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 北海道の七夕

    
〜道東の町・遠軽からの報告〜


              
尾形 彰


■追憶の七夕行事
 ササの代わりに柳に飾る
 ローソクもらい
 七夕飾りを川面に投げる
■鉄道が運んだ七夕行事
 七夕は農村地帯の行事でない
 鉄道の発達による文物の流入
 うってつけだった七夕行事
■戦後の七夕行事の衰退
■北海道の「七夕」の現況 〜遠軽を中心に〜



■追憶の七夕行事

  
  北海道東部、遠軽町周辺の地図(Yahoo!地図情報より)

ローソク出せ 出せよ
   出さぬと かっちゃくぞ
   おまけにくいつくぞ

 うとうと、まどろんでいると、脳裏に70年前の風景が廻り灯篭のように浮かび、かつ消える。8月7日、七夕の宵の景である。浴衣を着た子供たちが打ち連れて、小さな提灯に火をともし、唄いながら近所を何軒か廻るのである。家々では用意しておいた小ローソクを一本ずつ呉れる。

 私が育った北海道の遠軽(えんがる)は、明治31年(1898)に開拓の鍬が入ったオホーツク海から20キロほど内陸に入った小さな町である。私は昭和6年(1931)、3歳の時から戦後、成人するまで遠軽の町内で過ごした。北海道では、ほとんど8月7日に、いわゆる月遅れで七夕をするが、夏休みには当然、夏の行事として全戸で行われていたように思う。

ササの代わりに柳に飾りをつける
 北海道では道南の一部を除くと、本州のように竹に飾りをつけることはない。第一、竹は奥山に根曲り竹(チシマザサ)というのがあるが、根元が曲がっているので飾るのに都合が悪いし、どこにでも生えているわけでもない。手っ取り早いところ、川っぷちに叢生していて、竹に似ている葉を持ったヤナギの仲間が使われた。
 「北海道植物図鑑」によると、北海道には十数種のヤナギが生育しているが、七夕にはカワヤナギかネコヤナギそれにエゾヤナギなどが用いられたように思う。

  ささのは さらさら のきばにゆれる
  お星様 きらきら 金銀すなご
という唱歌を聞いて、内地ではササを飾るのか、ササといえばクマイザサしか知らぬ私は、奇異な感じを抱いていた。

 さて、柳の木は七夕前日の6日の午後に用意した。柳は街のほぼ中央を流れる湧別川の両岸に豊富に生えていた。私の幼少の頃は、父親が伐って来てくれたが、私が中学生になってからは、私の仕事になった。
 柳は根元で太さ3〜4センチ、丈は1.5〜2メートルくらい。私は腰鋸(こしのこ)という小型の鋸を用いたが、父親は鉈でスパッと一気に切っていた。
 ゆさゆさと肩にかついで来るのが、とても晴れがましい思いをしたものである。家の前庭に垂木(たるき)の長さ90センチほどのものを、先を鉈で削って、掛矢(かけや)という大きな木槌で打ち込んで、柳の枝を添わせ、縄のきれっぱしで上下二箇所を縛れば大人の仕事は終わりである。

自宅に生えているコリヤナギの枝を用いて七夕飾り(7本)を再現してみた。(平成18年8月)
 あとは子供のお楽しみ。7日の朝は、朝食もそこそこに飯台(一般にいうところのチャブダイ)をそのまま机代わりに、七夕飾り製作を始める。
 七夕飾りの材料は、文房具店で扱っていた。半紙半分くらいの白地に赤や黄や青など染料でさっと掃いたように彩色された紙であった。それを縦長に切って短冊とし、各自の願い事を墨で書いた。

 願い事は特に決まりはなかったが、同じ町内で育った小生の家内は、彼女の母親から先ず初めに、
  七夕や 机の上に瓜と茄子
  七夕や 竹に五色の花が咲く
  荒海や 佐渡に横たふ天の河
の3句をしたため、その後、自分の願い事を書くようにと言われていたそうで、私と一緒になって定住の家を持ち、七夕飾りをするようになって20年ほど、この3枚は毎度ぶら下げている。因みに彼女の母親は淡路島出身で、20歳まで南淡町で暮らしていた由。

