徳川 家康(とくがわ いえやす)
天文11年(1542)〜元和2年(1616) 官位(大坂の陣時点) 前征夷大将軍・前右大臣・大御所

[幼い当主]

「戦国三英傑」の一人。人呼んで「東海一の弓取り」である。松平広忠の長男。幼名は竹千代。通称・二郎三郎。松平家は家康の祖父・清康の代に三河一国に覇を唱えて絶頂期を迎えるが、相次ぐ家中の内紛により弱体化が進み、家康は幼い頃から織田信秀・今川義元の許で人質生活を送っていた。天文18年(1549)父・広忠が没すると若干8歳で家督を相続する。政情不安定の中、松平家は今川家の属国に組み入れられるが、義元は家康を自らの師の太原雪斎を教育係に付けて姪を娶らすなど一門部将として遇し、1千石程を支給したといわれる。

[厭離穢土欣求浄土の旗印]

家康は永禄3年(1558)の三河寺部城攻めを初陣に今川家の先鋒として働くが、桶狭間の戦いで後ろ盾の義元を亡くす。松平家所縁の三河大樹寺にて死を計るが、住職の登誉上人の言葉で思い留まり「厭離穢土欣求浄土」の旗印を掲げて、戦乱からの秩序の回復を目指す。今川家からの独立を果たし、義元の偏諱「元」を捨てて元康から家康へ改名。朝廷の許可を得て、三河守の官位と松平から徳川に姓を復する。織田信長に協力して、足利将軍家の擁立や天下布武に協力。まず三河国内を統一し、東進して義元の遺子・氏真を降して遠江を攻略。そして西進を図る武田信玄・勝頼と戦うが、苦戦を強いられる。ようやく天正10年(1582)の信長の甲州征伐を機会に駿河を会得。義元と並ぶ三河・遠江・駿河3ヶ国の大守に成長した(約80万石)。

[東国に君臨]

だが、それも束の間の話で、本能寺の変の明智光秀のクーデタにより信長・信忠の父子が急死。織田政権が瓦解すると、堺を観光していた家康は一転して窮地に追い込まれる。生涯最大の危機であったとされ、一時は京都へ斬り死にしようと図った程だが、酒井忠次や本多忠勝の説得で思い留まる。信長の仇討ちこそ中央の豊臣秀吉に先を越されたもの、なんとか帰国に成功し、北条氏直・上杉景勝との三つ巴の争いを出し抜いて、空白地帯となった甲斐と南信濃を平定。約5ヶ国の大守に成長する(約140万石)。

[価値のある屈服]

本能寺から2年後の同12年(1584)信長の遺子・信雄を担いで、天下人を目指して驀進する秀吉と対決。中国地方から関東地方まで広範囲に渡って注目した「小牧長久手の戦い、小牧の役」である。北陸の佐々や姉小路、南国の紀州雑賀・根来衆と畠山、四国の長宗我部を味方に着けた信雄・家康の連合軍は善戦したが、秀吉方との動員力の差(石高で言えば、秀吉勢力は600万石を越えていたと思われる)の埋め合わせをするには至らず、戦況は膠着状態となる。結局、秀吉が武力討伐を諦めて熱心に和睦を呼びかけたため、家康らも矛を収めた。信長の同盟者だった経歴に加えてこの時の善戦は後々の財産となり、所領を削られることはなかった(信雄は伊賀と伊勢南半分を秀吉に譲った)。

[ポスト秀吉の座]

家康は自身の東国における地位を利用して大名に帰属を呼びかけるなど秀吉の国内統一に協力し、総仕上げの小田原征伐には先鋒として活躍した。戦後、遠隔地へ追いやられるとともに東国安定への地位を見込まれ、関八州(うち六カ国が徳川領で約240万石。残る二国は属国)へ移された。政権最大の大大名となる。その後の奥州仕置・朝鮮出兵にも従い、朝鮮出兵では前田利家とともに名護屋で政務を執る。さらに秀吉は、甥の関白・秀次粛正に伴う政権弱体化の緩和策として、有力大名を政権中枢部に組み入れた。彼等は五大老と称され、家康はその筆頭である。秀吉死去直前には孫娘の千姫と秀吉の嫡男・秀頼の婚姻を命じられ、彼の義理祖父としての補佐を頼まれる。政務代行を行うことになったが、時代は風雲急を告げていた。

