浅野 長晟(あさの ながあきら)
天正14年(1586)〜寛永9年(1632) 官位(大坂の陣時点) 但馬守

[豊臣家所縁の大名]

浅野長政の次男。幼名は岩松。北政所(高台院)の甥。正室は徳川家康の娘・振姫。新井白石曰く秀頼昵懇の者。文禄3年(1594)より豊臣家に近侍し、3千石の小姓番頭となる。関ヶ原の戦い以降は徳川家に従い、慶長15年(1610)家康の怒りを買って改易処分をくらった木下勝俊の後を受けて、備中足守2万4千石(2万5千石とも)を拝領。また、長晟は豊臣方からも2千石を与えられている。大名となった長晟は、北政所の守護役となった。この時に京都へ移り、翌年に京都御所造営を務める。同18年(1613)宗家の長兄・幸長が嗣子なく没すると、長晟の豊臣家との縁を考えて、長政三男の長重に家督相続の声があったが、家康の後押しで長晟が家督を相続。一躍、紀伊和歌山39万5千石(一説に37万6千5百石)の大名となった。

[戦場を従来]

大坂の陣には徳川軍として参戦。冬の陣では今宮、後に船場に布陣。その攻略に敵首10余を挙げて貢献した。国許では豊臣家の扇動による一揆が勃発したが留守居役と協力して鎮圧している。夏の陣では敵地へ近いため蜂須賀至鎮・小出吉英らとともに大坂の包囲陣構築までの牽制役となり、長晟は板倉勝重の指示で単独大坂へ。樫井の戦い塙直之らを破り、大野治房を敗退させる。その後、またもや一揆が再発し、居城・和歌山城まで危急に陥った程だが帰国して駆遂。藩主の威信を示す。天王寺・岡山の戦いには遅参したが、真田信繁の未亡人を捕らえる(彼女は赦免)。信繁が大坂入城の際に豊臣家から用意された金銀と脇差をそのまま賜る。家康から「戦功比類なし」と称賛され、さらに金銀など拝領した。そして家康の娘・振姫を娶る。元和5年(1619)安芸広島42万6千石へ転封。藩政の組織化と家臣団の整備、農政の制定・城下町と海運の発展にも取り組む。地域地域の民情を踏まえた統治を行った。寛永9年(1632)死去。

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