大野 治長(おおの はるなが)
?〜慶長20年(1615) 官位(大坂の陣時点) 修理亮

[幼馴染]

弥一郎。大野定長の子。母は淀殿の乳母・大蔵卿。京都雑華院の治長夫人像は二条昭実夫人像(織田信長娘)と龍安寺の細川昭元夫人像とともに三名幅とされ、後の美人画即ち浮世絵発生の先駆をなすものといわれる。妻は織田家所縁の者かもしれない。治長は徳川家康に称賛される程の堂々とした大柄の美丈夫だったといわれる。年齢は大坂の陣時点で47〜48歳に見えたという。茶の湯を古田重然に学んで奥義を極めていた。治長は淀殿と乳兄弟の間柄にあり、幼少の頃から近待していたと思われる。越前北ノ圧城の落城後、淀殿が豊臣秀吉の側室となると、治長もその縁により、秀吉に仕えて馬廻となる。朝鮮出兵には独立して部隊を率い、肥前名護屋に在陣。伏見城の普請にも加わり、1万石の警固番二番隊長となった。豊臣蔵入地の代官もしていたようである。秀吉の没後は引き続き、その子・秀頼に仕えている。この経歴から「秀頼は治長の子である」などという風説がある。秀吉死後に密通の疑惑が起こり、宇喜多秀家に匿われた。

[秀頼の補佐役へ]

慶長4年(1599)前田利長の計画で、浅野長政と協力して土方雄久とともに家康の刺客を担ったということで治長は下野結城の結城秀康の許へ配流される。が、会津征伐の直前に結城晴朝の斡旋で許され、浅野・結城から兵馬を借りて会津征伐・関ヶ原の戦いに従軍。岐阜城攻めに浅野幸長に従い、本戦では罪を償うために一番槍の功を立てようと幸長に願い出て前線の福島正則黒田長政とも)麾下に属す。宇喜多家の鉄砲頭・香地七郎右衛門を討ち取る功を立て、家康からの褒美は並ではなかった。家康の旗本にも取り立てられる。豊臣家との縁の深さから大坂城接収にも一役買い、治長は1万石で豊臣家に復帰する。片桐且元に「我が子同然に引き回して御前(秀頼)にも江戸駿河(家康・秀忠)にもよく奉公できるよう取り計らい」と評され、後に且元に次いで家康の斡旋で5千石を加増された。そのため治長は江戸駿府にお礼に行っている。

[斜陽の豊臣家を支える]

方広寺鐘銘事件で片桐且元と対立。弟の治純が幕臣に列するなど徳川家からも重く扱われた治長であるが、大坂に留まって主戦派筆頭となる。且元無き後の豊臣家の主導者となった彼は諸大名の来援依頼・兵糧の確保・浪人の募集・砦の構築・戦略会議などの開戦前の準備に奔走して戦いのお膳立てを作る。余談になってしまうが、この時に秀吉以来の黄金の茶室は壊されている。秀吉の遺金である金塊「千枚分銅」を京都の後藤家の者に「竹流し金」と呼ばれる貨幣として急造させたからだ。治長は、毛利や真田、後藤といった流浪の者達を見いだして部隊長に取り立てた。戦場での彼等の働きは改めて論ずるまでもない。浪人衆の参陣は彼にお見えするだけで済んだといい、城中では治長だけが乗物で動くことを許された待遇だった。宣教師曰く「大軍隊の司令官」である。

[豊臣軍の司令官]

冬の陣では遊軍となり、兵1万人を指揮。烏合の衆ともいえる大坂城中の主将格となり10万の将兵の采配を執る。頃合いを見て和議の締結に成功し、徳川方を一旦退けはするが、再度の徳川方の無理難題と城中の強硬派のごり押しで、すぐに再戦となってしまう。この時、治長は暗殺未遂事件を受けた。この戦いは豊臣方が大いに奮戦するも敗れるに至り、城へ帰還した治長も負傷で倒れてしまった。なおも治長は最後の手段として、家康の孫娘・千姫の城からの脱出と自分の切腹を条件にかけて主の安泰を模索するも失敗に終わってしまう。負傷した武具を外した身で速水守久とともに徳川の旗本・加賀爪忠澄らと面会したが、彼等が隙を見て捕らえんとしたところ「この体になっても各々に捕らえられる修理ではない」と笑って櫓の中に引き取ったという話がある。最後は淀殿母子に殉じ、ついに主を敵の手にかけさせなかった。豪放磊落な性格だったといわれている。

[コメント]

とにかく悪役で「大坂の陣の敗戦の原因(場合によっては豊臣家滅亡)は大野治長と淀殿の存在だ」とボロクソ言われているのをよく聞きます(見方によっては「自分が戦争の責任を負う」の意志を果たしている)。特に冬の陣直前の軍議での城外出撃策の却下が一番著名な悪評だと思うのですが、両軍の動きの最後でも述べた通りだし、どうしても過度に貶められた印象があります。それに、和議の賀詞で家康を訪れた時「若年者と思っていたが、城の主将としての武勇はいうに及ばず、秀頼に対する忠誠残る所無し」と家康に称賛されて、本多正純に「あやかれ」と治長の肩衣を着せたという逸話が徳川方の正史(公式記録)にも紹介されていますから尚更です。元来、治長も淀殿も政権運営の構想外の人物だったわけで、そんな治長が「天下に名高い大合戦を演出した手腕」くらいは認めるべきでありましょう。「翁物語」では「〜今の世に日本を引き受けて戦をする大将を知らない。俄(にわか)集めで家康公程の名将を悩まされる戦をして、最後に秀頼を切腹させて形もわからないようした武略は敵にしても味方にしても憎み難い〜」「忠臣顔せし片桐は敵となり、奸臣と憎まれし大野は秀頼公生害の供をした」と治長を評価しているとのことです(細川忠興には「手弱い」と酷評されちゃいるが)。

治長復権の話は植村信二(著)の「歴史と文芸の間」を見てみるとわかりやすいです。氏は「石田三成や直江兼続などは正確な伝記が公にされたのに一人治長が憐れみを止めている」と前置きに書き、武勇で名高い土方とともに家康の刺客を担い(軟弱だったら任せられないだろう)関ヶ原での振る舞いから「治長を元来文官というは飛んでもない間違いである」などと記していました(大坂の陣の戦場での活躍が見えないのは司令官の立場だからという理由。真田信繁だって確かな実戦経験は関ヶ原だけらしいから、信繁に比べて治長の実戦経験が無いと言うのはおかしい)。冬の陣直前での城中での軍議で「防備のために櫓を築きたいが用意が急には整うまい」と話が出た。これを聞いた治長は事もなげに「如何程でも櫓はある」と言い、詳細を問えば「それは城外の町家の土蔵を崩して、そのまま櫓に代用すればいい」と言い放ったそうです。氏はこの話をもって治長を「知恵伊豆(松平信綱)流の当意即妙の才」と評し、最後は「本多藤四郎覚書」にある家康の大野主馬評も「猛将のイメージが強い治房では文武に長けていたと考えにくい」といった調子で修理との発音の混同と見る方が自然と締めくくっていました。皆さんどうでしょう?

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