黒田 長政(くろだ ながまさ)
永禄11年(1568)〜元和9年(1623) 官位(大坂の陣時点) 筑前守

[抹殺命令]

黒田孝高の長男。幼名は松寿丸。通称は吉兵衛。諱は織田信長の偏諱か。キリシタン大名。幼少の頃は織田家の人質として近江長浜城で過ごす。父・孝高が毛利家からの帰参の説得に向かった荒木村重の許で摂津伊丹城に幽閉されると「孝高が裏切った」と勘違いした信長の命で殺害されそうになってしまう。この危機を豊臣秀吉と相談した竹中重治の手によって美濃菩提山城に匿われたのは有名な話である(後年、恩義を感じた長政は重治の孫を頼んで召し抱えたという)。

[武功派大名]

天正10年(1582)中国征伐に初陣。父は外交で辣腕を振るうが、長政は武で頭角を現した。山崎・賤ヶ岳の戦いで敵の首を取って河内国内で450石を拝領。小牧長久手の戦いに伴う岸和田城の攻防で紀州・雑賀衆の大軍を撃破。自身も首2を挙げ、秀吉の称賛を受けて2千石の加増。九州征伐では財部城・高城攻めで功があった。同17年(1589)孝高より家督を譲られ、豊前中津12万2千石(18万石、24万石説なども)の大名となる。国内の一揆には謀殺など使って解決した。朝鮮出兵に従軍し、播磨二郡の加増で18万1千9百石になったという。戦功から秀吉の勘気を受けていた父が許された。戦場では自ら先頭5人の中に入っていたといわれる程に単騎駆けが目立ち、通算で7〜8人の名のある者を討ち、大名になるまでは長政自身が「黒田二十五騎」の一人であったなどといわれる(稲富流砲術は免許皆伝)。

[策士]

慶長3年(1598)秀吉が没すると徳川家康に接近。わざわざ蜂須賀正勝の娘を離縁して新たに家康の養女・栄姫(保科正直の娘。家康の姪にあたる)を娶る。関ヶ原の戦いでは東軍に属して大活躍。豊臣恩顧の大名の繋ぎ止めや、東軍の副将格として小早川秀秋や吉川広家に対する根回しに関与して西軍の切り崩し工作に大きな貢献を成した。戦後、筑前名島(後に福岡)52万3千石に転封。領内の検地・治水・法令の整備など藩政の基礎固めに従事し、福岡の街作りに努めた。月に数度、本丸釈迦の間で藩政などについて議論させた「異見会(腹立てずの会)」というものを行わせた。

[疑惑の目]

関ヶ原で長政の活躍は家康から手を取ってもらう程のもので徳川政権樹立にも大きかったが(長政当人も遺書で黒田家の名誉として、今日の徳川家があるのも父と自分の働きが大きいと書いたという)大坂の陣では豊臣家への内通を疑われてしまう。冬の陣では福島正則加藤嘉明・平野長泰・谷衛友らとともに江戸留守居を命じられ、長男の忠之が病を押して代理として従軍。同時に鉛3千・煙硝5千斥を家康に献上している。夏の陣では嘉明とともに参陣を許され、天王寺・岡山の戦いで将軍の危機に駆け付けて奮闘した。彼等の活躍が無ければこの一戦の結果も変わっていただろうといわれる。また、長政は戦いに臨んで絵師を従軍させ、戦勝記念と称して屏風を描かせている。これが後世に名高い「大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)」である。元重臣の後藤基次が豊臣方に味方したことに対し、基次一族の処罰を願い出た長政は、大坂の陣以後も疑いを持たれぬように一層の奉公に励み、幕閣との縁談を図ったり、自ら居城の天守まで壊したという。元和9年(1623)死去。生涯三十幾戦で負け知らずを誇ったという評価もある。

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