ニンニン物語

ニンニンとは今現在も共に暮らしている。87年、ロサンゼルスの我が家に住みついた頃、まだ生後6ヶ月くらいの仔猫だったニンニンは、今年でもう16歳になった。猫は(犬も)生後1年で人間で言うところの15歳くらいになり(1歳で生殖が十分に可能になるという理屈からだろう)、その後1年で5歳、歳をとるというのを聞いたことがあるが、その計算でいくと、ニンニンは今年で90歳になるおじいさんである。いまだに元気だが、最近下の犬歯(猫歯?)が抜けたり、白内障にかかっていることがわかったり、「おじいさん度」が増してきた。食べ物に対する執着が年をとるにつれ増してきて、始終食べ物をねだるようになった。多少太っているのでこちらとしては心を鬼にしてダイエットさせているが、効果はあまりない。「ごはん」と「ぎゅうにゅう」という言葉を話す。冬になれば、「こたつ」としゃべることもある。

「ニンニン」という名前は最初にこの猫を呼びかけるとき、とっさに口に付いてきた言葉から来た。「ニャンニャン」でも「ミンミン」でも良かったのだが、ニンニンは「ニンニン」という感じだった。いろいろ猫を飼ってきて、いろいろな名前を付けてきたが、その中でも最も安易で適当な名前の一つであった。


1987年、アートセンターという美術学校に入学したての頃、マイクというイタリア系アメリカ人の友達ができた。「家に遊びにおいでよ」ということになり、マイクが初めてロサンゼルス郊外のモントレーパークという町にある僕の住居を訪れたときのことである。ドアを開け、部屋に入ってきた彼の手には白黒模様の仔猫が抱かれていた。「ヘイ、セイジ、こいつが君の家の前でニャオニャオ鳴いていたから持ってきたよ。可愛いじゃないか」と言いながら、その仔猫を僕の手に渡すのだった。それが僕とニンニンの最初の出会いである。彼は僕が猫好きであることを知っていた。なるほど、白黒「はちわれ」の賢そうな顔立ちをしていて、薄汚れた感じもなく、ミルクなどを与えても野良猫にありがちな飢えたような感じもしなかった。首輪などはつけていなかったが、全体的な印象からその辺で飼われている猫のようだった。

「ちょっとお借りする」気持ちで、マイクと談笑しながら、僕はニンニンを撫でたりさすったりしていた。その間、ニンニンは僕の膝の上にちょこんと座り、おとなしくしていた。先住猫であるマックやヨーダが現れても、特に怖がる様子も見せず平然としていた。マイクが帰り、日も暮れかかった頃、ニンニンとも「バイバイだね」ということになり、彼が鳴いていたという我が家のフロントヤードに彼を戻しに行った。僕は既にマックとヨーダという二匹の猫を飼っており、それ以上飼う気もなく、何よりニンニンの飼い主が心配するだろうと思ったのだ。僕としては、束の間仔猫の感触を楽しめただけで十分であった。

夜になり、僕がテレビなど見ながらくつろいでいるようなときに、ドアの前あたりでニャオニャオと猫の声がする。ドアを開けると、先ほどのニンニンがつぶらな瞳をこちらに向け佇んでいるのだった。「飼いたい、飼ってしまいたい」という誘惑に負けそうになりながらも前述の理由で「そろそろ、帰んな」と冷たく言い放つよりほかない。こちらはすでに二匹の成猫を飼っているのだ。貧しい留学生夫婦にとってはそれだけでけっこうな負担であった。しばらくドアの向こうで鳴く声がしたが、僕達夫婦は心を鬼にしてその声をあえて無視したのだった。

翌朝、気になっていたので真っ先にドアを開けると、いた。ニンニンは我が家のドアの前で丸くなって寝ていたのだ。十月のことである。ロサンゼルスというところは日中は暑くても夜は急激に冷える。そういう状況で、彼を追い返すことができるほど僕の意志は固くなく、猫好きの血が僕の判断力を狂わせた。ニンニンを家の中に入れ、ミルクと餌を与え、先住のマックとヨーダに改めて彼を紹介するのだった。

