松平 忠明(まつだいら ただあきら)
天正11年(1583)〜正保元年(1644) 官位(大坂の陣時点) 下総守

[家康の孫]

「当代記」の著者とも伝えられる。奥平信昌の四男。母は徳川家康の娘・亀姫。家康の外孫であり寵愛を受けた。幼名は鶴松丸。初名は清匡。正室は織田信包の娘。天正16年(1588)家康の養子となり、松平姓に改姓。文禄元年(1592)上野長根7千石を拝領。慶長4年(1599)徳川秀忠の偏諱を受けて、松平忠明と名乗る。初陣となった関ヶ原の戦いでは家康麾下の父・信昌の指揮下で後備に加わり南宮山を牽制。戦後、三河作手1万7千石に加増。同15年(1610)には伊勢亀山5万石に転封され、亀山城を改修して豊臣包囲網の一翼を担う。民政に力を注ぎ、領民からの信望を高めた。

[一番の勲功]

大坂の陣に従軍。冬の陣では美濃の諸大名を指揮し(父が美濃の旗頭)河内口先鋒の一人として本多忠政らとともに城外の平野に出ていた薄田兼相・山口弘定を追い払う。船場に布陣したが、後に家康麾下に詰めた。和議の際の堀埋め立てには忠政・本多康紀とともに普請奉行を務める。夏の陣では大和口三番手の主将となり、道明寺・誉田の戦いで藤井寺まで追撃をかけて31の敵首を獲得。一説に後藤基次を討ち取ったのは松平勢だという。次いで天王寺・岡山の戦いでは越前松平家の後陣。玉造付近で奮闘して73の敵首を挙げた。戦後、亀山藩主時代の藩政を評価されたこともあって「戦功第一」と論功行賞で大坂10万石の藩主(一説に城代)に収まった(大坂城に残っていた武具も全部与えられた)。そして大坂の復興を任されたのである。

[西国探題]

大坂では本格的な城の復興こそ行わなかったが、河川改修・新田開発をはじめ戦火で荒れ果てた市街の復興と再編に努め、街は数年で元の繁栄に帰した。後に大坂が日本の商業都市として「天下の台所」と称されることはあまりにも有名である。元和5年(1619)大和郡山12万石に転封。大坂夏の陣の戦火(奈良の攻防)により、前任の水野勝成が手がけていた荒棄した城の大改修を行い、廃城となった伏見城から城門4基を移築。交通の要所として整備した。寛永16年(1639)西国探題の位置づけで播磨姫路15万石(18万石とも)に転封。将軍の家光より、異国船が来航した時は大坂城から大筒などを借り、西国大名の司令官となるよう内命を受けた(1637年には榊原職直がオランダに「マニラを粉砕しようと考えているなら、船と大砲を提供する用意がある」と幕府に申し出るよう求めたり、牧野信成は翌年「オランダ人だけでマニラを占領できないか」と聞いている。家光も「我が領土が一寸でも外国の手に渡ればその事実は国家の恥になる」と長崎奉行に宛てていたされ、国内の沿岸警備に留まらず朝鮮の協力もとりつけた)。忠明は秀忠の信頼も高く、その遺命により、井伊直孝とともに家光政権では幕閣に列した。正保元年(1644)死去。

[コメント]

大坂の街を復活&発展させただけあって割と好きな武将です。学問を修め、戦場では判断力に長じた文武両道の名将だったそうな。政情不安定の中での大坂や姫路など畿内の要所を任されるだけあって幕府から相当の信頼と実力を評価されていたんでしょう(もちろん家康の孫であることも考慮されたんでしょうが)。今後、詳しく調べてみたい武将のうちの1人です(その時は追記予定)。また、鎖国については守りのイメージが強いと思いますが、こちらからポルトガル領やスペイン領を攻撃するという考えもあったようです(とりあえず、この時点では鎖国方向か彼ら旧教国と戦争するかの二択くらいだったと思う。幕府は国内の人間が彼らに呼応しないか心配していた。旧教国側には、日本の領主が選挙制と勘違いしているもの、キリスト教徒が増えれば、新しい国王にスペイン国王が選ばれるであろうと考えている者も存在したから、これは一理ある。僕の主観では、キリスト教弾圧は、止むを得ない)。

大坂の陣人物列伝トップ