿(後衛)
徳川義直
15000
26966
徳川頼宣
10000
成瀬正成
680
水野重仲
500
竹腰正信
400
安藤直次
386

☆徳川軍は藤堂・井伊・大和軍の総数を除きこれまでの戦いによる兵力の消耗を計算していませんが総兵力15万〜20万人(この他にも参加した大名小名は居よう)。戦闘不参加の殿・尾張勢は岡山口、駿河勢は天王寺口とも考えられている。

☆徳川軍部署は管理人の勝手な推測も含まれていますので史実と異なる場合もある。

[徳川軍の動き]

5月6日、藤堂高虎は戦いの後、枚岡の家康・千塚の秀忠の両本営に使者を遣わし、部隊の大打撃を理由に先鋒を辞退した。家康は申し入れを承諾。藤堂隊・井伊隊を秀忠麾下の前備に改めて任じ、天王寺口の先鋒大将に本多忠朝・岡山口に前田利常を任じた。また、大和口の諸将も後方に下げ、水野勝成らを自身の麾下前備に改めて置き、住吉で待機することを命じる。松平忠直は先鋒を願い出たが、家康は若江・八尾の戦いの傍観を理由に却下。忠直は奮戦して見返さんと抜け駆け。午前7時頃には天王寺の西南の敵陣から1km先の前線に着陣。他の諸将も午前中には予定された地に着陣し、家康は平野から北の天王寺方面へ向かって進む。これらは城の櫓の上から確認できたと伝えられる。

 

浪速区上空(通天閣)より天王寺公園南端。徳川軍天王寺口の前線部隊はこのラインに布陣した。

[豊臣軍の動き]

一方の豊臣軍も当初の作戦にあった城外南方の決戦を試みるべく上町台地に防衛線を敷いた。天王寺口を真田・毛利・治長、岡山口を治房が固め、後方の天王寺〜惣構跡には遊軍の七手組が構えた。毛利勝永と真田信繁は大野治長の陣を訪ねて軍議を行い、信繁主張で一つの策が決定したという話がある。「秀頼出馬を合図に、船場の明石全登隊が大きく西に迂回。家康本陣の後方に伏兵して狼煙を上げ、それを合図に北と南から主力軍と家康を挟み撃ちにする」というものであった(迂回しても伊達政宗らに衝突するため、明石勢の船場布陣は徳川軍の茶臼山迂回に対する備えと見るのが自然と考えられる)。大野治房の軍令状によると上町台地に敵を引き付けて戦うことが決まったようである。徳川軍と天王寺前に布陣する豊臣軍の間には堀切と田が存在していた。

 

同じく豊臣軍最終防衛ライン(西は天王寺区〜東は生野区一帯)。手前の山が真田勢本陣の茶臼山(天王寺公園北端)。

[開戦、天王寺口]

家康は、秀忠の命令で慎重に兵を進めるよう号令をかけた。午前10時、水野勝成は豊臣方が徐々に兵を増していく様子を見て開戦を主張したが、なかなか容れられなかった。結局正午頃に、かねて単独で深入りしていた先鋒の本多忠朝が抜け駆けして、100m先の毛利勝永隊へ発砲。射撃戦を始めた。真田信繁は毛利勢に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、かえって射撃戦は激しくなるばかり。しびれを切らした忠朝は突撃を図り、本格的な戦闘に突入する。豊臣軍の策は不発に終わった。信繁は傍らの伊木遠雄に向かって嘆き、己の死を覚悟したという。戦国最大にして最後の合戦は双方の思わぬ形で開戦となった。

毛利勝永が備えた四天王寺の南大門(天王寺区)。

[戦国最大最後の野戦]

