立花 宗茂(たちばな むねしげ)
永禄12年(1569)〜寛永19年(1642)
官位(大坂の陣時点) 左近将監

[名将二人の息子]

生年は永禄10年(1567)とも。高橋紹運の長男。幼名は千熊丸。初名は宗虎・統虎・鎮虎・正成・親成・尚政・政高・俊正・信正・経正など。天正9年(1581)立花道雪が是非にと紹運に頼んで養子に迎える。嘉麻の戦いに初陣し、堀江備前を倒して家臣に討たせた。3年後の同12年(1584)筑後遠征に出た養父の留守を務め、好機到来と来襲した秋月種実の大軍を夜襲して逆に撃破した。同13年(1585)道雪が戦没すると家督を相続。島津家の大軍が差し迫って立花山城へ籠城するが、豊臣秀吉の九州征伐を機会に敵が撤退すると直ちに追撃をかけて失地を回復。龍造寺政家とともに豊臣軍の肥後口の先鋒を務め、筑後柳川13万2千石の大名に抜擢された。秀吉に「九州之一者」「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」と称賛される。

[若武者]

以後、宗茂は豊臣政権下の武将として戦い、肥後一揆鎮圧にて僅か一日で13度の合戦を行い一度の遅れもとらず7つの拠点を攻略。敵兵600余を討ち取る。秀吉から感状を賜った。小田原征伐に僅かな兵を率いて参陣。その席で秀吉に徳川家の本多忠勝と「東西一対の武将」と並び称せられ、宗茂は「西国無双」とされた。宗茂の名を不動のものとさせたのは朝鮮出兵である。文禄の役の碧蹄舘の戦いで小早川隆景が「立花家の3千は他家の1万に匹敵する。太閤殿下もそうされるだろう」と宗茂を日本軍の先鋒に推挙したといい、この戦いで隆景とともに勝利に貢献した。これらの武功で秀吉から感状を賜り、世に「生一本の勇士」と称賛されたのである。

[豊臣への恩返し]

関ヶ原の戦いでは徳川家康の誘いを断って西軍に属し、大津城攻めに参加。一番乗りを果たしたのは立花勢だが、一発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかける工夫で他家の3倍速で銃撃する活躍をしたという。味方の大敗で領国に帰還するも抗戦を続け、鍋島直茂の大軍を相手に戦うが、加藤清正の勧めで降伏。島津攻めの先鋒とされるが戦いは中止となり、細川家・黒田家が取りなすも改易処分となる。一旦は加藤家の客分となるが19名を率いて京都へ上り(この頃、前田家や黒田家から招かれたが断ったという)、家康に御家再興を訴え、伏見城の家康にも面会した。宗茂一行は清正の斡旋でやがて京都を離れ、江戸へ出て謹慎蟄居した。

[復活]

そこで家康・秀忠父子の招きを受けることになり、それからは徳川家に忠実に仕えた。同9年(1604)5千石の書院番頭に任命され、2年後には陸奥棚倉1万石の大名に復活。次いで3万石に加増された。大坂の陣に従軍。冬の陣では浜筋に布陣して城北と対峙。夏の陣では秀忠麾下に属して戦い、その相談役となって1万5千石を加増された。元和6年(1620)には旧領の柳川10万9千6百石に復帰。秀忠の相伴衆にもなり、次代の家光にも重用された。外様大名の中で幕閣格だったのは宗茂と藤堂高虎だけであろうという。後の島原の乱にも隠居の身ながら参戦。総大将・松平信綱を補佐した。同19年(1642)死去。その武勇は家康でさえ「決して15万石以上の大名にしてはならぬ」と秀忠に言い残す程であり、生涯無敗。剣も弓も免許皆伝の腕前だったと伝えられる。

[コメント]

逸話も数多く説明がいらないくらいの武将で大坂の陣でも小大名故かあまり目立ってないんですが、とりあえず載せてみました。長い戦歴を持ち、寡勢でもとにかく勝ちまくってます。関ヶ原改易組でこれだけ優遇されたのは彼くらいなものでしょう。戦犯が側近大名になるんだから…。天下人から領民にまで慕われた、人気のある武将です。まだまだ調べる余地がありますね。

そんな宗茂の大坂の陣での活躍にはこんな話があります(一説に本多正純指揮下で毛利勝永防戦に加わったらしいが)。天王寺・岡山の戦いの開戦前、秀忠麾下が前に出過ぎていると考た宗茂は「このままでは旗本は蹂躙される。もう少し本営を後方に置きましょう」と進言。だが、意気盛んな秀忠らに聞き入れられず、案の定 大野治房に蹂躙されて1km程後退する。反省した皆がさらに後方に退こうとするや、敵兵の息切れを見た宗茂「もう敵の攻撃はありません。今、本営を退かせると味方の士気にかかります」と進言。自身は本営と連絡を取りつつ軽兵を率いて果敢に戦った。彼の戦局観が味方の危機を救ったという。

   
 
大坂の陣人物列伝トップ