論説 夕顔という女

 

 

 

 

研究者の間では古来から源氏物語「夕顔」の巻がいくつかの矛盾、不明を含んでいることが知られていたようだ。

実をいうと私がこの話を知ったとき、最近ではちょっと記憶にないほど激しく感動した。

なぜかというと、ちょっと長い話になるが、それはこういうことだった。

 

私がはじめて源氏物語に触れたのは確か小学校6年生のときである。日本人たるもの、名作「源氏物語」の概要ぐらいは知っておくべき、と思い立ち、池田弥三郎氏著「光源氏の一生」という解説本を購入した。

そして読んだ。

しかし、全く分からなかった。

いや、書いてある内容は平易かつ明快であり、文学的でもあり、この「光源氏の一生」は名著であることは間違いない。あれから25年以上が経過した今も、ボロボロになったこの本を読み返すことがあるくらいだ。しかし、名高い「源氏物語」、そのどこが面白いのか、それが全く理解できなかったのだ。

このときの感想は今でもはっきり覚えている。

第一のつまずきは、「雨夜の品定め」からだ。

桐壺巻から物語が始まり、義母との不義密通というセンセーショナルなオープニングが語られた直後に、なぜ物語がこんな「あさって」の方向に向かうのかが子供心に大きな違和感となって残った。(実はこの点についても、後に大きく頷かされる理論に出会うことになるのだが、今は置いておく。)

そして私の源氏物語に対する拒否反応を決定づけたのが、これから話題にする「夕顔」の物語であった。

まず、巻の冒頭部の非常に分かりにくいシチュエーション。

加えて光源氏も夕顔も、非常に「いい加減」な人間に感じさせるストーリー。

光源氏が覆面を被って逢瀬を重ねるという、にわかには信じ難いほどの不自然さ。

そして夕顔が何の必然性もなく正体不明の「もの」に憑かれて殺されるという非科学的な結末。

もはや「源氏物語」に対して大いなる敬意を持って臨んだ少年の夢を打ち砕くのに十分であった。この落胆のため、私がこの「光源氏の一生」を読了したのは、かなり後になってからだったと記憶している。

 

私が「源氏物語」と2回目のコンタクトを果たしたのが、高校の古典の授業だった。

運命というべきなのか、教科書に掲載されていたのは奇しくも、「夕顔」の冒頭部だった。

古典の担当教諭は、「夕顔」の分かりにくい序盤のシチュエショーンを丁寧に解説してくれた。

しかし、貴人の車を物珍しそうに覗く住人、扇を介した突然の短歌の贈答。

理由付けなく行なわれるこれらの不審な挙動は、私の拒否反応を再確認させる結果にしかならなかった。

 

それから数年後。

名著「光源氏の一生」のおかげで周囲の人間より源氏物語に詳しかった私の前に、はじめて、私以上に源氏に詳しい人間が登場した。

それは何と、私の弟だった。

彼は確かに頭のいい男だが文学にはほとんど興味を示さない人間だったはずだった。しかしこのとき久しぶりに会った彼はどうしたわけか、源氏物語をディティールまで知り尽くしていた。

やがて理由が分かった。

今や源氏物語の最高の入門書と言って異論を唱えるもののない、大和和紀のミリオンセラー漫画

「あさきゆめみし」

だった。通称「大和源氏」と呼ばれる。

私も早速読んだ。

私の源氏物語に対する薄暗いイメージは、この大和源氏によって完全に書き換えられた。

それまで私の頭の中で単にロボットのように動いていた登場人物たちに、この作品が「魂」を入れてくれた感じがした。これはもちろん少女マンガというせいもあるだろうが、古典「源氏物語」が、現代でもまったく色褪せない恋物語として鑑賞可能であることを知らされた。

しかし。

この作品においても、私の「夕顔」への拒否反応だけは克服できなかった。

大和源氏の夕顔の君は、教養はないが母性的な優しさに満ち、一緒にいる男を安心させる女性として描かれている。原作を極力好意的に解釈しているといっていい。しかし、だからこそ一層、「源氏を歌で誘った」とか「前の恋人をあっさり忘れている」という行為とのコントラストが、この夕顔のふしだらな面を浮き上がらせてしまっている。

大和源氏でさえ克服できない「夕顔」の違和感。

もはやこれは紫式部の筆の未熟さに原因があるとしか考えられない。

 

そうしてファーストコンタクトから25年以上「夕顔嫌い」のまま、私はつい先日、飯村博氏の「源氏物語のなぞ」という著作で解説された「夕顔という女・黒須重彦説」に出会ったのだった。

 

 