毛利勝永は攻勢に移った。銃撃戦に圧倒された本多勢の動揺を見て、天王寺口先鋒の諸隊を攻撃。忠朝は自ら敵中に突撃して全身20余の傷を負いながらも遮二無二戦うが、衆寡敵せず中川彌次右衛門(雨森伝右衛門とも)に討ち取られた。本多勢は壊滅し、真田勢も岡山口まで敗走。同じ頃、天王寺の東では小笠原秀政が竹田永翁を破って大野治長と戦っていたが、勢いに乗った毛利勢が来襲。秀政は重傷を負って敗走(この夜死去)。長男・忠脩は戦死。次男・忠真も重傷を負う。指揮官を失った小笠原勢が続いて壊滅。さらに毛利勢は秋田実季・榊原康勝・藤堂高虎・井伊直孝らとも交戦した(一説に家康麾下とまで)。戦場の混乱は敵味方の区別がつかない程である。

一心寺の本多忠朝の墓(天王寺区)

[狙うは家康の首]

戦端は天王寺に続いて茶臼山でも切られた。毛利勢一部が越前勢を側撃するや、真田勢も攻勢に出る。戦機と見た信繁は寄騎他5千〜1万人を率いて前面の越前勢を痛撃。右翼を突破口に、その背後まで援護に進んでいた家康麾下と交戦する。同じ頃、浅野勢が住吉街道の今宮に達し、越前勢の西へ進むと「豊臣方への寝返り」と誤認する者が出没(有馬豊氏や京極忠高、高知は、内通を疑われており、疑心暗鬼になっていた)。動揺した者は麾下にまで殺到して混乱は全線に拡大する。まさかの事態に家康は後退するが諸隊の先を競っての進撃に後方の守りは薄い。旗奉行まで前線に出ている。家康の指揮する旗本といえど実戦経験の無い者も多かったこともあろうが、あっさり総崩れした。10余kmも逃亡する者も在り、馬印も行方不明になったものである。援軍に向かっていた藤堂勢もこの恐慌に巻き込まれてしまったという。

家康戦死伝説が残る南宗寺の家康墓碑(堺市)。

[限界]

この決死の突撃で家康は兜に鉄砲玉を受け、鍬が折れたとも伝えられる。後世「この後の家康は影武者である」と一部に信じられたものだが結局は多勢に無勢。三度目の突撃で撃退され、越前勢や井伊・藤堂もようやく援護に回る。後方も危うくなり信繁は自ら殿を務めて引き揚げた。忠直と住吉から単独駆け付けた水野勝成の攻撃で茶臼山は陥落。猛攻をかけた越前勢が山上に旗を立て、諸隊が退く中、真田勢は未だ縦横無尽に徳川軍諸隊を数度撹乱する。しかし山北の安居神社で休息中に忠直の鉄砲頭・西尾宗次に槍で討たれ、ついに真田勢も壊滅したのであった。大谷吉久・石川康勝も乱戦中に戦死。岡山口の御宿政友も忠直家臣・野元右近に討たれ、次々と部将が戦死する。一時の攻勢が途絶えた時が勝敗が決する時であった。また、大野治長が秀頼の出馬を求めるため、戦場を後にしたが、古傷から出血して意識を失い、そのために豊臣軍の兵らはこの戦いは負けたと勘違いして動揺したという。

安居神社のさなだ松。信繁戦死の地(天王寺区)。

[撤退戦]

一方の勝永はまだ徳川軍諸隊と交戦して一息入れていたが、真田勢が壊滅して後方連絡が断たれたと知ると戦線を縮小。途中の土手に導火縄をつけた火薬箱を配置して爆発させた。次々に土砂を噴き上げて敵を動揺させ、それを合図に遊軍の七手組とともに反撃。藤堂勢を破るが、井伊や細川・越前勢に包囲される。勝永は冷静に藤堂勢を突破口にあっという間に敵中を突破、黒門口・大和橋口に撤退した。天王寺・岡山口の徳川軍は合流する。

[最後の意地]

