本多 忠朝(ほんだ ただとも)
天正10年(1582)〜慶長20年(1615) 官位(大坂の陣時点) 出雲守

[家康に過ぎたる者の子]

「徳川四天王」の一人である本多忠勝の次男。正室は一柳直盛の娘。幼少の頃より徳川家康に仕える。初陣は関ヶ原の戦い。関ヶ原での本多勢はわずか500の兵で首90を挙げる奮闘ぶり(10倍の程の兵力と推定される細川家で130余)だったが、忠朝も島津勢から2人を胴切りにし、乱戦で曲がった刀を直しつつ力戦奮闘。その刀は鞘におさまらない代物になっていた。家康は「行く末、父にも劣るまじき」と絶賛。戦後、伊勢桑名に転封された父の願い出で、上総大多喜5万石を分封され大名となる。大久保忠隣改易の際には小田原城を、里見忠義改易の際には館山城を幕府の指揮でそれぞれ接収する任を果たす。領内でも施政に務めた。

[義将]

慶長10年(1605)父・忠勝は死に臨んで「忠朝は少身であるから」を理由にして遺金1万5千両を忠朝に譲ることに決めたが、不満に思った兄・忠政は死後守らなかった。これを聞いた忠朝が「兄は大身故色々と大変だろう。父は儂を可愛く思われたが、それを受けては義に背く」と言うと、自分の行為を恥じだ忠政は金を忠朝に譲ろうするが応じない。結局、金は半々に分けられたが、忠朝は金を忠政の蔵に預けておき、それを使う事は終生なかった。忠朝の清廉さを伝えるエピソードである。

[不肖の息子?]

冬の陣では今福から鴫野に移った佐竹義宣に代わって今福に布陣。だが、そこは前に川が3つ連なり、水量も多く進軍に不便であった。ここでは働き所がないと見た忠朝は部署の変更を家康に願い出るが「親の忠勝に似ず、柄がでかいだけで役に立たぬ奴」と親と比べられて無能呼ばわりされた上に却下されてしまったという。結局案の定、忠朝に小競り合い以外に大きな活躍の機会はなく、そのまま和議を迎えた。

[雪辱の機会]

夏の陣では河内口第二番手右備えの主将として参戦するが、二日酔いで河内方面の戦い(若江・八尾)を不戦。その日の戦いで味方の先鋒隊が大打撃を受けたため、忠朝がにわかに天王寺口の先鋒大将を任じられた。忠朝は昨年の叱責を恥じて汚名返上の戦死を覚悟したのであろうか。さらに兄の忠政が道明寺方面で真田勢に手を出さず、家名を落としたという。その夜、忠朝はこれまた前線の部署となった縁戚にあたる小笠原秀政の陣所を訪れている。秀政も若江・八尾の戦いでの戦場進出の遅れを徳川秀忠に叱責されていたのである。酒を呑み交わた二人は共に決死を語り合ったという。

[酒封じの神]

そして翌日、天王寺口で突出している部隊があった。忠朝の部隊である。監使の安藤直次が後ろに退くように駆け付けたが聞き入れない。忠朝は開戦の火蓋を切り、正面の毛利勝永の部隊に突撃する。自らも奮闘して敵兵2人を殺し、狙撃を受けて落馬しながらも敵を斬り、多数を殺した。家臣も主君を討たせまいと庇って戦うが、多勢に無勢で先日の覚悟通り全身20余の傷を受けて堂々の戦死を遂げる(※秀政も奮闘の末戦死している)。遺骸は家臣が戦場から回収。その死で涙を流した家康は忠政を呼んで遺臣に感状を与え、忠朝の死を無駄にしないよう言ったという。遺領は兄・忠政の次男・政朝が相続している。死の間際に己の生涯を振り返って「憎むべきは酒なり。今後わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし」と言ったことから、現在は酒封じの神とされている。ちなみに忠朝の遺子・政勝は後に兄の系統を引き継ぎ、大和郡山15万石を領した。

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