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高山市松之木町の七夕まつり(七夕岩)見学記

                               石沢 誠司


   
目  次

松之木町七夕岩の行事とは
高山市の松之木町へ
大しめ縄が夜空に上がる
翌朝の七夕岩で
『斐太後風土記(ひだごふどき)』にみる明治初期の七夕岩
『飛騨国中案内(ひだくにじゅうあんない)』にみる江戸中期の七夕岩

『飛州志(ひしゅうし)』にみる江戸中期の飛騨の七夕岩と七夕綱飾り
江戸初期の検地帳に「字七夕」の地名、七夕岩の始まりは?


 
松之木町七夕岩の行事とは
 JR高山駅から東へ約2キロ行ったところに、松之木町がある。この町内を流れる大八賀川が上流で漆垣内町と接するところが、両岸に岩山が迫っており「字七夕」と呼ばれている。この岩山の上流に向かって右岸を男岩、左岸を女岩と言い、通称「七夕岩」と呼んでいる。毎年8月6日(古くは旧暦7月6日)に岩から岩へ大しめ縄を張り渡し、牽牛織女の二星をまつり五穀豊穣を祈る行事が松之木町七夕まつり(七夕岩)である。町内でこの一年間に男の子が生まれた家では藁馬を、女の子が生まれた家では糸巻きの作り物を大しめ縄に吊し、子供たちの健やかな成長を願う。この行事は高山市の無形文化財に指定されており、高山市教育委員会が発行した『高山の文化財』(平成11年刊)には次のように紹介されている。

無形民俗文化財 松之木七夕
〈市指定〉 平成6年11月4日
〈所有者〉 松之木町内会
〈所在地〉 松之木町
〈時 代〉 江戸時代〜
 松之木の七夕は、町内にある七夕岩で行われる行事を中心としている。七夕岩は、大八賀川の両岸に立つ、男岩と女岩の二つの大岩からなる。毎年八月六日(古くは旧暦七月六日)に、男岩と女岩の両岸に大しめ縄を張り渡し、飾り提灯や、その年男の子の生まれた家では藁の馬を、女の子の生まれた家では糸巻きを吊し、牽牛織女の二星をまつり、五穀豊穣を祈る。
 この行事は元禄時代以前から行われていたといわれ、『飛州志』や『飛騨国中案内』『斐太後風土記』の中でも紹介されており、古くから遠近に知られていた。国道を横断して張られ、危険なために一時中断したこともあったが、当局との折衝の末、復活をした。歴史もあり、他では見られない貴重な民俗行事である。

 
高山市の松之木町へ 
 平成14年8月6日(火)高山市を訪れた私たちは、まず市立図書館に行き宮崎惇氏の編集した『高山市松之木町の民俗行事 七夕祭り資料集』を閲覧し主要部分のコピーをとらせていただいた。そして夕方、高山市中心部からタクシーで約10分の松之木町に着いた。さっそく電話で連絡をとってあった町内会長の門前洋一さん宅を訪れると、門前さんは「この祭をよく知っている地元の方を紹介します」と言って、家からすぐ近くの七夕岩まで案内してくださった。

 門前さんの家は大八賀川の右岸にあり川沿いの道を上流に少し歩くと、すでに両岸は七夕祭を見学にきた人たちで賑わっている。道に沿って飲食物を売る屋台が並び、河原には特設の会場が設けられ音楽等が演奏されていた。川を斜めにまたいで国道361号の高架橋がかかっているところが七夕岩だった。両側に山が迫っており対岸を見上げると大きな岩があり、これが男岩だという。岩には大しめ縄が幾重にも巻かれその先が下に延びている。