 さて書きあがった短冊を、こよりで柳の小枝に結びつけるのだが、こよりを作るのは当時は日常のことで、書き物を綴じたり、紙袋(かんぶくろ)の口をしょっとしばったりと、必需品であったから和紙の端っこなどで折々作りためておいた。私も中学生になった頃、父親に教えてもらって今に忘れずこより作りはできる。
 短冊の他には、広告や包装紙で投網を切ったり、五色のテープ片で鎖にして飾ったが、デングリやいろいろの作り物が店頭に並ぶのは戦後もしばらくたってからだ。

ローソクもらい
 いよいよ7日も宵が迫ると、子供たちは待ち兼ねたように提灯に火をともしてローソクもらいに出かける。その時の唄が一般に「ローソク貰い唄」といわれているものだ。
 一番年かさの子が、
  ローソク出せ
と、始めると、皆一斉に、
  ‥出せよ
  出さぬと かっちゃくぞ
と続く。「かっちゃく」とは、標準語で「ひっかく」に当たる。この位まで唄っているうちに、もう隣の家の門口だ。すこし離れた家でも、
  おまけにくいつくぞ
  くいついたら はなさんぞ
位まで唄えば、いやでも着いてしまう。門口では、また最初から、
  ローソク出せ 出せよ
と唄い出す。

 どこの家でも、家人が小ローソクを一本ずつ渡してくれる。これがまた、何ともいえず嬉しいものだ。このローソクの丈は5センチのもの。こうして隣組の家々で一巡すれば、片手にいっぱいの頂き物である。わたしは、
  くいついたら はなさんぞ
までしか知らぬが、昭和7年生まれの私の家内は、この後にも続きがあったと力説する。
  はなさんかったら いーたいぞ
  いーたかったら 
  ローソク出せ 出せよ
と、なかなかしぶとく続くのである。

 ところで貰ったローソクだが、当時はいろんな使い道があった。我が家では、(1)入浴の折に風呂釜のヘリに立てた。遠軽では、風呂のある家はあまり多くなかった。我が家は外風呂であったが、戸外に電灯を引いていないのでローソクを風呂釜のヘリに立てれば、ちょうど1本で一風呂浴びるのに十分である。風呂は内地から移入された五右衛門風呂ですべて鉄製であった。(2)神棚や仏壇用にも使った。(3)はじめに入っていた家では、便所に電灯がなかったので、板に釘を打って、それにローソクを立てて用足しに行った。勿論、懐中電灯もあったが、主に夜間の自転車用であった。ともかくローソクは貴重品であったから、大事な貰い物だったわけである。(ちなみに最近の「ローソク貰い」では、ローソクは姿を消して「お菓子」である由。) 

 さて「ローソク貰い唄」であるが、当地方では冒頭に掲げた唄のみが唄われているという事実である。ところが小田嶋政子「北海道の年中行事」(北海道新聞社)によれば道南の函館では、
  竹に短冊七夕まつり、オーイヤ、イヤヨ
  ローソク1本ちょうだいな
となる。
「ローソク一本 ちょうだいな」が、道北では、「ローソク出せ 出せよ」と変貌している。
ところが、函館の西に位置する松前では、
  今年豊年 七夕まつり オーイヤイヤヨ
  ローソク出せ 出せよ 出さねバ
  かっちゃくぞ おまけに くっつくぞ
と歌われており、石狩湾に面する港町・小樽でも、
  今年豊年 七夕まつり ローソク出せ 出せよ
  出さねば かっちゃくぞ おまけに くっつくぞ
  商売繁昌 出せ 出せ 出せよ
だそうであるから、「ローソク出せ 出せよ」は、枕の「今年豊年 七夕まつり」の有無はあるものの、北海道の広い地域にわたって共通した歌詞のようだ。

