Nゲージサイズ(1/150)青函連絡船「大雪丸(二代目)」建造記

(株)ネコ・パブリッシングの「RM MODELS」1998-8号に掲載されたときの誌面写真です。

 

■青函連絡船大雪丸(二代目)

津軽丸形の青函連絡船で昭和40年5月就航。その後、札幌オリンピックの聖火輸送にも従事し、連絡船終航直前
昭和63年1月までの間青函航路で活躍。その後、紆余曲折を経今は長崎で船上ホテルを第2の活躍の場としている。

連絡船と私(…いわゆる前振り)

 私と青函連絡船との出会いは遡ること18年前。幼稚園の遠足で青森へ行ったときに乗った津軽丸が最初であった。
そのころは鉄道にもとんと興味もなく私にとって連絡船も単なる交通機関の一つに過ぎなかった。その後チャーター船の
十和田丸で秋田に行った事もあり機会には恵まれていたにもかかわらずいつでも乗れるだろうと言う気安さと、まだ私
が幼かったと言うこともあり時は過ぎて行き、気がつくと青函連絡船は廃止に。ところが皮肉なもので航路が無くなって
から私の中に連絡船に対する興味が湧きはじめ…その後、函館の高校に進学した私は暇さえあれば若松桟橋に係留
されている摩周丸を見に行く日々であった。

十和田丸の展開図との出会い

 そんなある日、私が摩周丸へ行くと、売られているポスターやグッズの中に十和田丸の展開図(複写)があった。早速私は
買い求め自宅で眺めていたりしていたが、ふと、「これを元に模型を作れないか?」という思いが沸き上がってきたのだった。
 その展開図の縮尺は1/200。当時は近所に1軒しかなかったコンビニで拡大コピーをかけ、それを元に連絡船の建造を開始
したものの資財の極端な不足と模型製作の経験がほとんど無い状態の最初はまず全ペーパー製のモックアップ(十和田丸)を制作
し全容を掴むところから始めた。
 しかし、運悪く大学受験という障害が立ちふさがり建造は一時中断。モックアップ(十和田丸)は全体の半分程度を残して大学
入試まで放置。さらに大学浪人という結果になり予備校の寮生活で札幌に渡った私にはもはや模型につぎ込む時間はなくモック
アップの十和田丸は実家の押入で1年間以上眠ることに…。翌春、運良く札幌の大学に入学を決め実家に戻った私は入学式ま
での間、押入で眠っていたモックアップを引っぱり出し時間をつぎ込み、何とか完成へ。。

大雪丸の建造へ・・・・

 肝心の大雪丸の方は…というと、大学入学でサークル活動に、飲み会にと忙しい(?)毎日を送る日々の中で模型化の方は
すっかり頭から消え、設計図もろとも実家の奥で眠ったまま1年が経過。そんなある日、本屋で立ち読みしていた雑誌の広告の
中でPECOのY字ポイントレールを発見。日本製のポイントではとうてい無理だろうと思っていた連絡船の中の航送用のレールの
ポイントの制作に目途がつくと判断した私は大学の休みに札幌から上京。銀座の天賞堂に乗り込みポイントを買い込み本格的に
建造を復活することに。

 ところが、展開図など諸々の道具は全て実家。そのためすぐには取りかかれず、再開したのは大学2年の夏休みに実家に戻った時。
その時点で船体の建造に着手。事前にモックアップを造った経験から船体の方は時間が短かったにもかかわらずある程度の所までは
進んだのだが私の狭い下宿に1m近い船体を置くスペースはなく、建造中途になったままの船体は再び実家の奥に封印。この時点で
建造決定から3年が経過。しかし、その間ただ手をこまねいていたわけではなく、全国各地に散らばる連絡船の取材へ東奔西走。
長崎、東京、青森と青函連絡船がいれば駆けつけ(
さすがにキプロスまでは行けなかった)資料になる写真を撮ってきて制作の下準備を
積み続ける日々であった。

完成へ・・・・

 大学3年になる春休みにアパートへ引っ越すことになり広い部屋に移ったことから実家の建造途中の船体、展開図などの一式を
札幌のアパートへ移転。この時点で船体の方は進水式はできるぐらいの完成度である程度の形になっていたが、移転の際に実家
からアパートまでは手押しカートを使い夜行列車で移動した事から輸送中に若干の破損が生じたものの、幸い破損の方は大したことが
無く修復の後、学業の合間を縫い細々と建造は続けられた。

