第3章・鴫野の戦い・前半戦

慶長19年(1614)11月26日
陣容
豊臣軍
徳川軍
勝敗

豊臣軍の陣容
井上頼次
2000
山本公雄
小早川左兵衛
竹田兵庫
穴沢盛秀
岡村椿之助
徳川軍の陣容
上杉景勝
5000
安藤正次
屋代秀正
伊東政世

★参考・城東小学校(鴫野古戦場は門の脇)を中心にした地図はこちら

[両軍の備え]

鴫野は大坂城の北東にある水田地帯で住来に不便な土地である。大和川(現・寝屋川)を挟んで北岸が今福・南岸が鴫野である。豊臣軍は鴫野方面の備えとして堤に3重の柵を設け、鉄砲隊長・井上頼次と大野治長の部将の小早川左兵衛と竹田兵庫らが守備。一方の徳川軍は上杉景勝・堀尾忠晴・丹羽長重を配置。対峙した。11月25日、景勝は今福方面の佐竹義宣とともに、それぞれ家康から対城を築く為の砦の攻略命令を受けた。鴫野の担当は景勝、今福の担当は義宣である。

現在の寝屋川(旧・大和川)を大坂城側(西)から望む(大阪市城東区より)。東(画像奥)から徳川軍が来襲した。この川の北側(同左側)が今福方面、南側(同右側)が鴫野方面。

[来襲]

11月26日未明、徳川軍の安藤正次ら秀忠本営からの監使が敵の偵察中に鴫野の柵の豊臣軍と戦闘になった。豊臣軍は柵から出て射撃するが、距離が近すぎて当たらない。柵内へ退却するが、そこへ上杉勢が来襲。激戦になった。上杉軍の先鋒は、須田長義、黒金泰忠らである。豊臣軍は大長刀を水車の如く振り回す穴沢盛秀(長刀達人)の奮闘もあったが、結局は支えきれず撤退。上杉の先鋒の安田・須田の両将が奮闘し、井上頼次は戦死する。上杉勢は敗走する豊臣軍を追って、大和川まで追撃。敵首100余を挙げた。景勝は旗を鴫野の堤上に立てさせ、重臣の直江兼続に大和川の西堤を切らせて柵を作り、銃兵200〜300を土手下の葦の中に配置。豊臣軍の逆襲に備えるのであった。

[コメント]

今福に続き鴫野もまた徳川軍(上杉勢)の圧勝です。宝蔵院胤栄・秀頼の武術師範を務めた経験を持つ「穴沢流」の開祖・穴沢盛秀は気になる武将の1人であります。彼が居ながら、何故秀頼は肥満してしまったのかも(笑)。あの斎藤道三の甥っ子の井上頼次も(時利は彼の弟)。

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