[天下人へ]

家康は「秀吉死亡」とともに自分の出番と悟り、秀頼を傀儡とし、政権を握ろうと動き始める。一方で家康を快く思わなかった、秀吉子飼いの吏将・石田三成も動き「天下分け目の関ヶ原」と称される大勝負になったが、家康は勝ちを収めた。アンチ派に勝った家康は3年後に「征夷大将軍」に就任。江戸に幕府を開き、豊臣政権に続く新たな新政権を自ら打ち立てた。家康は政権の基礎を整え、同19年(1614)大坂に残る豊臣家との戦いに臨む。これが「大坂の陣」であり、冬と夏の両陣で家康は結果として完勝し、徳川の天下を手堅いものとする。ここに家康の天下統一戦は成った。外交では朝鮮との関係を修復し(明の福建総督にも通商を求めたが進展無し)ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスとの貿易や東南アジア諸国との朱印船貿易を行なった(しかし、コーチシナ・カンボジア・パタニからは渡航日本人が行なう略奪などで抗議を受けた。これらの国の求めで家康は彼等の帰国を待って処罰しようとしたが、返って帰国してこない。日本町成立の背景ともいわれる)。

[元和偃武]

戦後、二代将軍・秀忠の名で天下を安定させるべく法令を発布。「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「寺院諸法度」など。年号も平和な時代の出発を予言するが如く「慶長」から「元和」へ改元させた。これらの法令は「元和令」と呼ばれる。戦いから1年後の元和2年(1616)に死去。晩年は日々「南無阿弥陀仏」と書き綴った。死の直前、太政大臣の官位を贈られる(生前この官位に任じられた武将は平清盛・足利義満・豊臣秀吉に続いて四人目である)。最期まで西国大名の向背を案じていたが、遺志は次代が引き継ぎ、秀忠と三代将軍・家光の代で徳川の天下は安定。250余年の平和を実現した。家康も「東照大権現」の神号(日出づる国の神「日ノ本大権現」になる観測もあった)を賜って神となり、「神君家康公」などと崇められ、全国の東照社は五百を越えたといわれる。その終わりに伴う反動も大きく「古狸(狸親父)」として後世貶められた。

[コメント]

大坂の陣の頃ともなると、家康に比肩するだけの戦国の実戦経験者は数える程だったでしょう(もしくは隠居)。家康が陣中で皆に竹束(攻城用の盾)の使い方を教えて廻ったという逸話があります(後の島原の乱の時は数少ない実戦経験者の中にもボケた者も居たらしい)。言うまでも無く、豊臣家に家康に対抗できる人物が居なかったのも無理がないことかもしれません。こういったところで「寿命で天下取った」みたいに言われがちですが、それは自身の優れた健康管理の賜物でもあり、そういった地味なところも「実力」のうちに入れてもよいんではなかろうか。

家康程のメジャー武将をわざわざ紹介するの癪ですが、それにしても波乱続きなこと。が、英雄が併せ持つ「運」も十分に持っていたようです。個人的にはやはり「現実主義で老獪・老練」などのイメージが最初に来ます(悪い意味ではなくて)。豊臣家討滅の行いから非難されますが、そこは旧戦国大名。好みは分かれますが、それ程非難できることでもないでしょう(戦国時代の終結=島原の乱=国内の内乱終結と定義する説もあるから、内輪揉めまで起きた豊臣家による治世がそのまま続いたとも言えない)。もっとスムーズに移行できていればこれだけ非難されることもなかったとは思うけど。保守的と評されることも多々ありますが、日本で大砲を本格的に戦場に投入した第一人者は家康らしい。家康=農業、鎖国も嘘っぱちらしいですし、慎重であったり安定に重点を置いた感はありますが、極端に捉えられている気もあります。