 そして、ようやく完成したのは大学生活も半ばを過ぎた大学3年の冬。

 しかし最初はどこにも出すことなくこのまま部屋の押入の肥やしになるものかと思ったところが、ふとしたきっかけで知り合った
北大鉄研(当時)の小熊氏(
Nゲージ車載カメラの開発の先駆者です)との電子メールのやりとりがあり、その電子メールのなかで1998年
5月の三笠で行われるイベントで大雪丸が出展されることに決定。

 大学4年の春、三笠でのイベントには就職活動の間を縫い私も参加し、日の目を見ることとなった我が大雪丸の姿に感動。その際、
取材に来られていたRM編集部の羽山氏のお陰で、私の大雪丸は「RM MODELS 8月号」にカラーで紹介される。(写真参照)

船体組立

 RM MODELSの紹介文にもあるようにここで使用したパーツ類で市販の部品は救命ボートのみ。(船内レール・手すりは除く)
【ちなみに船内航送用レールの方はPEKOのY字ポイントとKATOのフレキシ線路。手すりの方はHOゲージの輸入市販パーツ
(おそらく架線だと思う)を改造したもの。】

 特に船首部分はかなり曲線がきつく、整形には苦労することが予想されたので船首部分のみ発泡スチロールで一体整形を施し、
塗装の際発泡スチロールを侵さないようにその上から紙を貼り、さらにプラ板(t0.3mm)を張るという構造に。

 船体側面は予算の都合上スクラッチは無理。全面プラ板での制作も厳しい状態で結局t0.3mmプラ板にボール紙の張り合わせ
という積層構造にせざるを得なく、長期に渡る制作の途中でこのことが船体にかなりのひずみが生じさせる結果となった。

 青函連絡船は船により船体構造に違いがあり、それに気がつかなかったため側面の乗船口の形状の違いが生じたことから一旦
完成した側面をひっぺがしてもう一度作り直したことも。

 後部煙突(マスト)についてはバルサ材を重ね、パテで目止めを行い塗装したもの。ただ強度的に問題があり制作途中もよく
折れ、難儀することに。現在は中芯に真鍮線(0.3mm)を入れ何とか持たせている状態。

塗装

 塗装に対しては完全に素人の私で、塗装を始めた頃はマスキング、目止めなどの知識は全然なかったので、マスキングに
セロテープを使ったりしていたこともあり結構へろへろな塗りに。模型に手慣れた方にはお笑いぐさでしょうが…

 基本的な船体色の緑色に使用したのはTAMIYAの缶スプレー(RACING GREEN・TS-43)です。
白い部分は、最初国鉄時代のベージュに近い色で塗りたかったのですが、札幌市内で在庫が無く、JR化後の
白色にしました。使用塗料はこちらもTAMIYAの缶スプレー(PURE WHITE・TS-26)

 下地の目止めはTAMIYAのラッカーパテと、Mr.ホワイトサーフェイサー(B-511)の併用です。

 

◎これから(あとがき)

これからの予定は立っていません。大雪丸は今の状態でもまだ完成とは言えない状態で(錨の整形に難航。)

100%の出来でないと言うこともあり、まずはそちらに力を入れていく予定ですが、果たして完成はいつの事やら・・・

それに青函連絡船という大作(?)に取り組み完成させた後、制作に関わる情熱が急速に沈静化しております。

大雪丸は本来青函連絡船単独の作品ではなく、函館桟橋と一体化したレイアウトの一部としての連絡船として建造

の予定でしたが果たして完成するのかどうか微妙な情勢です。

次回連絡船を造るなら石狩丸か桧山丸がいいかなぁ・・・・と考えたりしていますが、転勤の多い職場と言うこともあり

制作のめどが立たないのが現状です。(しかもいつどこに配属になるのか判らない状態なのでなおさらです・・・・)

ただ、今回の経験が今後の模型制作に役立つであろう収穫を得ることが出来たのが大きかったです。

 

・今回の大雪丸の制作では「Nゲージレイアウト4」(機芸出版社)の「土佐丸のいるレイアウトセクション」

(記事著作・南石忠嗣氏)の記事が大変参考になりました。

・大雪丸をイベントに出展するきっかけを作って下さった北大鉄研の小熊氏に感謝いたします。