谷口雅春先生の女性差別の教え資料集

21世紀生長の家研究会


★『いのちの革命』


●…・職業婦人タイプの女性は既に古き時代の婦人となったのである。それは商業主義、営利主義、資本主義時代の旧体制の女性である。新しい時代には新しい時代の女性が要求せられる。ヒットラーが、ドイツを再興せしむるために第一に女性に対して呼び掛けたところの叫びは「女性よ、職業戦線より帰って、家庭において、良き妻となり、良き母となれ」ということであった。

(『いのちの革命』谷口雅春、日本教文社、昭和41年、160頁)

● 女性は又、知的な労務に従えば従うほどその姙孕力(にんふりょく・※1)は減じて来る。教育なき長屋のカカアが子沢山であり、最高教育を受けた、何不自由なき富豪の娘が不妊で後嗣者(あとつぎ)がないなどの実例は実にたくさんあるのである。こういうことはなぜ起こるであろうか。多くの知的な労務は、男性の天分に属するがゆえに、女性が知的になればなるほど、心が男性化し、したがってその肉体も男性化し、女性生殖腺が発育不全となるのである。……・(途中省略)…・すなわち知的にあまり女性が進歩するときは、男性類似性肉体にまで進化して、女性生殖器に退行性萎縮的発育不全を起こすに至るのである。


研究会注
(※1)妊娠する能力のこと

(『いのちの革命』谷口雅春、日本教文社、昭和41年、161−162頁)

★ 『日本を築くもの』

 およそ日本的なるものとは如何なるものであるかというと、中心に帰一するということ、陰陽が揃うて、陽が中心であり、陽が上にあるということであります。ご覧下さい。この湯呑(ゆのみ)には蓋があるでしょう。蓋と容れ物(いれもの)と二つ揃(そろ)っている。日本ではちゃんと蓋が上にあるのであります。日本の湯呑には、こうしてちゃんと蓋があるのに、西洋人の発明したところのコーヒー茶碗あるいは紅茶茶碗には蓋がない。受ける容れ物ばかりであります。受ける容れ物は女性であります。陰陽そろっていない。ただ女性のほうだけ、受身がある。女性は仰向(あおむ)いて入れてもらう器(うつわ)です。こうして蓋である男性をないがしろにして女性ばかりがのさばっているのがイザナミ文化なる西洋の理念であります。ところが日本では一々の茶碗でも、ちゃんと蓋つきの茶碗である。無論、安物の茶碗には蓋がない。人間でも安手の人間では女性ばかりのさばってカカア天下であります。上等の茶碗にはみな蓋がついています。コーヒー茶碗に蓋がついているのを見たことがない。イザナミ文化の女性ののさばる精神が食器にもあらわれているのであります。……・・(途中省略)…・・今や日本の女性は西洋の洋服を着て、日本の洋服はないけれども、西洋の洋服を着て、そして女のくせに、右襟(みぎえり)が左襟(ひだりえり)よりも前進した体裁の洋服を着ている。この右は女性を表わす。右は水極(みぎ)であって陰極を現す。左は陽足り(ひたり)≠ナあって男性である。西洋人の発明した女の洋服が右襟が左襟より進出しているのは、イザナミ文化の女性が、男性よりも先ず進出する象(かたち)をあらわしている。
 左よりも右が進出する文化の発達するときは天地の秩序が逆転しているから危機が近づいている証拠である。

(『日本を築くもの』日本教文社、昭和42年、谷口雅春選集第14巻21−23頁)