実は、その日も妻と相談して日が暮れる前にニンニンを外に出したのだった。どこかの飼い猫に違いないと思っていたので、飼い主のことを考えざるを得なかったし、いずれ日本に帰ることになったら大変だろうということも考え始めていた。しかし、結果は同じだった。今思うと、何らかの理由で「この家の猫になろう」というニンニン自身の強固な意志があったとしか思えない。結局、正式に家の中に招き入れることになって、妻がニンニンを洗ってやったところ、大量の「のみ」がニンニンについていたことがわかった。どこかで飼われていたことは間違いないが、さしてケアされていなかったと思われる。このことがニンニンを飼うことに躊躇していた気持ちを吹っ切らせることとなった。いずれにせよ、そのうち元の飼い主のところへ戻ってしまうかもしれないという気持ちもあった。

いったん、我が家の猫として受け入れられたニンニンは、それからずいぶん長い間、一歩も外に出て行こうとしなかった。僕がソファの上でくつろいでいると、最初にそうしたように、決まって僕の膝の上に乗り、僕が立ち上がらない限り、石のように固まって居座り続けた。それは、僕の膝の上でくつろいでいると言うよりも、もう二度と外には出さないで欲しいという意思の表れのようであった。今は、僕よりはるかに妻の方になついているニンニンを思うと、あの時、妻より僕の方に強く執着したのは、自分なりに僕の方が自分の運命を託す決定権を持っている人物だと判断したのかもしれない。家族で飼われる犬は、自分を含めて家族の中の序列を判断する、というが、そういう点でニンニンは犬っぽいところがある。顔つきもやや犬っぽいが。

ともあれ、こうしてニンニンは我が家の三匹目の猫となった。先住猫であったマックとヨーダは、新参者ニンニンに対して特に敵対心を表すことはなかった。特に歓迎もしなかったけれど、ごく自然に三匹で並んで食事をとった。「何事もかまわない」猫、ヨーダはニンニンと死ぬまで適当な距離をとり、けんかもしない代わりにべったりとくっつくようなこともしなかった。ニンニンも「何を考えているかよくわからない」ヨーダに親密ではなかったが、先住者で年上の猫としてある種の敬意を持ちながら関わっていたようだ。しかし、遊び盛りの仔猫であったニンニンにとってマックは格好の遊び相手だった。そして、それをマックは許した。当時、マックの3分の1程度の大きさの仔猫ニンニンは、ことあるごとに家の中でマックを追い回し、部屋の隅に追いつめられたマックはニンニンに対して少し威嚇するのだが、ニンニンは全くそれにこたえなかった。

当時、我が家には猫たちが自由に出入りできる小さな出入り口があった。家のバックヤードにつながる浴室の窓に張られたネットを少し切り開いた場所である。ドアを開けてもいっこうに外に出ようとしなかったニンニンが、教えたわけでもなくその場所から出入りするようになったのは、彼が我が家にやってきて二ヶ月くらいたった後だろうか。我が家を終生の住処にすると強い決意で決めてから、飼い主がそれを完全に許したと思われる時期になって、ようやくニンニンは自分の意志で外に出るようになったのである。図体は大きくても気が弱く優しい性格のマックは、やや頭の足らないところがあった。ヨーダは何を考えているのかわからない変な猫であった。その中で唯一、賢明で、「はしっこい」感じのあるニンニンは僕達夫婦の愛すべき三匹目の猫となったのである。

ニンニンは外に出て木登りをしたり、芝生の上で駆け回ったりもしたが、どちらかというと家の中にいることの方が多かった。早めに去勢手術をすませていたので、よその猫とけんかをして傷ついたりすることもなく、およそ健康で子供らしい性格を成長してからもずっと残した。嬉しかったり、機嫌が悪かったり、求めていたり、満足したり、と喜怒哀楽が猫にしては、はっきりしており「わかりやすい猫」であると言える。このあたりもやや犬っぽいところがあるように思える。鼻の下、人相学で言うと「人中」といわれるあたりが広く、長寿の相ということらしいが、猫に関してもニンニンに関する限り当たっている。古典漫画の「のらくろ」に似ている。そう言えば、「のらくろ」は犬だった。