 さて、楽しい七夕の宵も、時過ぎれば幕切れとなる。8月の北海道も遠軽付近は午後6時半になればたそがれ時、ローソク貰いも15分もあれば、あたり近所廻り尽くす。柳のもとで線香花火などに打ち興じ「もう家に入れよう」と、家人に呼ばれれば、ちょっと名残惜しいが、家に入ってしまう。昔の子は早寝早起きだった。睡眠時間も大分長かった。寝る子は育ち、粗食ながらも丸々と太っていた。

ローソクもらいのアキカン提灯(追記)
アキカン提灯(胴に釘で穴をあけて船の模様を入れてある)
缶の中のローソクに火を灯す。
模様が浮かび上がる。照らされた先はけっこう明るい。
 今年(2007年)5月、知人の佐藤弘憲氏がローソクもらいに使ったアキカン提灯を作ってくれたので、これを紹介しておこう。彼は大正13年7月、遠軽町生田原生まれの83歳。小生より五歳年長である。昭和10年頃、彼は小学校5,6年生だった。七夕の日、幼児や小学校低学年の生徒は、市販の七夕提灯に灯をつけてローソクもらいに参加したが、彼ら高学年や高等科の男子らは、缶詰のアキカンを用いて自作の提灯を作り、それを持って参加したという。

 そういえば小生の亡き兄(大正12年生れ)らも作っていたのを覚えているが、小生が高学年になった昭和14〜15年には日支事変(日中戦争)も激しさを増し(16年には太平洋戦争に突入)、貧困層の我ら家庭には缶詰など手に入らぬものであったから、小生に缶詰の提灯を作った記憶はない。

 さて、佐藤氏が作ってくれたアキカン提灯とは、どんなものか。それはアキカンの胴や底に各自好きな模様を描いてから、三寸釘や五寸釘で模様の線に沿って3〜4ミリ間隔で穴をあけ、上部に太い針金で提げ手をつけ、下部に釘を打ちローソク立てとしたものである。胴の模様は、船や魚、花などを、丸い底には自分の頭文字一字をカタカナで入れたという(出来上がった提灯は○のなかにオが入っている)。

 アキカンに釘で穴をあけるためには、缶にマルタンボ(丸太棒)をさし入れ、丸太に跨って動かないように固定してから釘を打ったという。また取っ手の針金には熱が伝わらないよう籐などを切って通した。
 暗いところでローソクに火をつけてみると、模様が浮き出てロマンチックだ。また提灯に照らされた前方は結構明るい。七夕の晩に、ちょっと得意気な男子上級生がローソクもらいの先頭に立って歩いているさまを想像して楽しくなった。

七夕飾りを川面に投げる
 8日の朝は結構忙しい。朝食もそこそこに各戸の年長の子は、七夕飾りをかついで年下の子を従えて、三々五々湧別川の方へ歩いていく。川べりから、或いは橋の上から、柳を川面に投げると、五彩を波間に漂わせ浮きつ沈みつ川下に流れてゆく。子供心にも敬虔という語が当てはまるような神妙な気持ちになる。この川を流れて行き、海に出て、それから先はどうなるんだろうと、考え込んでいた少年の頃の自分がいとおしいものに思えてくる。

 
■ 鉄道が運んだ七夕行事

七夕は農村地帯の行事でない
 私が所属する老人クラブで、60歳代から80代の会員30名ほどについて、幼少時代に居住していた町村・地区で七夕行事が行われていたか調査を試みた。
 会員の幼少時代の居住地は、網走管内のほぼ全域にわたっているが、幼時(大正末期から昭和10年代)すでに七夕が行われていたと回答があったのは、鉄道沿線の駅周辺市街地形成地区であり、市街地で七夕を行っていない箇所は1ヶ所もなかった。
 七夕を行っていないのは、
・ 市街地より遠距離で、山村である。
・ 純農村地帯で、家屋が散在している。
・ 小学校など文化的拠点がない。
・ 経済的ゆとりがない。
などが挙げられる。

 しかし、純農村でも市街地に近く、小学生を市街の学校に通学させている地区では、七夕が行われていた事実があり、七夕の行事が市街地区と密接なつながりを持っていることが判明した。北海道では七夕は決して農村地帯の行事でないということである。このことは七夕行事の北海道への流入を考えるとき、大きな意味をもつ。
 
