松平 忠輝(まつだいら ただてる)
文禄元年(1592)〜天和3年(1683) 官位(大坂の陣時点) 上総介・左近衛少将

[醜い子]

徳川家康の六男。幼名は辰千代。赤子の忠輝を一目見た家康は、あまりの人相の悪さに「捨てよ」と命じたという。隣接する領主の皆川広照が願い出て引き取り、辰千代と名付けて養育した(後の忠輝は小柄ながら、色黒で、目が大きく、眉毛もつりあがっていた形相という)。結局、父との初対面は7歳の時で、家康は「恐ろしい面魂だ。三郎(信康)の幼い時にそっくりじゃな」と言ったという(そう言って嫌ったのか褒めたのかは、わからない)。人並み外れて武芸の上達が早かったとされるが、粗暴な振る舞いも多く、時には家臣が家康に直訴することもあった。自分の寵臣の花井主水を後見人の広照が訴えると、御家騒動を起こし「老臣が政務を欲しいままにしている」と言って、慶長14年(1609)広照を失脚させている(もっとも広照は謹慎の身で大坂の陣に参加し、その戦功で復活することになる)。

[北陸の大守]

慶長3年(1598)嗣子なき長沢松平家1万石の家督を相続。松平忠輝と名乗り、伊達政宗の娘・五六姫と婚約。関ヶ原合戦後、下総佐倉5万石、信濃川中島14万石(12万、18万石とも)と累進する。同10年(1605)兄・徳川秀忠が征夷大将軍に就任した際には、家康の命で大坂の豊臣家に将軍名代で挨拶に赴くが、秀頼の喜び様は並ではなかった。同15年(1610)北陸道の旗頭として越後福島45万石(30万、53万8千5百、55万、60万、75万石と諸説様々)に転封。北陸東北の押さえとなったが同時に越後に追いやったと見る向きもある。藩政としては北陸道に宿駅伝馬制を整備し、城下町と商工業の発展を進めた。「水害が酷い」「北陸街道を押える」を理由に新たに居城の新築に取りかかったといい、天下普請の力で5ヶ月の突貫工事の末に城を完成させる。高田城である。

[黒い噂]

家康の息子として順調に出世する忠輝だったが、同18年(1613)に徳川家の鉱山奉行(120万石の代官)兼忠輝の補佐役である「天下の総代官」「日本一のおごり者」大久保長安が死去。その没後、私腹を肥やしていたことや忠輝を担いだ謀反の計画が噂されると、長安の子息全員が死罪となり、長安自身も墓をあばかれて磔にさらされる事件が起きた(大久保長安事件)。石川康長(数正の長男)や山口重政・青山成重など連座して改易となる大名も居た中、幸い忠輝は処罰なしだったが「忠輝と政宗が組んで幕府と対決するらしい」と世間では噂になったそうであり「上総殿はキリシタンに理解があり、彼が政権を取れば布教は自由になるだろう」という声もあった。忠輝には黒い噂が付きまとっていた。

[軽率な振る舞い]

大坂の陣は高田城の完成の直後に巻き起こった。冬の陣では江戸城西ノ丸守備を命じられるが、不服として幕閣の酒井忠世の指示に従わず、政宗の催促を受けるまで領国から動かなかった。秀忠より福島正則らの監視を命じられ、怪しい様子があれば処罰する権限を与えられた。夏の陣では大和口総大将として出陣。が、行軍途中の近江守山宿で秀忠の旗本2騎(+従兵20余人)が騎乗したまま自身を追い越そうとしたため無礼討ちに斬り捨てて謝罪無し(これが一番の問題)。さらに道明寺の戦いで朝遅くに奈良を発し、道が悪いため遅参。既に戦線は停滞に向かっているところだった。道明寺まで押し込まれた政宗の代わりに出撃しようとしたが、その政宗に出馬を封じられる。翌日の天王寺・岡山の戦いには参加するが、戦後の家康・秀忠の朝廷に戦勝の奏上を行った時に供奉を命じられたにも拘らず病と称して欠席。船遊びをしていた。そして、秀忠の許しを得ずに無断で領国へ帰国してしまう。将軍家との対立はこれで深刻なものとなった。

[300余年の勘当]

また忠輝は、禁教にしている筈のキリスト教の信仰の疑いもあったので、これまでの振る舞いに業を煮やしていた家康は勘当を命じて蟄居させた。家康没後の元和2年(1616)幕府は「家康の遺命」と称して、忠輝の改易と伊勢朝熊への配流を言い渡す。母の茶阿局、養父・政宗の活動や幕閣を通じての弁明も叶わず、改易されて剃髪。五六姫も離縁された(母は出家した)。結果的に忠輝の失脚は家康没後の幕府の威厳を示す格好の材料となっている。後に飛騨高山へ移されたが忠輝が気ままであるので金森重頼に預かりを辞退され、信濃高島の諏訪頼水に預けられる。頼水は高島城の南の丸(忠輝の預かり役のために新築した)に温かく迎え入れ、忠輝もようやく落ち着くに至った(歳を取って落ち着いたといわれる)。温泉・諏訪湖での遊漁・能・俳句・茶など楽しみ、頼水や庶民にも親しまれたという。ただし、生活の費用はかさみ、忠輝は道具や刀剣を売った。寛永9年(1632)岩槻城に預けられていた男子の徳松が自害した(父を諌めるためとも)。天和3年(1683)死去。時代は5代将軍・綱吉の治世になっていた。諏訪で設けた男子の久大太の家系は絶えたらしいが、娘の方は長沢松平家に嫁いで残り、幕末の松平忠敏は赦免活動を行なった。菩提寺の貞松院の熱心な働きかけによって、死後304年後の昭和62年(1987)になって、ようやく徳川家から赦免された。

[コメント]

悲劇の武将(?)に相応しい波乱の生涯ですが、晩年は諏訪の文化の復興に貢献する程落ち着いていたようです。資質はあったようだが(「化現の人也(神仏が姿を変えてこの世に現れること。goo辞書より)」という評価もあるという。ここが詳しい)若さのために落ち着いた振る舞いができなかったのか大した活躍も無く世を去りました。もっと早く生まれていれば…とはよく言われるところです。大坂の陣前後の反抗的な態度の原因は一体なんなんでしょうか。粗暴な性格故か。含む事があったのか(弟に官位を抜かれる境遇)。単なるわがままか。幕府としても黒い噂が立つ上に傲慢な態度を取り続ける忠輝は許し難く、脅威的な存在だったことでしょう。

大坂の陣人物列伝トップ