 河原に下りると流れをまたぐ仮設の橋が架けられており、それを渡り対岸に上がった所が七夕祭の準備をする場所だった。そこでは松之木町内の人々が男岩から延びたしめ縄に行灯を付ける作業をしていた。目的の藁馬はすでに糸巻きとともにしめ縄に結びつけ
       しめ縄に行灯をつける
られていた。藁馬が3頭、糸巻きが3個である。すなわち松之木町内では七夕までの一年間に男児3名と女児3名が誕生したことになる。行灯は藁馬と糸巻きの間に等間隔で4つずつ吊り下げられているところだった。行灯というのは町民の手作りで約10センチ角の板上下2枚に30センチの枠材4本を釘で固定し、障子紙を貼ったものである。上下の板に錐で穴が二箇所あけられ、そこに針金を通し行灯3つが縦一列になって一番下の針金の先には重りが付いている。行灯の中には底板から出ている釘にローソクが刺されて立てられている。

 門前さんは町内のお二人を紹介してくださった。藁馬を作った洞善治さんと、地元の歴史にくわしい平野勇さんである。まず洞さんにお話を伺った。
「藁馬は毎年2〜3頭作ります。糸巻きも2〜3個作ります。昔は皆、わら細工が得意だったので、七夕の前になると男の子の生まれた家では藁馬、女の子の生まれた家では糸
            わら馬
巻きの作り物をその家のおやじが作ったものだが、今では私のところに頼みにくる。今年は馬を2頭作ったが、私以外にも一人が馬を作った。この二人以外にも馬を作れる人は2〜3名いる。藁馬は集中すれば一日でできるが、仕事があるのでその合間につくるから1週間ほどかかる。首と4つの脚には針金を入れてあり、全体の姿は針金を曲げながらバランスよく仕立てる。たてがみの部分は髪をピンと立てる為に、割り箸に稲穂(籾を落としたあとの)を揃えてはさんみ取り付けてある。糸巻きは木枠を藁で覆い、細い藁縄で所々を結んで作る。これで出来上がりだが丁寧に作る場合は、糸に見立てた細縄をぐるぐる巻く。今年は糸巻きを2つ作った。」

 続いて平野勇さんのお話をお聞きする。
「松ノ木の七夕しめ縄は右ない縄です(一般のしめ縄は左ない縄)。男岩(地上から約13メートル)から女岩(男岩より少し低い)まで直線距離約80メートルだが、縄の長さは垂れるので100メートルになる。縄は10メートルのものを13本つないであります。つなぎ目に約1.5メートルとっています。縄は1週間前の日曜日に地区の者が公民館に集まって作ります。しめ縄なので縄の途中に七つ、五つ、三つの房を順に出してある。房は同じ量の藁で作るので、七つの房はひとつひとつが細く三つの房は一番太い。

 七夕のしめ縄は、昔は一年中飾っておいた。すると台風や雪が降った時などに自然に切れた。しかし運良く一年間保ち、翌年の七夕に二本、縄を飾ることもあった。そういう時は「世の中が良い」といって喜んだ。今は縄の下に国道の橋ができ、切れると危険なので一ヶ月後(9月7日前後の日曜日)に下ろします。

 昔(第二次大戦前)は町内の子どもが「七夕か〜ん〜じ〜ん(勧進)」と言って小さい采(ざい)を腰につけながら近隣町村を歩いて寄付を募った。寄付集めは子どもの仕事だった。集まったお金で花火を買って七夕の夜に上げて遊んだ。大きな笹飾りを作って男岩のてっぺんに立てた。また子どもたちは各家で笹飾りをした。

 延享2年(1745)、隣の村と七夕岩をめぐって山論があった。つまり隣り村は七夕岩のところが村の境界だと主張し、松之木村は七夕岩から降りた谷が境界で岩はこちらの村のものだと主張した。この山論で縄を張れなくなったら、その年は稲の害虫が大発生した。また十数年前、国道に架かる松之木橋の架橋建設にともなって安全上の理由から縄上げが禁止されたが、この年に付近の子どもが2人も水死する事故があり、それから縄上げを復活したこともある。」

 
大しめ縄が夜空に上がる
 お話を伺っているうちにだんだん暗くなってきた。午後7時30分、曹洞宗のお坊さんがやってきて、男岩の下にある三十三番観音の前で法要が始まった。この観音は七夕岩のあいだを通る現国道ができ、人通りの少なくなった以前の場所から平成2年に移されたもので、七夕のイベントの一環として法要をおこなっているのだという。

