塙 直之(ばん なおゆき)
永禄10年(1567)?〜慶長20年(1615) 通称(大坂の陣時点) 団右衛門

[正体不明]

姓は伴、諱は直次・尚之ともいわれる。出目は不明だが、千葉氏の流れを汲む、という話がある。少年の頃から山野を駆け巡る屈強の若者で15〜16の頃には大人以上の体格だったという。生国は尾張・遠江・下総とも。経歴は不明。織田信長・豊臣秀吉に仕えたが、酒癖の悪さと喧嘩癖で放逐され、嘉明に流れ着いた説。川井喜介と名乗って、本多忠政に3千石で仕えて出奔した説。須田次郎左衛門と名乗って、大須賀忠政(康高養子。榊原康政の長男)に仕えて出奔、時雨左之介と改名した後に加藤嘉明に1千石(一説に350石)で仕えて出奔した説。千葉氏の家臣から北条綱成に仕えてから加藤家に仕えた説などある。加藤家に仕官して朝鮮出兵に参加した時点から話を始めたい。

[根っからの猛将]

加藤家家臣として、直之が歴史の表舞台に立つのは朝鮮出兵からである。文禄の役で敵の番船を奪い取る大功を挙げたのだ。朝鮮出兵による武功で関ヶ原の戦いでは2百名を率いる鉄砲大将に抜擢される。重要な万一の予備兵力であり、晴れて指揮官となったが、戦闘開始と同時に配下を捨て置いて自ら槍を手に前線に繰り出し、敵中に突入して奮闘してしまう。結果、加藤家の鉄砲隊は戦場で大した活躍ができず、冷静さを好む主君の嘉明から「所詮、お前は一軍の将となる器量にあらず」と叱責されてしまうのである。

[放浪]

怒った直之は無断で出奔。城門の扉に「野水を見限ったおう(鳥の一種)は天高く飛ぶ」という意味の漢文の詩を貼って行った。「小物の嘉明(野水)を見限った自分(鳥)は天高く出世する(飛ぶ)」という意味である。家臣思いと伝えられる嘉明もこれには激怒した。その後の直之は小早川秀秋・松平忠吉(1千石の鉄砲大将の待遇)に仕えるが、どちらも主君が断絶。福島正則に1千石の馬廻で仕えるが、ここで旧主・嘉明からの抗議を受けて浪人。「奉公構」により、奉公先がなくなった直之は「鉄牛」と号して京都妙心寺の雲水となったとも、常陸水戸の知人の許に身を寄せたともいわれる。

[我が名は塙団右衛門直之]

東西手切れとなると大坂城へ入城。大野治房麾下で騎馬武者10騎と足軽10人を率いる物見役である。戦いに先立ち、堺から撤退する新宮行朝を援護した。一躍名を挙げたのは本町橋の夜襲戦である。撤退の時に「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」の目札を多数ばらまいて引き揚げ、一躍その名を轟かせた。夏の陣の前哨戦・樫井の戦いで、かねて望みだった先鋒の任を岡部則綱と争って無謀に駆けに駆け、奮戦の末に壮絶な討死を遂げる。太腿に矢を受けて落馬しながら数人を相手に奮闘し、辞世の句を詠んだという。その眼は死後も「はっきり」見開かれたままであった。剛勇な酒豪で名高い直之だが、茶の湯を学んだ優れた詩人。文化人でもあった。

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