市街南端の生国魂あたりで立ちはだかったのが明石全登である。彼は予定通り戦場へ向かっていたのだが、作戦の不発と味方の敗戦を知って自らも敵を迎撃することに決めたのだ。明石勢も果敢に暴れ、午後2時頃には越前勢を突き崩す。敗兵が紛れ込んだことで水野勢まで混乱に陥り、家康麾下を狙ったが、藤堂勢や本多忠政などが防戦に加わる。怒った勝成は自らも奮闘し、兵を励まして態勢を立て直し、明石勢を壊滅させる。さしもの全登も脱出口を開いて離脱(一説に勝成家臣の汀三右衛門が討ち取る)し、徳川軍は大坂城へ迫る。

[開戦、岡山口]

一方の岡山口でも、天王寺口の開戦を確認した秀忠が開戦命令を発して同じく正午頃に開戦した。泥地が多く、戦いに不向きな地形だったが激戦が展開された。先鋒の前田勢が進撃。藤堂・井伊勢は天王寺口の苦戦を見て、そちらへ転進する。前田家先鋒・本多政重は東寄りに進撃すると、秀忠麾下の青山忠俊・阿部正次らも手勢を率いて続く。両軍は激突したが勝敗は定まらず、互いに入り交じって区別がつかなくなった。徳川軍も全国から集まった混成軍であったためか。態勢を立て直すために味方討ちまでしたという。

 

先程と同じく岡山口方面(手前の建物は天王寺公園東端の美術館)。

[大混戦]

迎え撃つ大野治房は、この動きで秀忠近辺が手薄になったことを確認。寄騎に前田勢を任せ、鉄砲隊を主力に弟の治胤・内藤長宗ら1千5百人を率いて長駆迂回して秀忠麾下に突撃。秀忠自ら敵中に突入を図る程混乱に陥れた。山崎長徳が主に天下を取らすべく前田利常に秀忠本陣急襲を勧めたという話もあるが、攻勢も長くは続かず。黒田長政・加藤嘉明が駆け付け、本多正信・土井利勝は皆を鼓舞して反撃させる。柳生宗矩の7人斬りもあった。天王寺口で大野治長・毛利と戦っていた井伊勢も引き揚げ、秀忠自らの指揮で攻勢に転じる。

[死闘決着]

秀忠一同は敵の猛攻にも屈さず力ずくで治房を退けた。治房は本多康紀・片桐且元らの追撃を受けつつも敗兵を収容。反撃に移って、一時400〜500m程退けるが、稲荷祠付近で勢いを増した前田勢に敗戦。玉造方面へ撤退することに至り、こちらも火薬箱を利用した。勝敗は決し、天王寺・岡山口とも僅か3時間の戦闘での決着。大将の秀頼は城内の玉造口で出陣準備を終えたところであった。最終防衛ラインを突破された豊臣軍に徳川軍を止める術は無く、城へと雪崩れ込まれてしまうのである。この戦いの結果を細川忠興は「一時のうちに天下泰平になった」と評した。岡山口でも、御宿勘兵衛が真田信繁と相談するために、戦列を離れたが、彼が逃亡したと勘違いした配下の兵は逃げ崩れ、岡山口の戦場も崩壊したという。

  

大阪城方面。

[コメント]

よく言われる、後が無い豊臣軍と後がある上に恩賞に期待が持てない(空き地は65万石のみ)徳川軍の戦意(若武者は血気にはやって燃えていたらしいが)と覚悟の差か?戦乱のフェナーレに相応しい敵味方入り交えた乱戦だったとのこと。徳川家の史料「駿府記」でさえ「関東勢少し敗北」と認めている程らしいです。一方の徳川軍は本多忠朝の単独行動が前線の統制の混乱に繋がり、豊臣軍に付け入る隙を与えてしまったらしいです。ただ、豊臣方も抜け駆けによる早期開戦で秀頼出馬の不発の上に統率が瓦解。地形を利用した戦いができませんでしたが…。島津家久が評した通り、家康の強運によってもたらされた上の大勝利でした。天下人には運も必要ですね。この戦いの結果次第で天下にもう一波乱二波乱はあったでしょうか。以上、有名な割には詳細&信頼できる史料が乏しく未だ詳しい戦況がハッキリしないといわれる最終決戦でした(なので内容の信頼性は保証できない)。次が最終章です。

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