★『古事記と現代の預言』


●男性は左から「進む」のですが、女性は右から「退く」のです。その「進む」と「退く」とは野球のピッチャーとキャッチャーのような一対をなしているのです。男性はピッチャーみたいなものです。それで女性はキャッチャーのハタラキをして調和が得られるのです。
 男性のハタラキをするピッチャーは投手であってボールを積極的に投げ込むほうだ。それを素直にスーッと受けとる方が、これがキャッチャーで捕手の方だ。妻は夫から投げかけられた命令を素直にスーッと受け取らぬといかん。手を後退するようにして受け取らんといかんのです。手をつき出してボールをピシリと受けたら、ボールがカツッと手に衝突して、痛くって痛くって仕方がないということになるのであります。投手の投げたボールを素直に掌(てのひら)を後方に退けながら受け取ると、「投げる」と「受ける」とが一体になってまことに調和したゲームがいとなまれるのであります。女性は受け取る方で素直にスーッと退いて受けるがよいのであります。そしたら点数をかせぐことができる。女性は右で「右は退く」男性は左で、「左は進む」――左進右退、これが天地の法則になっているわけであります。

(『古事記と現代の預言』谷口雅春、74−75頁)

●「女性のイザナミは右であり、退くのが天分でありますから凹(おう)であります。男性のイザナギは前進ですから凸(とつ)であります。
 この凹凸が自然の天分のように運行したとき、そこに何らの衝突も起こらなくなりますが凹が天分に反して凸出(とっしゅつ)して行くならば衝突して夫婦喧嘩をするより仕方がないことになるわけで、矢張り女性は、その生殖器が示しているように、素直に夫の言うことを受け容れるとき、夫とピッタリと一つになり、女性としての喜びが感じられ、生き甲斐が感じられ、一家も繁盛することになるわけなんであります。…・・女性が女性の天分を失った生き方をすると子宮癌にかかることがあります。」

(『古事記と現代の預言』谷口雅春、76頁〜77頁)