 法要が終わると、町内の人たちが手分けして縄に吊されている行灯のローソクに火をつけ始めた。行灯といっても先に書いたように木枠に紙を貼った簡単なもので、紙をあらかじめ貼り残した隙間から手を入れて火をつける。暗い夜空に行灯の明かりが次々に灯されると、幻想的な雰囲気になってきた。いつの間にか所々に配置されていた篝火にも火がついていた。

 
    サスマタでしめ縄を持ち上げる
8時になるといよいよ大しめ縄の引き上げ作業が始まりである。まず町内の若者たちがサスマタという先がY字形になった棒をいくつもしめ縄にあて、高く持ち上げた。見上げていた観衆のあいだから一斉に歓声が起る。縄の先端が国道の高架橋の上にいる人たちに届くと、橋の上で女岩から下りてきている縄との結合作業が始まった。国道はこの時、交通止めされている。以前この国道ができるまでは少し下流の七夕橋しかなかったそうである。七夕橋から大しめ縄を眺めるのが最高の場所だったそうである。

 しばらくすると河原の特設ステージから司会者の声で、「これから大しめ縄の引き上げが始まります」というアナウンスがあると、ホラ貝の合図で引き上げが始まった。女岩にいる若者たち30人ほどが引き上げているのだという。今度はステージから太鼓の音が聞こえてくる。行灯の明かりが夜空に揺れ、大しめ縄が上がっていく様は感動的であった。

  
翌朝の七夕岩で
 
         上流から見た七夕岩
翌8月7日朝、七夕岩の綱飾りを写真にとるため再度、松之木町を訪れた。大しめ縄は青空に映えて雄大な眺めを作っていた。昨日使っていたテントや仮設舞台、流れに架かる仮橋などはすべて片づけられてきれいになっている。同行していただいた洞さんにお聞きすると、今朝5時から町内の者が出てきて片づけたそうである。最近は町内でも会社勤めの人が多いので出勤前でないと全員が集まれないとのこと。七夕行事を維持してゆくために払っている町民の方々の努力に対して頭がさがる思いである。

  わら馬と糸巻きの間に行灯4列が下がる
 大八賀川の下手から歩いて行くと、国道の高架橋が見えて写真をとるにはあまりいいアングルではない。縄の下を通って上流へ出るとようやくいい景観が見つかった。写真がそれである。しかし上流からは右の女岩は見えるが、左の男岩は見えない。それにしても下流の七夕橋からの景観が失われたのは残念である。

 改めて吊られている作り物を確認すると、藁馬と糸巻きが交互に3つ、計6個、それらのあいだに行灯が4列ずつ、また左右計8列、合計28列が吊されている。昨日、男岩の下で準備していたのはこれら作り物を縄につるす作業で、縄を上げる直前に橋の上で結びあわされたのは、吊し物のある最後の縄の端だったわけである。

 なお
      七夕岩を描いた渋草焼の絵皿
大しめ縄を見学する前に藁馬を作られた洞さん宅を訪問し、七夕に関する資料を見せていただいたが、その中のひとつに平成6年に松之木町七夕が高山市の無形民俗文化に指定されたのを記念して制作された渋草焼の絵皿があった。渋草焼は高山市上二之町の芳国舎で作られている白磁で、天保年間から続く飛騨の名窯である。皿の絵は七夕岩の綱飾りの景色を描いたもので、両岸に屹立する七夕岩から大しめ縄が張られ、下には大八賀川と七夕橋が描かれている。この絵は川の下流からみたもので、江戸時代から続くというこの綱飾りの昔の姿を彷彿とさせる絵皿である。現在は十数年前から国道の橋が七夕岩の真下を通っており大部景観が変わってしまっているので、以前の七夕の様子を知ることのできる貴重な絵皿である。

 
『斐太後風土記(ひだごふどき)』にみる明治初期の七夕岩
 
松之木町七夕がどこまで遡れるのか、宮崎惇氏からご教示いただいた資料を用いて辿ってみたい。
『斐太後風土記(ひだごふどき)』は明治6年(1873)、冨田礼彦によって集大成された飛騨の地誌である。発行は明治だが内容は江戸末期の飛騨地方を伝えているとされる。七夕岩の項は次のとおりである。