鉄道の発達による文物の流入
 
北海道への文物の流入は、大きく分けて2つある。ひとつは江戸時代から明治時代にかけて本州から海路を沿岸沿いに、東廻りは函館・室蘭・釧路・根室へと行くコース。北廻りは小樽・稚内・紋別と沿岸伝いに港町を中心に伝播するコースで、このコースを通じて文化は伝わり、さらに港町に注ぐ河川の流域を内陸部へと遡っていった。
 江戸時代末に七夕行事は本州から海路で松前・函館まで伝わっていたが、明治以降、ここから先の海路による伝播については、港町を中心にある程度、伝播して行ったと考えられる。

 もうひとつは、明治以降、鉄道の発達によってもたらされたものである。鉄道については余り詳しく判らぬので、当地方に限らせてもらう。
 中央から帯広へ。内陸を北へめざして野付牛(今の北見)へ、また釧路から斜里へと、大正時代以降、入植者は内地から一家で鉄道の貨車に家具を積んで、或いは単身で北海道での一発成功を夢見て陸続として入り込んできたのであった。

明治44年、池田〜野付牛(北見)間が全通した当時の鉄道網(HP「北海道鉄道ワールド」を参照して作図)
 昭和7年、新旭川〜遠軽間が全通した当時の鉄道網(HP「北海道鉄道ワールド」を参照して作図)

 当地方の状況をいま少し詳述すると、道中央から十勝管内池田から北見(当時、野付牛)の開通は明治44年(1911)である。その後、次々と線をのばし最終的に旭川と遠軽が石北トンネルの開通によって繋がったのが昭和7年(1932)である。大正末から昭和の初めにかけては入植のラッシュ時だったと思う。たとえば北見地方のハッカ景気など。小生の幼時に覚えた唄の少しが脳裏にこびりついている。
  十勝平野を越えて来て
  釧路・・(北海道の地名が続く)・・
  ああ、黄金花咲くユートピア

 こういう唄にあおられて陸続として内地からの入植者が押し寄せた。かくいう私の父親も大正10年頃、東京は上野で周旋屋の口車に乗せられ単身渡道した者。各地の市街地は、大通りは大体商店が軒をつらね、裏通りは資財ある者たちは一寸しゃれた戸建を、そうでない者たちは家主による急ごしらえの柾屋根葺きのバラック長屋で生活を営んでいた。しかし子沢山で貧乏ながらも結構活気があったように思う。内地各地からの入り込み人で、わやわやの時世であった。

怒濤の如く拡がった七夕行事
 こういう、わやわやの時世にちょうど七夕祭りはうってつけの行事ではなかったか。半年に余る長い冬籠りから抜け出して春が来たと思ったら、瞬く間にかっと暑い夏となる。子供たちは夏休み。各人、出身地ごとの催し事をやろうと思っても出来ないが、七夕だと手軽で安上がりで、子供中心だが大人だって結構楽しい。ローソクを貰いに行った子供たちに一本一本配っている、おっかさんの顔付きを見ていたらよく判る。(そして七夕に続いて大人中心の盆踊りの行事にも繋がっていると考えている)

 私は鉄道の敷設によって形成された市街地で、七夕祭りは怒涛の如くというか、津波が押し寄せる如くというか、短い年の中に拡がっていったとみている。そうでなければ、この広大な北海道で各町各村まったく同じような飾りつけ、同じ「ローソク出せ、出せよ」という唄を唄いながら、ローソクを貰い歩くという行事が定着していったわけがない。
 私は、道北・道東の七夕祭りは明治末から大正・昭和の初めにかけ鉄道の敷設によって形成され、市街地に於いて爆発的に拡がったとみている。