食いしん坊というわけでもないが、食べ物を要求するときは非常にストレートに感情を表す。お腹がすくと目をまん丸にして「ニャオ、ニャオ」と情熱的に訴えた。妻が何かにつけてよく話しかけている内に、ニンニンもよくしゃべる猫になった。食べ物をねだるときの「ニャオ、ニャオ」がそのうち妻の口調をまねて「ゴハン、ゴハン」と言うようになった。正確に表現すると「グォワン、グォワン」という感じだが、聞きようによっては、はっきり「ゴハン」と聞こえる。そんな風にしゃべるようになった頃は、飼い主の僕でさえ、少し気味が悪かった。これと同様に、牛乳が欲しいときは「ギューニュー」と鳴く。「ギ」のような濁音は猫にとっては発音が難しいようで、正確に記するなら「ミューニュー」という感じだ。しかし、しっかり「ゴハン」のときは頭にアクセントを置き、短く三音節で、「ギューニュー」のときは平たく長音でもって発音する。寒くなるとこたつの中に入るのが大好きで(猫はみんなそうだが)、こたつに電気が入っていないと「コタツ、コタツ」と鳴き、スイッチを入れるようにせがむ。しつこいが、正確に記すと「ニャニャウ、ニャニャウ」という感じだが、これは三音節をはっきり区切るように話す。今のところ人間の言葉のボキャブラリーはこの三つのみだが、これからも言葉を仕込んでいきたいと思っている。ちなみに、今練習しているのは「おはよう」だ。

ロサンゼルスで生まれ、日本にやってきて、現在に至るまで何回か引っ越しをしてきたが、その都度すんなりと環境に適応してくれた。食べ物の好き嫌いもなく、ほとんど病気らしい病気もせず、16年間、生きてきた。最初に書いたが、最近歯が抜けたり、白内障にかかっていたりと老いが少しずつ見え始めてきた。猫遊びグッズなどを使って遊んでも、以前のように粘りがなくなった。妻が少しでも異変があると、かかりつけの病院に連れて行っているので、とりあえず今のところは健康上のことで心配なところはあまりない。以前はそんなでもなかったが、来客を非常に嫌うようになった。人が来ると嫌がって寝室などへ籠もってしまう。これも老いの一つの現象だろうか。内弁慶タイプである。動物のくせに、僕より規則正しい生活リズムで暮らしている。午前中は僕が仕事部屋にしているフローリングの部屋のベランダ側で寝そべっている。天気のよい日はベランダに出てひなたぼっこをする。午後になると寝室のベッドの上で丸くなる。夜は、やはり規則正しい生活リズムの妻のそばで寝て、基本的に妻が起きるまで一緒に寝ている。朝、昼、晩、ときっかり三回「ゴハン、ゴハン」と鳴き、与えたものは好き嫌いなく食べる。長寿の秘訣は猫も人間もあまり変わらない。

あと何年、ニンニンと一緒にいられるだろうかと妻とよく話す。先日、テレビで25年生きている猫の存在を知った。飼い主や周囲の人たちのその猫に対する愛情がよく伝わってきてけっこう感動した。そこまで行かなくても、せめてあと5年。希望はそれ以上。大切に飼っていきたい。僕達夫婦にとってはかけがえのない猫だ。ニンニン現在、16歳、人間で言うと90歳をゆうに超える。いつまでも長生きして欲しいものだ。

2003年、夏


愛猫ニンニンの死を悼み、記す。

2004年7月30日

ニンニンが死んだ。7月21日午後1時15分、近隣の動物病院で、最後まで熱心に治療にあたってくれた獣医のT先生に看取られて息を引き取った。今年3月の終わり頃、右喉元に小さな腫瘍を発見してから4ヶ月にわたる闘病の果ての最期だった。死因は口内炎、歯周病の悪化に伴う摂食困難からの衰弱。享年17歳。人年齢に換算すれば100歳近く。やや内弁慶の坊ちゃん育ちの猫であったが、子どものいない僕達夫婦にとって、まさに我が子のようにかわいがってきたワン・アンド・オンリーの猫だった。

死の直前に病院から連絡があり、僕達夫婦は炎天下を文字通り息せき切って病院に駆けつけたが、ほんの少し間に合わなかった。T先生は僕達に、ニンニンの死を看取ることが叶わなかったことへの残念さを気遣う言葉をかけ、死の直前の痙攣発作に対して薬を投与したこと、その薬は痛みを和らげる薬であるが、少しだけ死期を早めてしまう「安楽死効果」があることなどを告げた。「できるだけ、猫自身にとって苦痛の少ないようにして欲しい」という僕達飼い主の希望を最終的に聞き入れた形だった。

僕達は、ニンニンの兄貴分にあたるマックを痛ましい死に方で失ってしまった経緯があり、ニンニンにはでき得る限り、安らかな最期を迎えられるよう望んでいた。T先生の処置のおかげで、あまり苦しむこともなく最期を迎えたであろう死相は穏やかだったが、うつろに見開いた眼を、僕は懸命に指で閉ざそうとしたのだが、なかなか閉じてくれず、それが彼の生への未練を示すものであるかのように感じた。僕達は治療室の冷たく光る診療台の上に安置された遺体を小一時間も撫でさすり、ひとしきり、おいおいと泣き、T先生が用意してくれた段ボール箱に亡骸を納め、真夏の陽射しが降り注ぐ家路を、段ボールの棺を両手に抱えながらとぼとぼと歩いた。

