林 信勝(はやし のぶかつ)
天正11年(1583)〜明暦3年(1657) 号(大坂の陣時点) 羅山

[林家期待の星]

「駿府記」の著者とも。幼名・菊末麻呂。通称・又三郎。諱は忠(ちゅう)とも。号は道春など。林家はもとは加賀の林業の地主。後に紀伊に移って浪人に転落した。羅山の父・信時の代になると大坂から京都へ流れ、その地で町家になっていた。羅山は幼い頃、林家の長・吉勝(父の兄)の養子に出される。幼い頃から生まれつきの優れた知能を持って勉学に勤しむが、病弱で虚弱であった。文禄4年(1595)13歳の時に元服。洛東山建仁禅寺に入った。15歳になると寺の僧たちに剃髪を勧められるが断り、京都所司代・前田玄以にまで話が持って行かれたが、羅山は断って寺を出て行った。慶長5年(1600)から市井で朱子学の講義を始め、これが流行ったが、朝廷の許可を得ずに学問を講じたことで、先輩の清原秀賢が朝廷や徳川家康に訴えるも却下された。学問の研究の自由が確保されるようになってきていたからだという。

[末席]

同9年(1604)藤原惺窩と会見。弟子となった。翌年、家康に謁見。さらに2年後、仕官した。これは仕官を求められて断った惺窩が代理に推薦したものといわれる。この時の羅山は儒学者としてでなく僧侶として採用されたのであり、やむなく剃髪した(廃仏を唱える儒学者には屈辱である)。儒学を評価されたのでなく、知識を評価されたのである。しかも300俵の待遇で駿府書庫の管理役の身でしかない。同15年(1610)やっと本多正純と長谷川藤広に取り入って、五山の僧以外で初めて明への外交文書を書かせてもらう。活躍は増えていき、歌学・和書に関する知識も冷泉家を凌ぐものがあったが、金地院崇伝や南光坊天海たちの壁は高く、羅山が本領を発揮するのは彼等の死後のことである。二条城の会見の後の法令三箇条の起草に一役買う。方広寺鐘銘事件に一部関与。「右僕射源朝臣」の一節を「家康を討つもの」と詠んだという(「右僕討」とは右大臣の唐名である意味を本来持つ)。大坂冬の陣に家康に従軍。夏の陣に際しては「大蔵一蓋」の開板を命じられていたため従軍しなかった。

[幕閣へ]

元和2年(1616)家康死去の際には遺言で駿府書庫の処分を命じられた。羅山は将軍家と御三家にこれらの分配にあたる。続いて、二代将軍の秀忠の側近となるが重用される機会は巡って来ない。京都に居ることが多く、黒田長政らの大名に講釈する機会があったが、私的な活動であった。三代・家光の代になると日が当たるようになる。寛永7年(1630)法師に列せられ、諸大名に次ぐ地位を得た(やはり僧侶扱いである)。この年にはさらに上野忍岡に5353坪の土地と私塾の県立費用2百両を賜った。同9年(1632)徳川義直の援助を得て、賜地に一堂を建ててもらう。崇伝が没すると幕政に参加できるようになり、諸候の前で自ら起草した「武家諸法度(元和年間に作られたものの追加)」を朗読してみせた。外交文書の起草も担当するようになる。

[近世史学の祖]

同18年(1641)幕府は大名・旗本の系図「寛永諸家系図伝(寛政重修諸家譜の前身)」を編集させたのだが羅山はその実務にあたった。これと並行して「本朝神代帝王系図」「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」「織田信長譜」「豊臣秀吉譜」の編修を命じられた。同20年(1643)天海が没すると羅山の地位はさらに高いものになる。後継には柳生宗矩の推挙で沢庵宗彭が選ばれたのだが、彼は外交や文教に対する影響力は無かったので、その地位を脅かされることも無かった。正保元年(1644)国史の編修を命じられる。また、元号や次期将軍・竹千代(後の家綱)の諱についての相談を受けた。慶安4年(1651)家光が没すると、その追号(大猷院)について議した。続いて四代・家綱に仕えるが、明暦3年(1657)6月19日「明暦の大火」で神田の自宅と幕府下賜の胴文庫を焼失。上野の別荘に逃れるが、翌日病に倒れ、23日死去した。子孫は幕府の儒官として名声を高めた。

[コメント]

近世儒学と史学の祖とされる林羅山でありますが、徳川家の御用学者になったことで、あまり人気の方は芳しくありません(ただ、家庭では明るい性格だったらしい。ちなみに羅山の肖像画が頭を隠しているのは儒学の教えに背く坊主頭を隠すためらしい)。家康のブレーンとされていることを度々見かけますが、実際には特に朱子学は重用されておりません。ちなみに最終禄高は1000石足らずでした。朱子学が幕府の官学となるのは、羅山の死後の話で、知識人として重用されたものらしいです。「国家安康」云々の方広寺鐘銘事件についても羅山の子孫(祖先の業績を喧伝)や物好きが拡大解釈した事件であるともいいます。つまり「国家安康」やらは現在言われている程、当時問題にされていなかったかもしれず、徳川方が大義名分も無く、戦をけしかけたと見るのは早計ですね(少なくとも国家安康の前から軋轢は生じていた)。こちらにも一部紹介あり。