 著名な札幌雪まつり。根元を本州東北に持ち、全道各地に拡がっている、あの冬の行事・雪まつり(処によって、冬まつり、氷まつり、氷ばくまつりと多彩)、さらに近年賑々しくもてはやされているヨサコイソーラン(これも内地のヨサコイ節と北海道の民謡ソーラン節とが結びついた夏の狂乱舞のフェスティバル。全道各地に団体ができていて、祭の時のみならず事ある毎にソレソレソレソレと踊り狂っている)。こんなものと軌を一にしていると私は考えている。
 

■戦後の七夕の衰退
 私は戦後、昭和22年の春から家を離れた。辺地の学校に勤める田舎教師だった。斜里の畑作地。網走の酪農を主とした僻地。ともにその集落では七夕の習慣はなかった。
 昭和46年の春、二十数年振りに故郷遠軽に帰ってきたが、市街の変貌はすさまじいものであった。市街地からすっかり七夕が影をひそめていたことである。
 遠軽の市街地で店舗を構える古川商店の女将・カツエ氏の証言。「終戦の年、昭和20年の時は小学校1年生。戦後、小学校卒業時、昭和25年の夏までは七夕飾りをした。小学校をおえると七夕をやめたが、他家ではずっと続けていた。」ここに七夕と子どもとの関係がわかる気がしないだろうか。
 道路は大通りでも未舗装であった。大通りは彼女が昭和32年、高校に通っていた時は砂利道だったが、卒業後、町を出て昭和36年に帰ったときには既に舗装されていた。この頃には、七夕祭りはだんだん姿を消して来たようである。

 以下、少しく七夕衰退の要因を考えてみることとする。
先に述べたように道路の舗装によって、従来の如く簡単に柳を立てることが出来なくなった事。これは隣町・上湧別町中湧別の市街地の大通りで文具商を営み、七夕の飾り物をも商っていた山本光文堂の女店主・山本佐喜子さんもはっきりと証言している。

 次に河川敷も整備されて、河岸は地ならしされ、コンクリートで固められ、自動車練習場とか野球場・サッカー場と次々新設されて、カワヤナギの自生地が市街地から消えていった事。時を同じくして、河川の汚染問題も浮上して河川にいかなる物も投棄できなくなった事。

 遠軽でも、戦前から8月20日、二十日盆の夜に灯篭を流す習俗があった。私の妻の証言。彼女の母は昭和44年に死亡、その年の初盆には4尺5寸の灯篭を流したという。随分数多くの灯篭が川面を埋めたとのことである。そして平成11年までは、細々ながらも灯篭流しが続いていたことが、遠軽町大通り品田商店の女主人。品田トヨ子氏の証言でわかった。

 彼女は講を主宰して灯篭流しを行なっていたが、(1)講の人々の老齢化に伴って会員の数が減少し、(2)湧別川の水位も年々下がり、灯篭がうまく流れない(これは建設用の砂利採取が主要因であり、後に禁止されている)。(3)川に物を流してはいけない、(4)たまたま川のそばにあって供養してくれた當福寺も無住となるなどで廃止を決めたという。
七夕や灯篭流しなど、川に流す行事が廃絶していった背景には、こうした諸種の事情のあることがわかる。


■北海道の「七夕」の現況 〜遠軽を中心に〜
 北海道の七夕は、8月7日に行われる処が多い。しかし函館や根室の七夕は7月7日である。この地域が7月のお盆、つまり旧盆が根強く残る地域であることが関係しているといわれる。
調査した佐呂間町、遠軽町、上湧別町周辺図(Yahoo!地図情報より)
 ところがオホーツク海に面した佐呂間町でも、平成18年7月8日付け北海道新聞に「佐呂間(さろま)で七夕祝う」と、7月7日の七夕のことを報じていた。さっそく佐呂間町役場に照会してみた。
 「‥あくまでも推測ですが‥佐呂間町内でも、一部の地区(浜佐呂間地区)では8月7日に七夕を行なっており、そのような地域については、7月7日が農漁業の繁忙期と重なるなどの理由から、8月7日に行なうようになったと思われますが、この辺りは梅雨もなく、7月の夜空に星が見える日も多いことから、大部分の地域では、改暦後も変わらず7月7日に七夕を行なっているものと考えられます」間もなく寄せられた回答の主要部分である。それにしても、なぜ佐呂間だけがという思いが残る。
 他の市町村は大体、いわゆる月遅れの8月7日であって、旧暦そのままの7月7日に行なっている処はないようである。