七夕巖 東西山腰の岩より岩まで、大八賀川の川幅。南方隣村五名との山境に在り。大八賀川を挟み、東西の山腰に、相對て峙起たる丈餘の大巖あり。村民家ごとに綯おきたる縄を集め、毎年七月の六日の宵、東西の大岩に張亘し、挑燈(ちょうちん)に火を點し、藁にて馬牛其餘種々の形したる作物等、あまた取懸ならべて、牽牛・織女を祭り、年の豊凶を占う。翌年の七夕まで、其縄の保ちたるは豊年の兆なりとぞ。其来由詳ならず。鍋山豊後守の居城より以前のことにや。六日の夜には、年々高山町よりはさら也、近村よりも若年輩来りつどひ、皆々橋上にて見はやせり。「初秋の夕を照らすともし火に、七夕岩の名こそ高けれ」越前横越照誠寺東溟。
この記述をみると、七夕岩の習俗は現在と基本的に変わっていない。当時から七夕岩は有名だったようで、高山だけでなく近隣の村々から若い者が集まって賑やかだったことが分かる。しかし縄に吊すのは馬だけでなく、牛や種々の形をした作物などがたくさん取懸け並べられていた。そしてこの祭りの目的は牽牛・織女を祭るだけでなく、その年の豊凶を占う意味もあったことがわかる。すなわち縄が切れず翌年の七夕まで保てば豊作だといわれたのである。なお文の前後に七夕岩の場所を示す地図と、七夕岩の綱飾りの下に七夕橋を描いた図がある。この図中に詠まれている詩歌は、男岩の下が「二つ岩苔むしにけり星おちて、なりし石さえ千代や経ぬらん 冨田礼彦」、女岩の下が「初秋の夕を照らすともし火に、七夕岩の名こそ高けれ 釈東溟」である。
『飛騨国中案内(ひだくにじゅうあんない)』にみる江戸中期の七夕岩
『飛騨国中案内』は高山陣屋の地役人であった上村満義が公務のかたわら約20年間に飛騨国内を調査した結果をまとめた地誌で、延享3年(1746)に刊行された。七夕岩の項は次のとおりである。

板橋一ケ処あり、字「七夕」と云う、橋長八間、巾九尺あり、即ち、此近き処、橋場より一町程川上南の方に「七夕岩」と云て、年毎七月七夕に川東より川西へ縄を張る、両方共に険阻の岩角なり、先年より七夕に祭事致す義なり、此縄の長さ十五・六間も谷川を横に引き張る事なり、此つな年中も不切にあれば、秋世の中、吉と処の野人共悦ぶ事、悪風雨も之れ無く候へば、年中は其儘に不切故、秋作の出来方能と云う義なるべし、此岩の近き処に岩穴一ケ処あり、此の岩屋の内に観音佛一体御座す、尊観音にて即ち七観音の内成り

 江戸中期、七夕岩に縄が張られたことが記されているが、藁馬が吊されたかどうかは定かでない。この縄が年中保たれるかが作物の豊凶を占うことは、地元の人々にとって関心事だったことが記されている。近くの岩屋に観音仏が一体祀られており、現在、男岩の下にある三十三番観音の源流になっている。
 なお『飛騨国中案内』が出た延享3年より8年後の宝暦4年(1754)に刊行された津野滄洲著『飛騨八所 全』に、「七夕岩」が飛騨八所のひとつに入っている。江戸中期においても七夕岩の綱飾りは飛騨の国で名所のひとつだったのである。(この書物には七夕岩の絵が載っているそうである)

 『飛州志(ひしゅうし)』にみる江戸中期の飛騨の七夕岩と七夕綱飾り
『飛州志』は飛騨代官の長谷川忠崇によって延享年間(1744−48)にまとめられた飛騨の地誌である。ここに七夕岩の記述がある。(飛騨叢書 第一編『飛州志』 住伊書店 明治42年 )