もとより、治癒する見込みが薄いことは伝えられていた。まだ、症状の軽かった4月の初め、数回、インターフェロン投与による治療を試みたが、さしたる効果は見られず、また、腫瘍除去や抜歯等の手術は全身麻酔の必要があり、年齢を考慮するとかえって死期を早める危険性があるとのことを告げられていた。別の病院にもかかったが、同様の所見だった。結局のところ、現在の症状を和らげるための対症療法しか残されていなかった。5月、6月と2、3日おきに抗生物質とステロイドの投薬治療を続けたが、炎症による膿が徐々に溜まり、喉元の腫瘍は大きくなっていった。次第に食べ物を嚥下することが困難になり、ミルでペースト状にした食べ物も少量でさえ、喘ぐような食べ方をした。

それでも薬が効いて元気なときは、相当量食べることができ、思いついたように「爪研ぎ」などすることもあり、僕達は何よりそうした仕草をするニンニンを見ることが嬉しかった。僕達夫婦が夕食をとるとき、食卓のそばに必ずニンニンが「列席」することが、長い間の習慣であったが、これはかなり容体が悪くなるまで続いた。マグロの刺身やアジの開き、牛肉などは口中で長く噛み砕いて柔らかくしたものを掌から与えた。キャットフードも共に食卓を囲むようにして与えた。夜半、明け方であろうともニンニンが食欲を示す鳴き声を少しでも発すれば、妻は飛び起き、ニンニンが好みそうな食材やキャットフードに水分を加え、ミルにかけ、とろとろにしたものを、炎症のある口腔内を刺激せぬよう、少し温め、与えてきた。手を変え、品を変え、妻は何とかニンニンに食べさせようと努力してきたが、日を追うごとにニンニンの食べる量は減っていった。ついこの間までは、「ゴハーン、ゴハーン」と鳴き、食べ物をねだっていたのが、見る影もなくなっていた。

喉の腫瘍は6月に入り、何度か患部の皮膚が破れ、大量の膿が流れ出ることがあった。膿が出きってしまうと何だかすっきりしたように元気を取り戻し、その様子に「快復するのではないか」という淡い期待を抱くこともあった。膿が出きってしまい、炎症も癒え、元通りに「ゴハーン」と鳴く日がまたやってくる、という期待だ。どれだけ治癒の見込みのないことを症例からの客観的な所見として伝えられていても、17年もの間、親密に関わってきた「我が子のような」生き物が、このような形で死を迎え、失ってしまうであろうということが、単純に信じがたかった。だって、たかが口内炎ではないか、人間であれば口内炎で死ぬなんて聞いたことがない、という理不尽な思いもあった。

治療の間隔が少しでもあくと、ニンニンは目に見えて衰弱するようになり、7月に入ると、ほぼ毎日、妻がニンニンを病院に連れて行くようになった。抗生物質、ステロイドの投与、腫瘍部位の手当て、輸液等が治療の中心だったが、治療当初のようにステロイド効果で元気を回復するような素振りを見せることは少なくなっていた。治癒の見込みがないのなら無益な治療を止め、「本人」にとって安楽な自然死を待つ、という方向も考えないことはなかった。かといって、物言わぬ愛すべき小さな命の明暗を決定するような決断を下すことは、僕にはできそうもなかった。少しでも長く、ニンニンと共にいたかった。どんなに弱ろうとも、生きている限り、「奇跡」も起きるかもしれない、という信心もあった。

大分以前から白内障を患っていた眼の、特に右眼が、顔の腫れにより閉じられなくなってきて、乾燥し白濁化した眼をうつろに見開いて眠っていることが多く、その姿は迫り来る死を暗示させ、見るに忍びないところがあった。そんな風に、膿を垂れ流しながら、ぐったり寝ているニンニンのそばに行き、身体を撫で、お腹の辺りに耳を近づけると、ゴロゴロと喉を鳴らしているのがわかる。一日に何度もそうやって、「ゴロゴロ」を確認することで、まだ大丈夫だと思うようにしていた。ゴロゴロ言う限り、少なくとも激しい痛みや不快感はないのだろうと思っていた。妻と二人で呼びかけながら身体を撫でてやると、いっそうゴロゴロと言った。輸液のせいで、お腹辺りは不自然にたっぷりとしていたが、撫でさする肩から背中にかけて尖った骨の感触が哀しかった。実際、6キロあった体重も最後の頃は3.2キロまで落ちていた。