★『人生の秘訣365章』


●希望実現の第十則「夫唱婦和(ふしょうふわ)」

 子供が夫婦の間に生まれない場合には、夫唱婦和の原則がその家庭に行はれてゐないのが原因であることがある。希望実現の第十則は夫唱婦和≠フ天地の法則に従ふことである。夫は天≠フ位置にあり、妻は地≠フ位に坐す。天は高くして地を覆い、地は低くして天を受け、天は陽徳を備へ地は陰徳を備へ、地は天の気を受けて排斥せずそれを内に孕むのである。陽は火徳(かとく)を備へて烈々として激しけれども、陰は水徳 を備へて柔かくしなやかに柔順の徳を備えているのが天地の道理なのである。妻が柔順の徳を失うとき、河の流れが旱魃にて水を失ひたるが如く、水田が乾いてヒビ割れたるが如く、そこに生命が棲むことが出来ないのである。
(『人生の秘訣365章』谷口雅春 日本教文社105頁)
★谷口雅春『住吉本宮建立の本義』〜鎮護国家出龍宮顕斎殿と入龍宮幽斎殿との関連について〜 『生長の家五十年史』所収★(現代仮名遣いに直しました)
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 『古事記』の天地創造の神話が預言していることは何かと言うと、最初に発達するのは女性優先の世界であると言ふことです。伊邪那美神様がまづ声をかけて、そして子供が生れた。それが女性優先の世界、物質優先の世界です。
 大体、この陰陽を物質と霊とにわけますと霊のほうはすべてアイデアをもって色々のものを創作し、計画し、それを実行するように推進めてゆく積極性を持っている、陽性であります。男性はまさにそういう天分を持っているのです。
 物質のほうは、自ら、あるアイデアを思い浮べることもなければ、計画を推進めることもないわけです。それで男性の計画したその計画通りにその家を治めて行く、というのが大八嶋国の、日本国の道徳的基準ということになっているわけなのである。これを世界的に解釈すると、アメリカ式の西洋文明というものは、女性優先、言換えると物質優先の文明であります。それで、世界の文化を西洋文化と東洋文化にわけると、東洋文化というのは、たくさんにわかれていてもみんな一つであるという、そういふ根本的な生命観がある、それが宗教です。宗教といふものは、人種を超え、国家を超え、民族を超えてどんなにそれがわかれておっても一つの神様の生命によって互いに兄弟であるという、そういう考えを持っている。
 東洋に発達した文化というものは宗教文化であって、佛教は無論のこと、儒教にしても、道教にしても、日本の神道にしても、すべて霊的なものは、霊には境がないから、みな一つであるという、互いに仲良くなる原理を持っている。
 ところが西洋文明というのは、分割して支配せよ、という根本法則によって成立っているわけなのであります。それで、西洋文明、物質文明というのは、物資を細かく割って分子とし、分子を細かく割って原子として、原子をもう一つ細かく割って原子爆弾にして、それで宇宙の一切のものを粉砕して死の世界にまで追い込んでしまう。これが物質文明の最後の土壇場である。今や、西洋文明の、物質文明の最後のギリギリのところで、ただ、力のバランスによって核戦争が起こらないという危機一髪のところにまで来ている。もし、ソ連のほうがアメリカより軍事的にはっきり優勢であるとわかったらいつソ連はアメリカに対して攻撃をしかけるかもしれない。そうなれば、今の人類の三倍か五倍も死んでしまって、それでもなお、核兵器が余るという。これが物質文明の成れの果なのです。
 『古事記』では、伊邪那美神様は黄泉(ヨモツ)大神という名で呼ばれているのであります。黄泉国とは冥土の国のことです。その黄泉国、冥土の国の大神が、伊邪那美神様になっている。つまり物質文明は、結局、死の国につながる文明であると言うことが、預言的に、神話的に書かれている。それで伊邪那岐(イザナギ)神様と心の波長が合わないで、しばらく会わないでおられた。ところが、霊の神様である伊邪那岐神様が、妻である伊邪那美神様にしばらく会わなかったからというので、黄泉国へ入って行って伊邪那美神様を訪問しておいでになりました。
 そして、お入りになって声をかけられた。伊邪那美神様は姿を現わされないで「ただ今、見苦しい姿をしておりますから、しばらくお待ち下さいませ」とこう言いました。それで、しばらく待っていたけれども出て来ない。待ち遠しく思って自分で奥の方へ入って行かれました。そして、揚戸(あげど)をあけて、櫛の歯に燈をともして、つまり、奇魂(くしみたま)の智慧をもって、伊邪那美神様の御姿をご覧になったのであります。すると、その美しい伊邪那美神様の裸の姿が仰向けに寝ておられるはずなのですけれども、その伊邪那美神様の身体中に蛆がたかっているのです。『古事記』にはそれがこのように書かれてある。「宇士(うじ)たかれとろろぎて、頭(みかしら)には大雷(おおいかづち)居り胸には火雷(ほのいかづち)居り腹(みはら)には黒雷(くろいかづち)居り、陰(みほと)には拆雷(さくいかづち)居り…・」雷というのは、爆弾が炸裂するそのシンボルに使ってあるのであります。物質文明の最後の極点の人類絶滅の戦いの象徴として、死の国の大神として伊邪那美神様が寝ておられるのです。
 その姿をご覧になった伊邪那岐神様は、こんな穢(きたな)い伊邪那美神に私は惹きつけられておったのか、私の心は汚れた。そして、「吾(あ)は、いなしこめしこめき穢き国に至りて在りけり。故(か)れ吾(あ)は御身(おほみま)の禊(はらひ)せな」と仰せられた。御身体の禊祓(みそぎはらい)をしなければならないと仰せられた。そして、竺紫日向橘小門之阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはら)というところで禊祓をせられたのであります。そうすると汚い色々の神様が出て来られて、最後に宇宙浄化のしめくくりに、住吉大神がお出ましになったのであります。
 伊邪那岐神様というのは、宇宙を如何なる相(すがた)に創造るかというアイデアの本源の神様です。伊邪那美神様は、そのアイデアに従って、物質的な相を、西洋文明として現す、その役目をしておられる。ですから、宇宙の本当の創造主(つくりぬし)というのは、伊邪那岐神様です。伊邪那岐神様が禊祓するというのは、宇宙全体の大浄化作用が行われるということを意味しているのであります。その宇宙浄化の最後の浄めをなす神様が、住吉大神なのであります。