 小生は伝統行事の廃れるのを惜しみ、何とかして児童に七夕を伝えようと思い、昭和55年から63年に退職するまで、在職していた町内の丸瀬布(まるせっぷ)小学校で、低学年を担任した何年間、次のような実践を試みた。

 小宅の敷地に、生垣代わりにコリヤナギを植えていたので、7月7日(8月7日は、すでに夏休みに入っていて実施できない)学級の児童分のコリヤナギの枝を60センチほどに切って教室に持ち込み、図工や自由の時間を利用して、各自の希望や願い事を書かせ、紙の鎖や折り紙の提灯などを作らせ、柳の枝に飾りつけ、下校時に持たせて家庭で飾るように指導していた。(今回、当時を思い返して、コリヤナギの七夕飾りを作ってみた。冒頭の写真がそれである。)
 現在、教師の自主的な教育は極端に制約を受けているようで、このような事はできまいと思う。

上湧別町のケアハウス内での七夕飾り
 現在、どのようなところで七夕飾りがなされているか。平成16〜18年にわたって少し調べてみた。遠軽では、保育園・幼稚園で、園の行事として実施している。
 その他の公の施設も廻ってみた。昨年開所したあるグループホームの玄関先に七夕飾りをしていたが、今年は見受けられない。上湧別町のケアハウスでも毎年ホールに飾っているとのこと、さっそく出かけてみた。職員の奉仕による大きな柳に、入所している人々が力を合わせて飾り付けをしているということである。
 それから本町生田原地区の「木のおもちゃワールド館」でも、毎年七夕飾りをしていると聞いていたので、平成18年8月7日、電話でたずねたところ「今年はしません」という話であった。

 上湧別町中湧別の市街地区で「七夕まつり」をしていて(今年で第19回)、10年程前に一度見に行ったことがある。旧中湧別駅の停車場通りに、仙台から取り寄せたという孟宗竹に飾りをつけた見事なものであった。今年6月のはじめ、中湧別に行った折、市街に一件ある岩井書店を訪れてみた。この店は7月中には七夕飾りを販売する。単品で100円くらいから。セットで5,000円位まで。停車場通り恒例の七夕祭りは商工会主催。飾りは岩井書店から一括して納品。今年は8月4,5日頃から開催の予定などなど。

 8月に入って新聞の広告をみて、ちと考えさせられた。七夕まつりは8月5日・6日とある。なんで7日が含まれないのか。土日にかけてのお客の入り込みが目当てなのか。
 6日の夜、10年ぶりに出かけてみて、先ず驚いたのは、あの竹飾りが1本もないことだ。柳の木すらない。名称は「七夕まつり」となっていたが、なんのことはない。ただ騒々しい平凡な「夏まつり」といったところ。であれば8月7日でなくてもよいわけ。聞くところによると、経費節減とのこと。

 以上、二、三の例で判るように、予算の都合や職員の意識の有り方で、七夕になったり、取りやめたりというわけのようである。
 僕らの七夕は、誰に言われるでもなく、金のあるなしでなく、子ども達が自然発生的に7月7日に行なったもの。そして、それは柳飾りと、浴衣を着て提灯をさげた子ども達のローソク貰いと一体のものであった。
 
 函館市、札幌市、旭川市などの都市の一部地域で、観光協会とか商店街の振興組合とかで主導して、七夕祭りに合わせ、子どもを対象としてローソク貰いを実施している処があるが、かつてのようにローソクを与えるのではなくて、袋菓子などに変わっているということである。