7月18日の日曜日の朝、容体がかなり悪くなり、T先生から入院治療を提案された。僕達には住み慣れた住居で最期を迎えさせたい、看取ってやりたい、という希望があったが、はたしてニンニン自身がそれを望んでいるのかわからないところがあった。「畳の上で死にたい」という論理は人間のものだ。動物の死に際について、僕はできるだけ「擬人化」は避けようと思っていた。事実、入院する2、3日前くらいから、一日の大半を過ごす寝室のベッドの上からよろよろと這い出て、広くもない住処のそこここに、より落ち着く場所をさがしている様子があって、あれは死期の迫った動物が「死に場所」を探し求める行為だったと思う。もし、突然、断末魔の苦しみに襲われた場合、僕達には為す術がない。いろいろと考え、末期の苦しみをより少なくしてやれるためには、T先生のそばにいたほうがいいだろう、と思ったのだ。

それから朝、夕と「お見舞い」を続けてきた。入院した翌日の月曜日の午後には少し元気を取り戻し、僕達のこともはっきり認識できていた。火曜日は僕は仕事で一日外出していたが、夜に会うことができた。このときは犬の患者がそばにいて、ニンニンは朦朧としながらも犬の存在を感じ、落ち着かない面会となった。命日の21日水曜の朝も面会を果たしたが、いよいよ弱ってきていたので、ケージから出して触れることもせず、少し距離を置いて小さく声をかける程度にとどめた。あまり反応はなく、T先生から「コーマの状態」に入りつつあることを告げられた。もう、輸液をしても体内に吸収されず、注入器による食餌も受け付けないとのことだった。貧血が進み、唇や歯茎は真っ白になっていた。呼びかけに対して、瞳孔が開き、白濁した眼をこちらに向ける仕草をすると、T先生は「わかっていますよ」と言った。昏睡状態の入り口にあろうとも飼い主のことが識別できている、ということだ。刻々と迫ってきているものが、僕達にとってはかけがえのない愛すべき生き物との永遠の別離であることは十分にわかっていても、そのことについて僕も妻もT先生も具体的な言葉はいっさい口に出すことはなかった。

かけがえのない愛しい生き物が確実に死に向かっていく様を直視していくという状況は辛いものがあった。もはや、僕も「奇跡」が起きることを願うようなことはなくなっていたが、末期のニンニンの苦しみを救う手だてはないものかと考えていた。入院二日目の朝の面会のとき、ケージに入れられ、慣れない環境の中でニンニンが興奮し、低く唸っているのを眼にしたときに「もし、今の状態が猫にとって辛く苦しい痛みを伴うようなことであれば、楽にさせてあげるようなことはできないでしょうか」と僕は思いあまってT先生に尋ねてみたのだ。しかし、T先生は安楽死という選択肢を嫌った。「飼い主さんが望むことであれば」と前置きしながら「そういう方法だって取りますが、それは獣医にとって一番辛い方法です」とT先生はやや感情的な物言いをした。最後まで、かすかにでも「本人」に生きようとする力が残っている限り、自分はその手助けをするのだ、という彼の言葉は僕に説得力を持った。

僕達は、遺体の納められた段ボールの棺を住居の一室に安置し、しばし新たな涙を流した。遺体は炎天下を運んできたせいか、エアコンを強く効かせた室内にあっても、ことに輸液が吸収されずに膨らんだ腹部辺りは、いつまでもほんのりと温もりを持っていた。見開いていた瞼は、このときにようやく閉じさせることができた。僕達は、死出の旅の「お弁当」として、ニンニンが長い間好んだブランドのキャットフードを手に持たせ、マリーゴールドや猫じゃらし、ニンニンが好んだ猫遊びグッズ、LA時代からのパートナー、マックとヨーダの写真などで遺体の周囲を飾った。

妻と二人で相談し、かねてより決めていた茅ヶ崎の動物霊園に連絡すると、別件でたまたま近隣まで遺体を引き取る車が来ているとのことで、思いの外早く迎えの車が来た。夕刻にはニンニンを送り出し、しばらくしての驟雨。合掌。