本多 正純(ほんだ まさずみ)
永禄8年(1565)〜寛永14年(1637) 官位(大坂の陣時点) 上野介

[父譲りの実力者]

本多正信の長男。幼名は千徳丸。通称・弥八郎。天正11年(1583)徳川家康に側近として召し抱えられる。その才気から家康の寵愛を受け、早速徳川家の重臣に列して政務に参加していたようである。関ヶ原の戦いでも家康の側近くにあって連絡将校を務めたといい、下野小山3万3千石の大名となる。家康が駿府で大御所政治を始めると、駿府政権一の実力者・筆頭人として貿易・外交の責任者となった(宣教師曰く「皇帝の外交内政顧問会議議長)。正純は家康から「上野殿」と呼ばれる程に優遇され、世に「権勢無比」と謡われた。将軍の秀忠も無視できない存在で、その権威と謀略的な性格には藤堂高虎も恐れたという。

[家康の参謀]

慶長19年(1614)大坂の陣の発端となる「方広寺鐘銘事件」を金地院崇伝らと画策したといわれる。大坂の陣では家康麾下に属して従軍。冬の陣では阿茶局とともに和議の交渉役となり「大御所出馬の記念」と、家康の顔を立てるためとして堀埋め立てを和議の一条に加えることに成功し、堀を埋め立てた。その後の大坂城は周知の通りである。夏の陣では河内口本軍の第二備の主将も務め、天王寺・岡山の戦いにて後方に非難した家康に代わって本営を守ったという。

[後ろ盾を失う]

元和2年(1616)家康・正信が相次いで没すると、江戸の徳川秀忠の幕閣に加えられる。家康の遺言を崇伝・天海とともに聞き、遺産の分配や日光東照宮造営の奉行を務めるが、実権は酒井忠世・土井利勝・安藤重信ら秀忠の側近が握っていったという。しかし、表向き正純の地位は忠世に次ぐものであった。

[恨みのでっち上げ]

同5年(1619)家康の遺言という理由で下野宇都宮15万5千石に転封。宇都宮は家康を祀る日光東照宮を守る要衝の地であり、文治派大名初の大大名誕生でもある(なんと石高は井伊家に次ぐ)。が、正純の代わりに宇都宮から押し出された者がいる。奥平忠昌(信昌の嫡孫)で、祖母が家康の長女こと亀姫(加納)であった。また、姫は大久保忠常(忠隣の長男)の妻であったから情勢は悪化。同8年(1622)秀忠は日光社参の帰途、宇都宮城に一泊する予定であったが、加納は「正純は城の天井に仕掛けを張って暗殺を図っている」と直訴。結局宇都宮城一泊は中止になるが、仕掛けについては年寄の井上正就が調査するが異常はなく、この時は何も沙汰は下りていない。以上、正純失脚で名高い「宇都宮釣天井事件」であるが、この話は正純を貶める為の加納の創作、そして後世の脚色だという(※ただ、秀忠が正純を警戒していたのは確かである。ちなみに正純改易後、奥平家は宇都宮に復帰した)。正純は秀忠が来なかったことで宇都宮返上を申し出る挙に出た。

[驕りが生んだ墓穴]

正純は秀忠出迎えのために幕府の許可のため宇都宮城の増築を進めていたのだった。この時、正純は3つの墓穴を掘ってしまった。無許可の地域(本丸)まで改修してしまう。動員した家中の「根来足軽同心(家康が本多家に付けた戦闘組織)が「公義の軍用以外には従えない」と拒否するや怒って勝手に彼等を殺してしまう。5倍近い石高の加増を機に無断で鉄砲を堺で製造させた挙げ句、間道から密かに運び入れてしまう。この3点は後に14箇条の罪状が出された時、正純がついに弁解できなかったものである。

[失脚劇]

4ヶ月の8月、正純は最上義俊(義光の嫡孫)除封の為、出羽山形へ派遣。伊達・上杉・佐竹の諸大名を指揮して任務をこなした。が、その地で「奉公ぶり、よろしからず」なる理由で改易が申し渡される。当初は出羽由利5万5千石(城持ちではない)への減封であったが「拙者の御奉公が上意に沿わぬとは心外」と毅然と受け取りを断わり、言うことを聞かない。かつてキリスト教取り締まりに上方に赴いた矢先の改易を受けた大久保忠隣の改易とダブったことで意義を申した。正純なりの保身なのだとも解釈される(宇都宮返上を申し出たのも返って改易の理由にされた)。むしろ秀忠の怒りを買ってしまった正純は佐竹義隆(義宣の嫡男)預かりで、出羽横手・大沢で1千石が賄料として与えられることになる。この失脚劇は有力外様大名に幕府からの事情説明がなされた。寛永7年(1630)嫡男の正勝を失う。同14年(1637)死去。失脚の原因は「家康時代から秀忠は正純を良く思っていなかった」「秀忠が側近中心の政治を行う不石として異分子の家康側近を排除する工作」「土井利勝の政敵排除を狙った工作」などといわれるが定かではない。孫の正之の代に赦免された。

[コメント]

最後は「策士、策に溺れる」という具合にやられています。これも宿命か。正純の改易の裏には隠れた秀忠一味の凄みが伺え知れます。ちなみに当初配流先で手厚くもてなされていた正純ですが、それが知れるとすぐに幕府の命で完全に罪人扱いされたらしい。また、死後すぐは墓を立てることすら許されなかったとか。関ヶ原の時は秀忠を取り直して当時「生涯忘れない」と感謝されただけあって、なんとも不憫な…。果てには後世福島正則改易の罪まで被せられたみたいですから、彼が排除した大久保忠隣顔負けの境遇です(正純が正則をハメたっていう話は有名ですが、これは福島家の遺臣が著したと思われる「福島太夫殿御事」が出典とされ、一次史料によれば本当に正則の届け出が遅かったみたいです。正純は秀忠に「福島を改易すれば十人のうち一人の大名は同情して頭を剃って引き蘢るでしょう」などと慎重論を唱えたが、秀忠はそれをも覚悟して強行。実際に改易してみると、福島に味方する大名が出なかったので怒りを買った。ここの「新しい歴史教科書の光と影」から「大名の統制」を見れば、福島家改易についての解説があります)。ただし、そもそも「武家諸法度」に届け出を事前にすることが明記されておらず、諸大名に幕府の意向が徹底されていなかったのではないか?という意見もあります。死人に口無しってやつですね。