斉太公(太公望呂尚)の特集
春秋五覇

本紀・世家・列伝 抄録
秦本紀  秦の先祖の伯翳は禹をたすけた。穆公は義を思い、コウ山で戦死した軍隊を哀悼した。また、その死にあたって、人を殉死させた。詩経の秦風・黄鳥篇はそれにたいする哀歌である。昭襄王は帝業の基礎を築いた。

 太史公曰く、秦の先祖はエイ姓であった。その後、各地に分封されたので、その封国の名を取って氏姓とした。それらには、徐氏・タン氏・キョ氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・脩魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏などがあった。しかし、秦室は、その先祖の造父が趙城に封ぜられたのにちなんで、趙氏を姓とした。
呉太伯世家  周の太伯は季歴を避けて江蛮の地(呉)におもむいた。文王・武王が興起した所以であり、呉は古公(大王)が王道を創めた遺跡ともいうべきである。闔盧は呉王僚を弑殺して荊楚を服従させた。夫差が斉に勝って、伍子胥は馬革につつまれて投水された。太宰ヒを信じて越と親しみ、呉国は滅亡してしまった。太伯が季歴に譲ったことを嘉する。

 太史公曰く、孔子は、「太伯は至徳の人というべきだ。みたび天下を譲ったが、つねに隠微の間におこなったので、民はその意のあるところを知らず、したがって、称揚するものがなかった」といっている。わたしは、春秋時代の古文を読んで、はじめて、中国の虞と荊蛮の句呉とが兄弟の国であることを知った。延陵の季札の仁心は、義を慕ってきわまることなく、事の微細なるものを見て、その清濁を識別した。ああ、なんと博覧博識の君子人ではないか。
斉太公世家  甲・呂の二国が衰微すると、尚父(太公望)は微賤になった。ついに西伯に帰属したが、文王・武王は師として仰いだ。その功績は群公に冠絶し、それとはなしに権謀をほどこした。年老いて黄白の頭髪をいただいた彼は、斉の栄丘に封ぜられた。柯の盟約にそむかなかったので、桓公は栄え、九たび諸侯を会同して覇者としての功績が顕著であった。臣下の田氏とカン氏とが君寵をあらそったために、姜姓(太公望の子孫)は瓦解し滅亡した。尚父の謀を嘉する。

 太史公曰く、わたしは斉に遊んだが、西は泰山から東は琅邪まで、北は海に至るまで、肥沃な土壌が二千里にわたって続いている。その人民が闊達で、知恵を深く蔵しているものが多いのは、風土による天性である。国祖の太公望呂尚は、その聖徳をもって国本をつちかった。桓公の盛時には善政をおさめ、諸侯の会盟をつかさどって覇者と称したが、当然のことである。斉は洋々として広大、まことに大国の風ありというべきである。
宋微子世家  ああ箕子か。ああ箕子か。正言して用いられず、狂人をよそおって奴隷になった。武庚が死んでから、周はその後に微子(紂王の庶兄)を封じた。襄公は礼を守って、楚のために泓水に破られた。礼を守った襄公を称讃せずして、君子は誰を称讃しようか。景公が謙譲の徳をたもったので、ケイ惑(火星)が運行を変えて宋から退いた。剔成が暴虐であったので、宋は滅亡した。微子が封につくとき太師(箕子)に政道を問うたのを嘉する。

 太史公曰く、孔子は、「微子は去り、箕子は奴隷となり、比干は諌めて死んだ。殷には三人の仁者があった」と称揚している。春秋には宋の乱政を謗っている。宣公が太子を廃位して弟を即位させてから、十世の間、国家はやすらかでなかった。襄公のとき、仁義を修行して、諸侯の盟主(覇者)になろうとのぞんだ。大夫の正考父がこのことを賛美し、契・湯王・高宗などのときに殷が興隆した所以を追想叙述して、商頌をつくった。襄公は泓水でやぶれたが、君子人のなかには襄公を多とするものがある。中国に礼儀がかけているのをいたんで褒めるのであり、宋の襄公には礼譲の心があったからである。
晋世家  武王が崩じてから、叔虞(武王の子、成王の弟)が唐(のちの晋)に封ぜられた。穆王が太子を仇と名づけ、末子を成師と名づけたので、君子は太子の名を謗ったが、はたして、晋の曲沃の武公(成師の子孫)に亡ぼされた。献公が驪姫の愛に溺れたため、晋は五世にわたって乱れた。重耳(文公)は意を得ずに諸侯の間を転々としたが、ついによく覇業を成し遂げた。六卿が政権をもっぱらにしたために、晋の国力は消耗した。文公が珪・鬯を賜ったことを嘉する。

 太史公曰く、晋の文公はむかしのいわゆる明君である。亡命して国外におること十九年、非常に困窮した。即位して行賞するにあたって、名君であったにもかかわらず、介子推を忘れた。まして、驕主の場合には、いうまでもあるまい。霊公がすでに弑殺され、その後、成公・景公が峻厳な政治を施き、詞にいたって非常に酷薄であった。大夫は誅殺を恐れて禍が起こった。悼公以後は日々に衰えて、六卿が権を専らにした。君道を修めてその臣下を制御することは、真に容易ならざることではないか!
楚世家  重・黎がはじめて南正・北正の官に就き、呉回がそれをついだ。殷の末世に、粥子から系譜があきらかになった。周は熊繹を用い、熊渠がこれを継いだ。荘王は賢明で、陳を亡ぼしたがまた復興させ、さらに、鄭を降ろしたが鄭伯を赦し、宋を包囲したが華元の言を聞き入れて軍をかえした。懐王は秦で客死した。蘭(子蘭)が屈原をとがめた。平王は諂いを好み、讒言を信じたため、楚は秦に併合された。荘王の義を嘉する。

 太史公曰く、楚の霊王が諸侯を申に会し、斉の慶封を誅殺し、章華台をつくり、周の九鼎を求めたころには、その志は天下をうることさえも小さいとした。ところが、申亥の家で餓死するにおよんで、天下の物笑いとなった。行為が道義に合わないのは、実に悲しいことである。人は権勢を得たからといって、慎まなければならない。棄疾(平王)は国の乱れに乗じて即位し、秦の公女を寵愛しすぎた。実にあきれたことである。この二人は、合わせて二度も国を亡ぼそうとしたのだ。
越王句践
世家
 少康(夏の帝王の子)は実に南海に追いやられ、身にいれずみをほどこし、頭髪を断って、うみがめやよろいがめとともに生活した。その後、封禹山をまもり、始祖である禹の祭祀を奉じた。句践は会稽山に苦しみ、種(大夫種)と蠡(范蠡)を用いた。句践が蛮夷のなかにありながら、よくその徳を修め、強大な呉を亡ぼして周室を尊んだことを嘉する。

 太史公曰く、禹の功績は偉大である。九川をみちびいて九州を定めた。そのため、現在にいたるまで、中国は安らかに治まっている。苗裔の句践にいたって、身を苦しめ、心を集中して、ついに、強大な呉を亡ぼし、北上して兵威を中国に示し、周室を尊び、覇王と称した。句践は賢人というべきである。思うに、禹の遺烈をうけついだのであろう。范蠡はみたび移って、すべて栄名があり、名は後世に伝わった。君主も臣下もこのように賢明であった。世に顕れまいとのぞんでもでき得ようか。