前田 利常(まえだ としつね)
文禄2年(1593)〜万治元年(1658) 官位(大坂の陣時点) 筑前守

[利家の子]

前田利家の四男(豊臣秀吉の落胤説もあり)。幼名は猿千代、後に犬千代。初名は利光。姉の幸(前田長種の妻)に養われ、嗣子が無い、長兄・利長の養子となる。正室は徳川秀忠の娘・珠姫。豊臣秀頼とは義兄弟にあたる。生まれながらに大名の風格を持っていた。関ヶ原の戦いで丹羽長重との和睦の際に前田方の人質として小松城へ預けられる(後年、利常はこの地を隠居城とした)。慶長10年(1605)利長から家督を相続。加賀金沢119万5千石(実質130万石)の大名となり、外様大名初となる「松平姓」を賜った。同19年(1614)利長が没すると隠居領の吸収を許され(利長は死後の隠居領の処分を幕府に一任していた)所領の判物を受けて正式に徳川家に臣従した。帰国の途についたところで幕府からの命令が来たため、帰国から3日後に大坂へ出陣することになった。

[力戦奮闘]

大坂の陣では徳川軍として参戦。出陣の10月14日は吉日でないため家臣の反対を受けたが出陣を断行。馬取りが居なかったため奥村永富の馬に乗って出発し、ついに馬取りを軍神への生け贄として殺してしまった。冬の陣では城南の真田丸と対峙。真田丸の攻防戦では先鋒隊が先を競って軍令を違反して無謀な突撃をかけたため大敗を喫する。夏の陣では河内口第三番手左備として参戦。次いで岡山口の先鋒大将を命じられ天王寺・岡山の戦いでは、徳川軍第2位となる3200余の敵首を挙げる大功を立てた。戦後、感状を賜り参議に昇格。金2百枚を賜った。恩賞として四国四ヶ国丸ごとへの転封も提示されたが、これを懇願の末に固辞したという話がある。利常としては幕府の疑いを逃れるために恩賞を辞退し、恩賞地を確保するために検地まで行なったのだが、家中の恩賞はまだ不十分で脱藩が相次ぐ騒動などで幕府の嫌疑まで受けている(寛永の危機。この事件から3年の間は利常と光高の父子は国許に帰らなかった)。

[御家安泰へ]

その後も利常は幕府に忠節を尽くし、3度に渡った大坂城築城工事では全て全工区の2〜3割を請け負い、江戸城修築工事でも全工区の1/6を請け負っている。徳川家との婚姻政策も進めた。嫡男・光高の正室に水戸徳川家の徳川頼房の娘(家光の養女扱い)を迎え、嫡孫・綱紀の正室には将軍・家光の信頼厚い保科正之(徳川秀忠の四男)の娘を迎えた。結果、将軍・家光死去の際には後事を託され、五代藩主の綱紀の代に加賀藩は御三家並の待遇・格式を受けることになる。

[政治は一に加賀]

内政面では城下の整備・用水の建設などで城下町を発展させる。加賀は一向宗の強い土地柄で有名だが逆に利常は彼等の身分を高く置いて藩政に組み込む。積極的な普請参加や冷害による凶作から農政法の「改作法」を定めて飴と鞭の政策で藩財政を巧みに立て直した。諸産業・文化面にも着目。桃山文化の伝承(加賀ルネサンス、百万石文化の開化)にも力を尽くす。新井白石をして「一加賀」と称賛される程の手腕であった。寛永16年(1639)長男・光高に家督を譲り(加賀金沢102万5千石)次男・利次は越中富山10万石、三男・利治は加賀大聖寺7万石で独立させた。しかし、光高は江戸に詰めていたため実質的に領内を治めていたのは利常である。光高没後は嫡孫・綱紀の後見人となって補佐。綱紀の義父・保科正之に後事を託して、万治元年(1658)死去。

[かぶき者]

前田家は豊臣恩顧の大名であり、徳川政権下最大の大名であった。そのため些細なことで大御所・秀忠死去の直前には謀反を疑われた程である(寛永の危機)。利常は幕府からの警戒を逸らす為に、手早く次代に家督を譲って隠居する。凡庸を演じるゆえに人をからかった奇行が多かった逸話、特にわざと鼻毛を伸び放題にして日々登城したことは知られている。もっとも誰もが利常を凡庸と思わず深慮遠謀が働くと思ったそうであり、伊達政宗も「日本一番の大名」と評している。

[コメント]

まずは前田家について。利長は秀頼後見の身から早々撤退しましたが、生涯「羽柴」の姓を使い続け、有事の際は豊臣家に味方するつもりだったそうです(密かに豊国神社も建てる)。もっとも約束したのは隠居領から手勢を出すことで、あくまで藩主の利常は徳川方に着かせるつもりだったといわれています(自分の存命中に両家の戦いが起らないことを喜んでいた。もっとも最終的には領地を捨てて京都の板倉勝重邸近くに隠棲してしまうつもりだったので、たとえ存命していても豊臣方にとってあまり役に立たなかった公算も高い)。こういった自分の代までなら豊臣方を応援する義理もあると考えていた大名は他にも居そうですねぇ(利長の側近だった木村重成の叔父・宗明は豊臣軍に味方し、戦いが終わると藩に復帰した)。利常については保身家という逸話・評価が多いですが、これに反するものも幾らかあり…。家康と利家は同等であり、ただ長生きしたか否かで自分は下になった。だから徳川に取り立てられた者ではないとして、伊達政宗と同じく毛並みが違うと評価された。子の光高が金沢城に東照宮を建てようとすると、徳川の天下でなくなったらどうするのかと指摘した。徳川義直に江戸城内での頭巾着用が許された時、自分も頭巾を着け続けてついに黙認になった。などなど徳川政権内で前田家の独自性を持ち続けることへの拘りには強そうです。

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