私呼巌
○ 七夕岩 同郡五明村松の木村両山上にあり、村民毎歳7月6日より七夕を祭る故にこの号あり、これ五穀豊熟の祭礼古来の定例なりと云う、其の式は両山の上の岩に縄を張り灯篭又藁を以って造りものをいたし是に掛けることなり

ここでの七夕岩は、その目的が五穀豊熟の祭礼であること、それが「古来の定例なり」と、古くから続いていることを示唆している。また縄に灯篭(とうろう)及び藁の作り物を吊るすことが記されている。
『飛州志』にはまた民間月令の項に七夕について注目すべき記述がある。

民間月令 
○ 七月、(中略)六日 民の児童、今夜七夕の祭をいたす。凡(すべ)て川の岸に出て向の岸よりこなたへ縄を張り、是に藁にて色々の品を作り、又灯籠をかけてともす也。七日の朝、悉く取り捨てるなり。七月七夕、強飯を祝い食す、硯を洗う事他州に同じ。

 七夕岩と共通する行事が江戸中期の飛騨にあったことが記されている。すなわち子どもたちが川の両岸に集まり、岸のむこうからこちらへ縄を張り、これに藁でいろいろな品を作って吊り、また灯籠も吊して灯すのである。しかしこの縄は翌7日の朝、取り捨てられるという。これをみると飛騨では七夕岩以外にもいろんな所で、川をまたぐ七夕綱飾りがおこなわれていたことが分かる。なお7月7日は強飯(赤飯)を食べ、硯を洗う風習があった。

 
江戸初期の検地帳に「字七夕」の地名、七夕岩の始まりは?
 郷土誌にくわしい平野勇さんは、「七夕岩の地名が『元禄八年松之木村田畑御検地水帳』(1695)に「字七夕」と記録されている。地名に「七夕」とついているところから、すでに元禄時代にはここで七夕行事をおこなっていたと考えられる」とおっしゃっている。ではこの地の七夕行事はいつ頃まで遡れるのだろうか。

 平野さんは、「元禄5年からこの地は天領だった。それ以前は金森氏が支配していた。金森氏は天正10年(1582)頃この地にきた。特に金森長近は高山城築城以前に鍋山城(女岩のある山の頂上にあった城)に10年近くいた。それ以前は土地の豪族が支配していた。『斐太後風土記』に出てくる鍋山豊後守顕綱は永禄(1558〜1569)の頃の飛騨国主・三木自綱の弟で女岩山頂にあった鍋山城の城主であった。岩から岩へと大しめ縄を張り渡すこうした大規模な七夕行事は村単独でできるものでない。殿様(鍋山氏か金森氏)が言い出して始めたものではないか」との見解を述べている。

 七夕にいろんな作り物を綱や竿に吊して軒下などに飾る七夕飾りは日本の各地でおこなわれてきた。長野県松本市・大町市・塩尻市では今も軒に七夕人形を飾っている。江戸時代の記録に残るものとしては新潟県湯沢市、塩沢町、栃尾町などの例がある。また道を横切って綱を張り、そこにいろんな吊し物を飾る七夕飾りは、現在も新潟県糸魚川市根知谷で続いている。

 江戸期の記録には長野県松本市の例がある。さらに川を横切って綱を張りいろんな藁の作り物を吊す行事は、熊本県芦北町下白木で同地を流れる天月川に張り渡す「七夕の綱張り」として残っている。高山市松之木町の七夕岩行事は熊本県芦北町の行事と共通する性格を持っている。しかし松之木町の七夕は両岸の岩から岩へと綱をわたすというショウ的要素も持ち合わせており、七夕習俗のうちでも特異なものといえよう。

※本稿の作成にあたり、松之木町の門前洋一町内会長、洞善治、平野勇の各氏に大変お世話になりました。また松之木七夕の資料集を提供いただいた宮崎惇氏には本調査のきっかけをいただきました。なお写真は笹部いく子氏撮影のものを使わせていただきました。ともに厚く御礼を申し上げます。


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