 平成18年8月16日北海道新聞の投書。旭川に来て7ヶ月、40歳女性。「夕方小5の息子に近所の友人から電話…『今晩、ローソク出せ、やるからコンビニ前に集まれ』…息子は友達との打ち合わせ通り、暗くなってきたころリュックを背負って飛び出して行きました。浴衣もちょうちんもなしです。近所の家を数人でまわり、お菓子や花火をいただいて来ました。何もないから『アイスでも買いなさいね』とおこずかいをくれた家もありました…」
 北海道の七夕の今の様子の一断面がうかがえる面白い記事だが、七夕にかこつけた集団による単なる「物貰い」のようで、余り芳しいことではないと思う。

 遠軽町西町の七夕飾り(平成18年8月7日)
 遠軽では、西町1丁目の野上通り沿いで、七夕飾りを実施している。まとめ役をしている五十嵐建設での聞き書き(平成17年秋)。「この地区は20軒程のうち、10軒くらいで実施している。そもそもの初めは平成8年頃、五十嵐さんの娘さんが『遠軽って淋しい処だね、何かしようよ』と。それで冬にクリスマスツリーを戸外に飾った。それがだんだん拡がって、平成15年頃には西町以外の南町にも拡がって随分賑やかになっている。
それはさておいて、平成10年に『夏にもしようよ』ということになり、自宅の前に柳の木を立て、七夕飾りとした。たまたま近所の母子が願い事を書いた短冊を持って来て『これを付けさせてください』といって柳の枝につり下げた。

 その翌年から、五十嵐建設が主唱して近所の希望者の面倒をみてやることになる。車で柳の木を運んで来てあげる。もう街の中の川べりでは、柳の伐採はできぬので、1キロ程上流の清川地区の川原から伐り出す。柳を立てる台はコンクリート製の物干竿の台を用意した。七夕飾りの材料は町内の文房具店「旭屋」でセット物(2000円〜5000円)を各自求め、投網を切ったり色紙短冊を下げる。提灯や「でんぐり」も下げる。不足分は包装紙を使うこともある。平成16年冬、旭屋が閉店したので、17年の夏は「どうしよう」と困ったが、隣町の上湧別町中湧別の岩井書店で扱っているというので、わざわざ隣町まで行って求めてきて飾った。ただ七夕飾りをするだけで、ローソク貰いはしていない。

 今年(平成18年)8月7日、西町2丁目を歩いてみた。七夕飾りは道路の左右、計11本であった。
 また、同じ遠軽町西町地区で、小学校教諭が「西町子ども会」の会長として十年余、その活動の一部として、夏休み中「ローソク貰い」の行事を実施していたが、退職後は中止になったという事を聞いた。

 現在の北海道の七夕は、(1)七夕飾り、(2)ローソク貰い、(3)両者の複合、の3つの型に分かれるが、いずれも戦後間もなく中断していたものが、子ども会、自治会、商工会、観光協会等の団体主導で、児童の生活指導の一環や、地域の活性化などの掛け声で生まれ出てきたといえる。古いようで案外新しい行事なのだ。こうした行事は、昔言った「お祭り馬鹿」的な人物が中心になって活動していることも判った。従ってその中心人物がいなくなり、後継者がなければ自然消滅するといった面もある。

 平成18年7月上旬、18年ぶりに遠軽町丸瀬布の「いずみや書店」に立ち寄って、昨年の残りの七夕提灯を求めたついでに、店主夫妻に、丸瀬布の七夕の様子をたずねてみた。「昭和の末頃、丸瀬布の天神地区では、住宅街の一本道路の両側の家ごとに七夕飾りがなされていて、とても懐かしい思いがしたものだが…。地区毎のことははっきりしないけれど、多分行なっていないようだ。ただお母さんが子どものために買っていく人や、それから何と言おうか、自分の趣味といったらいいか、そういう感じで飾っている人もいるし…」などと口々に語ってくれた。

 8月の七夕が終わったあと、また丸瀬布の「いずみや書店」へ電話を入れてみる。今年の七夕の様子や如何に。おかみさん曰く「今年は、孫のためにと求めて行った婦人が2人。自分のためにと買って行った未亡人が1人と、たった3人だけでした。去年までは、子どものためにと来店した若いお母さんが大分いたけど、今年はひとりもいないの。さみしいわ。」


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