徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)
天正7年(1579)〜寛永9年(1631) 官位(大坂の陣時点) 征夷大将軍・右大臣

[家康の後継者]

徳川家康の三男。幼名は長松、竹千代、長丸、長麿。正室が豊臣秀吉の養女で、浅井長政の娘の小督(お江与)。淀殿とは義兄弟にあたる。剛毅な性格の持ち主が多い家康の息子の中、地味で温厚で、父に忠実な律儀な性格であった。仁徳恭謙の徳も備えていた。長兄・信康が父との対立により自害。次兄・秀康が豊臣秀吉・結城晴朝の養子となったため、徳川家の嫡男に定められる。天正18年(1590)上洛。秀吉に謁見して元服し、偏諱を受けて秀忠と名乗る。北条攻めで初陣。後に父と並んで秀頼の補佐も命じられるが、慶長3年(1598)に秀吉が没すると、父の命を受けて帰国。有事に備えての領国守備の任に当たっている。

[初陣で失態]

会津征伐では前軍、関ヶ原の戦いでは一方面軍の指揮を任され、関東守備の総大将を務めた後に家康の命で会津と大坂の連絡拠点である信濃上田の真田昌幸・信繁父子の攻略にかかる。攻めあぐねるうちに、上方転進の命令変更を帯びた使者の大久保忠益らが天候不良で遅れて到着。急いで中山道を西上する秀忠だが、使者の遅参があまりにも大きく、難所の行軍も天候不良が加わって手間取り、結局決戦に遅参してしまう。戦後、秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが、家康は遅参を怒って3日間対面を許さなかった。

[皇太子]

この時に改めて後継者の確認が行なわれたとされ、重臣会議(大久保忠隣・本多正信・忠勝・井伊直政・平岩親吉・榊原康政)で、正信が次兄・秀康、直政が弟の松平忠吉を、それぞれ武勇をもって推したというが、忠隣の「乱世は武勇が主であるが、天下を治めるには文徳・智謀が必要である」との意見が通り、お咎め無しであった。そして、同10年(1605)家康より将軍職を譲られ、江戸幕府二代将軍に就任する。と言っても、家康が大御所政治を展開して現役であり続けたため、公式的にはともかく、秀忠は地味な存在でしかない。家康が日本全体としての政治を担当したのに対し、秀忠の担当は主に幕府の組織整備であり部分的な役回りであったともいわれる(日本に来ていたスペイン人曰く「皇太子」。この頃の秀忠の功績としては、東海道・東山道・北陸道に一里塚を築かせたことが上げられる。朝鮮との外交には現役の将軍として携わった)。

[対豊臣強硬派]

同19年(1614)東西手切れにより、秀忠は大軍を率いて上洛の途に着いた。その速度は3日前に出発した先鋒の伊達政宗に追いつく程で、遠江の掛川まで急いだ着いた頃には、伊達隊は戦う前から疲労していた。秀忠は供の者240人に自分に着いて来た者には褒美をつかわすと約束していたが、駿河江尻から近江の柏原までの6日間で着いて来た者は僅か34人だったという。この単騎駆けを家康に「天下の将軍とも思えぬ不心得」と叱責を受けたことから、後続と合流して京都に着いたもの、いきなり総攻撃を主張したという。関ヶ原での汚名返上を期して秀忠はかなり意気込んでいたらしく、本多正純に「自分が着くまで開戦を待って欲しい」と家康に取りなしを頼んだものである。それに豊臣家とも確執があった。秀忠は将軍就任の時に豊臣家に相手にされず、なめられていたのである。冬の陣が終結間際になっても総攻撃を主張。夏の陣でも主戦場となる天王寺口の攻め口を希望した。結局、夏の陣で豊臣家は滅ぶのであるが秀頼の死罪を強く主張。娘・千姫の脱出を聞いても「何故秀頼と一緒に果てざるぞ」と、素直に喜んだ家康と相反して顔色まで変えて激怒したという。

[天下の統治者として]

元和2年(1616)家康が没し、二元政治が解消。動揺が広がる中、秀忠は父の遺志を継いで幕藩体制・幕府権力の確立に努めた。キリスト教排除や国外での紛争回避が目的の貿易制限(一方で後金の丁卯胡乱に際し、宗氏を通して朝鮮に対する援兵を申し出たこともあるが、断られた)。軍役の制定、譜代・外様問わず諸大名を改易しての大名統制強化(改易された大名の数は家康や家光より秀忠が多い)。大坂などの幕府直轄地の拡大。信頼の置ける親藩・譜代大名の西国設置などである。徳川の天下を着実に堅くしていった。朝廷も視野に入れ、後水尾天皇に娘・和子を嫁がせはしたが、天皇がその間の娘の興子内親王(後の明正天皇)に譲位してしまい、秀忠の血筋を継ぐ男系天皇誕生への道は断たれた。同9年(1623)将軍職を嫡男・家光に譲るが、自らは江戸城西ノ丸にあって大御所政治を展開した。寛永9年(1631)死去。幕藩体制は秀忠の代に骨組みが出来上がり、死に臨んで家光に法令の完成を託す。「太上天皇(上皇)」の追号を贈られることも検討され「太政大臣」の位を贈られたが、自らは父に続いて神にはならず、墓も質素なものであった。

[コメント]

無能と見られがち(?)な二代将軍・秀忠。彼を低評価にさせる一番の汚点は、関ヶ原遅参にあると思いますが、関ヶ原遅参の直接的な原因は家康からの上方転進を命じる使者の遅参と東海方面の福島正則らの攻勢に伴う戦略の推移。家康も諸将の手前として叱責の処置をとっただけだそうです(秀忠の処罰の代わりとしてか、中山道組の重臣が割合加増を得られなかった)。以上、秀忠の器量を問うことにあまり値せぬようです。一応夏の陣の岡山の戦いで自らの指揮で態勢を立て直しています。家康存命中は地味ですが、創業より守成が難しいとされる二代目としては優秀だったのではないでしょうか。家康時代の維持のみならず更なる発展をさせていますから。鎖国(海禁)政策については、鎖国=国法となったのは松平定信の時代です(そういう定信も、長崎か蝦夷でのロシアとの貿易を消極的に考えてはいた)。祖法として認識されたのは、レザノフが来た19世紀。鎖国と大船建造禁止令を関連付けて考えるようになったのも後世のことで、明治時代以降言われた「竜骨が禁止された」は、そもそも史実ですらない。ちなみに、大船建造禁止には商船は含まれていない)。江戸時代の貿易は、長崎貿易が有名ですが、日朝貿易での最盛期の生糸輸入量は長崎を凌ぐといわれています(全く海外に行っていなかったのではなく、朝鮮の釜山には倭館があった)。また、アイヌ・オランダ・清・朝鮮・琉球以外に、カンボジア・シャムといった東南アジアの船が長崎に来ていたようです。こういう風に貿易しており、鎖国後に銀の流出が問題になって、貿易を制限して輸入品を国産化するに至り、貿易無用論まで展開されるようになります。ポルトガルを排除する時に幕府は、ポルトガルからの輸入品の中国産生糸&織物などを朝鮮・琉球ルートで補おうとした(このことから「鎖国を始めた目的は貿易独占ではなかった」と思う)。朱印船貿易の復活も考えたが、ポルトガル・スペイン船の攻撃を受けるだろうし、オランダが代わりをしてくれればいいと考えてやめたということです。

大坂の陣人物列伝トップ