前置きが長くなったが、夕顔巻の矛盾点について、従来説と黒須説の解釈を対比してみよう。

壮大な黒須説の全貌をここで紹介することはとてもできないが、黒須説のエキスは

「夕顔とその家人たちは、ずっと『頭の中将』の来訪を心待ちにしている」

という前提で物語を解釈する点にあると言える。

念のため書いておくと、夕顔という女性は元々「常夏」と呼ばれた頭の中将の愛人であり、娘(のちの玉鬘)も生んでいる。しかし頭の中将の正室の嫌がらせを受け、現在は耐え切れずに下町に逃げ暮らしている、という状況である。

これを踏まえて、では夕顔巻に描かれた光源氏と夕顔のやりとりを概観してみよう。

 

はじめて訪れた乳母の家の前で車を待たされている間、源氏はその隣家から簾越しに女性たちがこちらを観察している(@)ことに気付く。源氏が更に見ていると、見慣れない白い花、夕顔が咲いているのが目に留まったため、それを貰ってくるよう従者に命ずる。従者が夕顔の花を折り取ると、家の中から使いが出てきて従者に香が焚きしめられた白い扇(A)を渡し、花はこの扇に載せて渡すよう言う。花と扇を受け取った源氏は、しばらくしてから扇に歌が書きつけられている(A)ことに気付く。

こころあてに それかとぞみる 白露の 光添えたる 夕顔の花(B)

この謎めいた女性が気になって仕方ない源氏は、人に知られないように細心の注意を払いながら、この夕顔のもとに通うようになる。しばらく通ったのちのある日、源氏は夕顔を廃院に連れ出し、ここではじめて顔を見せ(C)、「いかが?」と問いかける。夕顔は源氏の素顔を目尻の端で見て(D)、こう答える。

光ありと 見し夕顔の うわ露は 黄昏どきの そら目なりけり(E)

この後まもなく夕顔は、正体不明の「もの」に憑き殺され、事件発覚を恐れた源氏たちによって秘密裏に埋葬されてしまう。

 

項番

エピソード

従来説

黒須説

@

簾の中から様子をうかがう人々

物珍しがっている

頭の中将の来訪かと見守っている

A

使者が差し出す扇と歌

風流な軽い誘い

自分が常夏(夕顔)であることの咄嗟の合図

B

扇の歌の意味

光る夕顔のような美しさ、あの光源氏の君ではありませんか?

頭の中将さまではありませんか?私はあなたの愛を受けた夕顔です

C

源氏が夕顔に顔を知られない理由

源氏が正体を隠すため覆面をしている

夕顔が男の顔を直視しないため、容易に隠せた(貴族の娘はそういう教育を受ける)

D

廃院で夕顔が源氏を目尻の端で見る

(色っぽく)流し目で見る

恥じらってチラと見る→C

E

廃院での夕顔の返歌の意味

あのときは美しいと思ったが、実際はそれほどでもありません(D→とても美しいわ、を皮肉っぽく表現した)

あの方かと思ったのは人違いでした

 

このように、従来説と黒須説では全く異なる夕顔像が浮かび上がることが分かる。

上記の比較に「つたない、無邪気である」という原作の描写を重ね合わせてみると、従来説の夕顔は悪いがまるで分裂症のようだ。しかし逆にこれがミステリアスである、小悪魔的であると解釈され、むしろ人気の高いキャラクターとして存続してきた。

それに対し黒須説の夕顔は、必死の思いで頭の中将を待ちながら、しかし庇護者のいない悲しさ、源氏の略奪の前になす術もないかよわい女性として浮かび上がってくる。

この黒須説の解釈が学術的に可能なのか、この点については否定派が主流のようで、今もなお従来説が定説に近い評価を受けている。前述した大和源氏はもちろん、近年話題となった瀬戸内寂聴訳でも残念ながら完全に従来説が採られている。

紫式部が描こうとした夕顔という女、本当はどんな女だったのか。

その答えは永遠に出ないだろう。

素人の私に言えることは、従来説の夕顔は嫌いだし、黒須説の夕顔は大好きである、ということだけだ。

 

それでも私は夕顔巻そのものは未だに好きになれない。

夕顔を憑き殺した正体不明の「もの」は何なのか

なぜ夕顔は変死せねばならなかったのか

概して歯切れよい「源氏物語のなぞ」においても、この点が合理的に説明されているとはとても思えない。

いっそ六条御息所の生霊の呪い(注)であると、そう断じて貰った方が夕顔も浮かばれるのではないかと私は思う。

 

 

(注)六条御息所生霊説:巷で有力なこの説は学術的にはほとんど支持されていない。しかし夕顔巻にはなぜか六条御息所に関する描写が随所にあり、式部が御息所と夕顔の変死とを結びつけようとしているという発想は無根拠でもない。「大和源氏」ではこれらの描写をより強調することで明らかに六条御息所生霊説を採っている。

 

夕顔の死につづく

 

 

 

(著:管理人USER

 

 

 

 

 

 

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